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弁護士YA日記

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日出町法律事務所
2019年6月より1年間、日本弁護士連合会客員研究員としてイリノイ大学アーバナシャンペーン校に留学後、弁護士業務を再開しました。
弁護士葦名ゆき(あしな・ゆき)
2017.10.21
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カテゴリ:弁護士業務

10月10日、第48回衆議院総選挙が、公示された。
突然の解散から今日までの政治情勢については、喜怒哀楽すべてにわたるほど、思うところが色々あるが、今回はキーワードのひとつになっている「まっとうな政治」について、私が考えていることを言葉に残したい。

「まっとうな政治」という言葉は、できたばかりの新党である立憲民主党がスローガンに掲げたことで注目を集めている言葉だが、報道によれば、他の野党、そして、政権与党も、街頭演説等で、「まっとうな政治を取り戻しましょう」「まっとうな政治を作っていきましょう」といった文脈で使っているということだ。

「まっとう」という言葉は、辞書によって多少表現が異なるものの、「まともであること」「真面目なさま」という意味だから、言葉それ自体には「色」がない。与野党関係なく使いやすい言葉だし、「まっとうな政治」、つまり、まともで真面目な政治を目指すことに、反対する国民は誰もいないだろう。

ただ、ここで重要なのは、「まっとうな政治」の内実とは何か、ということだと思う。
先の述べた通り、「まっとう」という言葉それ自体には色がないので、何を持って、「まっとう」と評価するかは、聴く人の主観に左右される部分が大きい。

この点、「結論」や「結果」に注目すれば、どの政党が「まっとう」なのかは、結局のところ、政党の訴えを聴く人がどの政党の政策を支持するかによって決まってくる。
政権与党の経済政策や外交政策を支持する人々にとっては、政権与党こそが「まっとうな政治」を実現しているということになるだろうし、野党の訴えている経済政策や外交政策を支持する人にとっては、その野党こそが「まっとうな政治」の体現者ということになるだろう。

しかし、「過程」の「まっとうさ」に注目した時に、結論として出てきた政策への評価と、「まっとうさ」の評価が異なることは十分にあり得る。つまり、結論は正しい、「まっとう」、かもしれないが、その結論に至る過程は「まっとう」ではなかった、という評価が生じ得るのである。

結論や結果が「まっとう」であるかどうかは、詰まるところ、個人個人の思想信条に委ねられる部分であり、少なくとも政策論議においては、何を持って「まっとう」であるかについて、科学の真理のように、絶対的な正しい答えを導き出すことは、多くの場合、不可能だと思われる。

ただ、過程がまっとうであるかどうか、は、一人一人の思想信条とは離れて、全ての人が共通の土台で評価できる命題である。
「過程がまっとうであること」を、私が職業柄、日常的に意識している言葉に置き換えると、「手続が適正であること」とほぼ同義となる。

私は、弁護士なので、約15年間、企業、個人を問わず、多種多様な利害対立、多種多様な紛争の真っ只中に身を置いている。

損害賠償を請求する側に立つこともあれば、請求される側に立つこともある。
雇う側に立つこともあれば、雇われる側に立つこともある。
夫側に立つこともあれば、妻側に立つこともある。

どちらの立場の依頼者も、100%といえないまでも、自分が正しいという思いがあり、自分の訴えが実現されてしかるべきだという思いがあり、だからこそ、弁護士の助力を得て、それぞれの立場に沿った形での解決を目指そうとされているし、私たち弁護士も、頼って下さる方々のために、全力を尽くそうとしている。

でも、依頼者のすべての思いがすべて叶えることができないことは、日常茶飯事だ。
主要な理由は、「紛争の場合相手がいるから」であり、場合によっては、「最終的な判断を裁判所に委ねなければならないから」であるが、もっと根源的な理由を言うならば、「正しさは一つではないから」である。

何が正しいのか、は、人によって異なることが当たり前である。
正しさは、一つではない。
正しさは、双方の側にある場合がある。
正しさは、どちらの側にあるともいえない場合がある。
正しさは、無数にある。
・・・私の日常は、この前提の中にある。

このような日常の中で暮らしている私が、仕事の中でもっとも大切にしていることは、当該その事案にとって、可能な限り正しい答え、「まっとうな答え」にたどり着くために、適正な手続を踏んでいく、ということである。
「正しい」と結果だけを100回言い募っても、「正しさ」を証明したことにはならない。

そうであれば、「正しい」ことを訴えていくために、どのような言葉で、どのように主張を組み立て、どのような方法を使って、どのような証拠を添えて、相手方、ないし、判断権者に伝えるか、を考える、考え抜く。
私の日常生活は、15年間、この繰り返しだ。

こんな日々に身を置いている中で、実感していることは、まっとうな手続、すなわち、適正で誠実な過程を経て得られた結果は、当初の依頼者の主張と異なる結果であっても、依頼者が心から納得し、受け入れることができることが多い、ということである。

「適正で誠実な過程」を経た上での納得できる「結果」は、交渉、調停、訴訟等、「過程」に様々なステージがあり、それぞれのステージによって表現の仕方や手法は異なるものの、共通する特徴がある。

1,双方当事者が、自分の言い分をきちんと言葉にすること
2,双方当事者が、相手方の言い分を理解すること
3,双方当事者が、最終的には、「自分」で解決のあり方を決めること

自分の言い分をきちんと言葉にしていく過程で、自分の主張を整理し、客観視できる。
相手の言い分に耳を傾ける隙間が心に生まれ、相手にも相手の言い分があることを受け入れられないまでも、理解できる。
その上で、自分で納得する線を自分で決断して引くことができる。最後の3,は、「判決」や「審判」といった形で、第三者に判断を委ねることもあるが、それでも、1,2,の過程があれば、第三者の判断を受け入れる心境になることは、よくある。

私は、「やるだけやりました」、「言うだけ言いました」、「相手の立場も見えてきました」、「その上であればここで妥協できます」、「この判断も受け入れられます」という境地に達する人々の数え切れないほどの笑顔と涙に立ち会ってきた。
依頼者が当初持っていらしたすべての願いを叶えられない場合でも、ご自身が「この線で良いです。この線で終わらせます」と自分で紛争を終わらせる瞬間に、私は、人間の強さ、気高さを感じることが多々ある。

勿論、いくら過程が適正で誠実であっても、絶対に受け入れられない結果もあり、私も日々、渾身の力を振り絞って闘っているところではあるが、最終的な結果がどうであれ、過程の適正さを保持することは、どんな局面でも投げ出さずに続けているつもりだ。

「まっとうな結果」が何かは誰にも分からないし、人によって異なって当然だ。
でも、価値観が異なる当事者同士でも、「まっとうな手続」を共有できるはずだし、共有しなければらない。私は、そう信じて、ずっと、目の前の仕事に向き合ってきたし、これからもそうするつもりだ。

ここで、「まっとうな政治」に話を戻すと、今の政権与党の政治に決定的に欠けているものは、「過程のまっとうさ」「手続の尊重」である。このことは何度も書いてきた。

https://plaza.rakuten.co.jp/yyy0801/diary/201407010000/

https://plaza.rakuten.co.jp/yyy0801/diary/201510140000/

まっとうな過程を尊重しない者は、まっとうな結果が何かを議論する土俵にも乗れない。
私の日常生活では当然すぎるほど当然のことだ。

私は、今回の選挙で、私の基準で「まっとうな政治」を行ってくれそうな政党や候補者に一票を託そうと思う。






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Last updated  2017.10.21 04:11:06
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