「苦界浄土」(1969年、石牟礼道子)
2019年も、もう20日以上、経過してしまいました。今年、私は、今まで以上に、日々一瞬を大切に過ごしていきます。さて、今日は、日本文学史上の不朽の名作「苦界浄土」(1969年、石牟礼道子)について書きたいと思います。私が「苦界浄土」を読んだのは、著者の石牟礼さんが昨年2月にお亡くなりになってから後のことでした。お名前も作品名も良く存じ上げていましたが、何故か手にとらないまま生きてきてしまったことをとても恥ずかしく感じ、以降、何度も読み返し、読む度に、心が震えてしまいます。話は変わりますが、「本を積んだ小舟」(1995年、宮本輝、文春文庫)という本があります。作家の宮本輝さんがご自身で選書された32もの作品をご紹介して下さるという、宮本輝さんのファンは勿論、本が好きな人にとってもたまらない一冊ですが、この中で、深沢七郎さんの「楢山節考」が取り上げられています。姥捨山伝説を下敷きに、宮本さんの表現をお借りすれば「どこか乾いているような冷めているような、それでいて登場人物も読者を突き放しているとは思えない不思議な文章によって書かれた」これもまた不朽の名作として永遠に残り続ける作品です。宮本さんは、この「楢山節考」を中央公論新人賞の選者として読むことになった正宗白鳥さんの選評を次の通り引用して、この作品の魅力を伝えていらっしゃいます。今年の多数の作品のうちで、最も私の心を捉えたものは、新作家である深沢七郎の「楢山節考」である。(中略)私は、この作者は、この一作だけで足れりとしていいとさえ思っている。私はこの小説を面白ずくや娯楽として読んだのじゃない。人生永遠の書として心読したつもりである。長々と引用しましたが、私は、「苦界浄土」を読んだ時に、石牟礼さんは、苦界浄土を書くためにこの世に生まれてきたのだ、とでもいうべき心の奥底が震えるような感覚を感じると共に、「この作者は、この一作だけで足れり」と言い切った正宗白鳥さんの言葉が蘇りました。ああ、正宗さんは、きっと今私が感じているような深い感動を、楢山節考をお読みになったときにお感じになったのだろうと思ったのです。「苦界浄土」は、「わが水俣病」という副題がついている通り、石牟礼さんの視点で、水俣病の患者さんに寄り添って書かれた文章なのですが、実際の患者さんをモデルにしているのに、ノンフィクションでもなければ、小説ともいえない、既存のジャンルに当てはめることができない不思議な作品で、良く石牟礼作品の枕言葉につけられる「魂の文学」という言葉ですら、その奥深く深遠な本質に辿り着いていないような感じがする石牟礼さんにしか書けない唯一無二、空前絶後の作品です。水俣病の病状の凄まじさ、ここまで言葉でえぐり出したことにまず圧倒されます。死んで終わる苦しみですらない、諦めることができる筈もない底知れぬ絶望を一歩も引くことなく逃げることなく、患者さんの心の中にまで入り込んで描き出しています。すみません、私は、患者さんの苦しみを描写した部分はどこを引用すべきか選べませんでした。とても切り取れないのです。そのまま丸ごと受け入れるしかないのだと思います。石牟礼さん自身が次の通り、表現されている通り、生き地獄の中でもがき苦しむ患者さんの魂が石牟礼さんに移り住んでしまったから、生まれた文章だったのでしょう。石牟礼さんものたうちまわったのではないかと思います。でも、だからこそ、我が苦しみとして書かずにはいられなかったのではないかと思います。この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。(ゆき女きき書)それ程鬼気迫る惨状の中だからこそかもしれません、石牟礼さんにしか書けない、奈落の底の絶望から浮かび上がってくる患者さんたちの中に、確固として存在する人間としての矜恃、尊厳・・・どういう言葉で表現するべきか悩みますが、人間の気高さと悲しみが匂い立つ瞬間は、私の心を揺さぶり続けました。たとえば、患者さん達が、語る「水俣病前」の生活、当たり前の日常の生活は、「郷愁」等という既存の言葉で評価することはできない現実世界を凌駕した幻想的な美しさです。今は理不尽にもなくなってしまった幸せ、でも、確かに存在した過去の幸せが宝石のように結晶化したからこそ生まれるこの世のものとは思えない美しさだと思います。私の筆力でこの美しさを説明したり、再現したりすることは不可能なので是非本文にあたって頂きたいのですが、ほんの少しだけご紹介します。私は、今まで生きてきて、これほどまでに心打たれる日本語に出逢ったことはありません。ぐるっとまわればうちたちのなれた鼻でも、夏に入りかけの海は磯の香りのむんむんする。会社の臭いとはちがうばい。海の水も流れよる。ふじ壺じゃの、いそぎんちゃくじゃの、梅松じゃの、水のそろそろと流れてゆく先ざきに、いっぱい鼻をつけてゆれよるるよ。わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる。海松は海の中の崖のとっかかりに、枝ぶりのよかとの段々をつくっとる。ひじきは雪やなぎの花の枝のごとしとる。藻は竹の林のごたる。海の底の景色も陸の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ、きっと海の底に龍宮のあるとおもうとる。夢んごでうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。どのようなこまんか島でも、島の根つけに岩の中から清水の湧く割れ目の必ずある。そのような真水と、海のつよい潮のまじる所の岩に、うつくしかあをさの、春にさきがけて付く。磯の香りのなかでも、春の色濃くなったあをさが、岩の上で、潮の干いたあとの陽にあぶられる匂いは、ほんになつかしか。そんな日なたくさいあをさを、ぱりぱり剥いで、あをさの下についとる牡蠣を剥いで帰って、そのようなだしで、うすい醤油の、熱いおつゆば吸うてごらんよ。都の衆たちにゃとてもわからん栄華ばい。あをさの汁をふうふういうて、舌をやくごとすすらんことには春はこん。自分の身体に二本の足がちゃんとついて、その二本の足でちゃんと体を支えて踏ん張って立って、自分の体に二本の腕がついとって、その自分の腕で櫓を漕いで、あをさをとりに行こうごたるばい。うちゃ泣こうごたる。もういっぺん-行こうごたる、海に。(ゆき女きき書)そら海の上はよかもね。海の上におればわがひとりの天下じゃもね。魚釣っとるときゃ、自分が殿様じゃもね。銭出しても行こうごとあろ。舟に乗りさえすれば、夢みておっても魚はかかってくるとでござすばい。ただ冬の寒か間だけはそういうわけにもゆかんとでござすが。魚は舟の上で食うとがいちばん、うもうござす。沖のうつくしか潮で炊いた米の飯の、どげんうまかもんか、あねさんあんた食うたことのあるかな。そりゃ、うもうござすばい、ほんのり色のついて。かすかな潮の風味のして。かかは飯たく、わしゃ魚ばこしらえる。(中略)あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこゆけばあろうかい。(天の魚)・・・言葉が出ないですね。解説もいらないですね。ただただ圧倒されます。私は、正宗白鳥さんではないですが、苦界浄土を「人生永遠の書」として大切にし続けたいと思います。そして、私は、私自身が、石牟礼さんのいらした奈落とは違うけれど、私の違う奈落を体験していること、だからこそ、これほどまでに石牟礼さんに共振してしまったのではないかと感じることもあります。石牟礼さんの文章は、石牟礼さん固有の世界を描きつつも、人間誰もが抱えている生きることに必然的に伴う深い悲しみ、苦悩を揺さぶります。だからこそ、多くの人が衝撃を受けたのだと思いますし、どれほど時が経っても色あせないのだと思います。最後に、石牟礼さんと寄り添い続けた編集者である渡辺京二さんの石牟礼さん評をご紹介しておきます。一言一句同感です。(2018年12月27日付朝日新聞)誰よりも言語感覚に優れていながら、まるで無文学社会の民のような鋭敏な感性もあわせ持っていました。特に命を持つ者への共感能力ですね。幼いころ、精神を病んだ祖母の世話をして育ったことが大きかったのでしょう。その祖母や、近所の妓楼の遊女たちを見る大人たちの表情にも敏感だったはずです。人の心は決して通じ合わずまるで引き裂けているような世界をこの目で見てしまったのでしょう。この世はいやだ、生まれてきたのはいやだ、とぐずり泣きしている幼女が石牟礼さんです。そこから歩み出した彼女が遺した小説からは、命を削っても表現したかったことがちゃんと伝わってきます。ぜひ読んで頂きたいと思います。