四十八 時間の効用
かくて人生をニヒリストと、リアリストの目で冷たく見据えている常朝は、この人生を夢の間の人生と観じながら、同時に人間がいやおうなしに成熟していくことも知っていた。時間は自然に人々に浸み入って、そこに何ものかを培っていく。もし人がきょう死ぬ時に際会しなければ、そしてきょう死の結果を得なければ、容赦なくあした へ生き延びていくのである。
常朝は六十一歳まで生き延びたときに、しみじみと時間の残酷さというものを感じたにちがいない。一面から見れば、二十歳で死ぬも、六十歳で死ぬも同じかげろうの世であるが、また一面から見れば二十歳で死んだ人間の知らない冷徹な人生知を、人々に与えずにはおかぬ時間の恵みであった。それを彼は「御用」と呼んでいる。「御用」とは何か。さきにも言ったように、武士として役に 立たぬことには一顧も払わなかった彼は、一方では、はかない世を心にとめながら、一方では、あくまでプラクティカルな実用的な哲学を鼓吹した。そこで彼は「身養生さへして居れば、終には本意を達し御用に立つ事なり。」という、もっとも非「葉隠」的な一句を語るのである。彼にとって身養生とは、いつでも死ねる覚悟を心に秘めながら、いつでも最上の状態で戦えるように健康を大切にし、生きる力にみなぎり、100パーセントのエネルギーを保有することであった。
ここにいたって彼の死の哲学は、生の哲学に転化しながら、同時になお深いニヒリズムを露呈していくのである。
「皆人気短(きみじか)故に、大事を成らず仕損ずる事あり。いつまでもいつまでもとさへ思へば、しかも早く成るものなり。時節がふり来るものなり。今十五年先を考へ見候へ。さても世間違ふべし。未来品などと云ふも、あまり替りたる事あるまじ。今時御用立つ衆、十五年過ぐれば一人もなし。今の若手の衆が打つて出ても、半分だけにても有るまじ。段々下り来り、金払底すれば銀が宝となり、銀払底すれば銅が宝となるが如し。時節相応に人の器量も下り行くなれば、一精(ひとせい)出し候はば、丁度御用に立つなり。十五年などは夢の問なり。身養生さへして居れば、終には本意を達し御用に立つ事なり。名人多き時代こそ、骨を折る事なり。世間一統に下り行く時代なれば、その中にて抜け出るは安き事なり。」(聞書第二 一八二頁)
『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240912 P83