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カテゴリ:読書日記
移動時間中に、一気読み。引き込まれるように読んだ。
帯に「30年間、闘ってきた」とある通り、原発危険性を司法の場で「訴訟」という形で訴え続けてきた弁護士の闘いの歴史だ。 息を詰めるようにして読んだ後、1度、頭を通しただけでは足りない。何度でも何度でも繰り返し読みたい、読まなければならない本だと思った。 30年も前から、危険なことを危険だと訴え、敗訴に次ぐ敗訴を重ねながら、それでも諦めずに原発の危険性を問うあらゆる種類の司法判断を求め続けてきたということが、冷静で論理的な文章で綴られており、事実の迫力にただただ圧倒される。よく「新書」というコンパクトなサイズに、まとめてくださったものだ。この分量のお陰で誰でも手を取ることができるが、内容の深さは紙量に比例しない。 後書きの「個人的な想いを記して本書を閉じることをお許し願いたい」からの一節は、抑えた筆致ながら、海渡弁護士の一人の人間としての想いがほとばしっていて、私は、電車の中だったのに、泣けて仕方がなかった。 私がとても印象に残った箇所をほんの少しだけ、ご紹介します。 私の三十一年間の弁護士生活の大きな目標が原発事故による破局を未然に防ぎたいという点に集約されることは、本書をここまでお読みになった方には理解していただけるものと信ずる。 すでに述べたように、東北地方太平洋沖地震が発生し、福島第一原発がステーション・ブラックアウト(全電源喪失)に陥った時、私は炉心の融解は避けられず、破局的事故の始まりを認識した。そして、自分のこれまでの弁護士活動、ひいては人生そのものが無駄だったのではないかという深い絶望に囚われた。 この下りは、胸が詰まる。 私は、海渡弁護士のような先見性も能力もまったくなく、今回の事故発生まで、原発という存在に対して無知、無関心だった。 そんな私でも、あの事故後、目の前が真っ暗になっていくような自責の念と絶望感を感じた。 私が2年半、相馬でやってきたことは自己満足にすぎないと感じた。 津々浦々にひまわりの花を!法の支配を!なんていってみても、生活の基盤を、人生そのものを、根底から破壊されてしまった人々の被害を未然に防ぐことができなかった時点で、何の意味もなかった、と思った。 正確にいえば、「思った」のではなく、いまでもそう「思っている」・・・。現在進行形の苦しみは、多分、一生背負っていかなくてはいけないものだ。 私ですらそう思うのに、30年間の弁護士人生を懸けた闘いが最悪の結果を迎えた瞬間の海渡弁護士の絶望感は、想像を超えたものがある。 他人が引き受けられる絶望感ではない。 それでもなお、「破局的な原発事故の後にも弁護士としてやらなければならない仕事がある」と気持ちを切り替えているその強靱さに、とても感銘を受けた。自分も絶望を振り払って続かなくてはいけないと思った。 別記事で近日中に取り上げようと思うが、「原発危機と東大話法 傍観者の論理・欺瞞の言語」(安富歩、2012年、明石書店)に出てくる驚くばかりの無責任な「御用学者」「原子力安全・保安院」(著者によると、正しい名称は「原子力危険・隠蔽院」とのこと)と、海渡弁護士の真摯な姿勢とのあまりの乖離には、怒りを通り越して呆れてしまうけれど、それでも、その現実の中で、声を上げていくこと、続けていかなければ、と思った。 「原発訴訟」、私にとっては、いつも鞄にそっとしのばせておきたい1冊です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.02.16 05:17:54
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