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第一話 医師と寿司職人に共通する倫理
一限目、二限目で、 ① 利己的正しさ、 ② ②利他的正しさ、 ③ ③慣性的正しさ、 の3つの「正しさ」を講義しました。立場によっても「正しさ」は変わると言いましたが、私たちはこのことをあまり意識していません。その人のネームバリューで、立場を度外視して信じてしまうところがあります。わかりやすい例が、専門家です。私たちは日頃、テレビのニュースや新聞を通して、コメントなどを発表するのが、何が「正しい」のかをジャッジしようとします。そのときに、いわゆる専門家です。 私なども、学者ですからテレビなどでは専門家の範疇に入れられていますが、この専門家というのが難しいのです。立場によって「正しさ」が異なるわけですから、専門家が「それでいいんだよ」と言ったからといって、それが必ずしも正しいとは限りません。 原発事故のあとも、多くの専門家がテレビに登場しましたが、それぞれの「解釈が異なる」わけですから、彼らは決して「正しい」ことを口にしていたわけではない、とこうなるわけです。 専門家の中でも特に特異なのは、医師という存在です。 私などは、つくづく医師って不思議な仕事だなあ、と思います。医学は「学問」ですから、哲学と同じように追求していくものです。ところが哲学には多くの解釈があります。Aという哲学者の思考を、Bという哲学者が「それは違う」と否定することもできる。ひとつのものごとを巡って、解釈が異なるのです。 これは文学でも経済学でも同じです。それぞれの専門家は、自分のよって立つ信念に従って発言をする。こういう人たちがテレビに出ると、「専門家」というポジションになるわけです。 では医師は、何によって立つのでしょうか。 ひとつは臨床や研究で、その社会だけで一定の評価を得た方法です。つまり、「この症状には、この治療法を選びなさい」と決まっているのです。もちろん、最初の見立てによって、治療法が変わることがありますが、それは見立てが違うというだけ。「この病気には、この治療」というのは、勝手に変更できません。技術もそうです。また技術的には特殊な技術が必要で、例えば注射ひとつとっても、勝手に打つというわけにいきません。長期間、高度な修練を積んで、ようやく、オペや注射が許される。 職人も同じく、長期間、高度な修練を積む必要がありますが、到達点はまちまちでかまいません。しかも、習得した技術を使って作り出すものは、おのおのに任せられる。 いわば、勝手な創作が許されているのです。医師はそういうわけにいきません。学んだワザは、学んだそのままに、学んだ目的通りに駆使しなければならないのです。 さて、テーマは「正しさ」です。この「正しさ」の観点から考えると、医師という職業は非常に難しいのです。なぜなら、医師は「不特定多数」の人間に対して、責任を取らなければならないからです。 サラリーマンと比べてみてください。例えば、会社の「正しさ」は何かといったら、それは「社長の判断」です。社長が言うなら、脱法してもいい、というのではないですが、ビジネス上のジャッジから、社内での立ち居振る舞いに関して、社長が「こうだ!」と決断したことは、その会社にとっての「正しさ」になるということです。 楽天の三木谷浩史社長は、机の上をきれいにしていることは、すなわち仕事の効率化につながると考えているそうです。ですので、社員に机の上を整理することを徹底させています。帰宅するときは、机の上に何も置かれていないことが理想だそうです。これは三木谷社長の考える「正しさ」です。「そんなのおかしい!」と考える社員もいるかもしれません。でも、会社の正しさは社長が最後に決めるのですから、一社員が「違う」と言っても仕方ないのです。意見をすることはできるかもしれませんが、受け入れられなかったら諦めるしかありません。 『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.09.10 00:00:25
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