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カテゴリ:弁護士業務
突然の訃報だった。
突然すぎて、また、いろいろな意味で余りにも「あり得ない」訃報だったので、今も、まったく受け入れられないでいる。 新潟弁護士会の二宮淳悟弁護士が44歳の若さで逝ってしまった。 私にとって、二宮さんは、東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故発生以来の災害復興支援活動に従事する大切な仲間だった。 でも、同時に、いや、それ以上に、私に、皆で何かを一緒にやるということの素晴らしさを、もっとも孤独な時期に教えてくれた人だった。「災害仲間」以上の人だった。 二宮さんが、あまりにも屈託なく、あまりにも当然のことのように、私の手を引っ張ってみんなの輪に入れてくれたから、訃報に直面するまで、そのことの意義を自分で振り返って考えることがなかったことを痛烈に悔しく思う。私が、その意味を分かっていたら、ちゃんと御礼を言ったのに。いつもニヤニヤ(正直、にこにこ、じゃないと思う)しているあなたに、面と向かって感謝を伝えるなんてことは、なんとも似つかわしくないのだけれど、それでも、こんなことになるって分かっていたら、あなたがいなくなる世界が訪れる現実を前もって知っていたら、心の底から伝えたと思う。 一番シンプルな「ありがとう」を。ニノ、ありがとうって。いてくれてありがとうって。 あなたに、ありがとうを永久に言えなくなってしまったなんて、とても受け入れられないよ。私だけじゃないよ、誰も受け入れられないよ。 二宮さんは、私にとって、3.11後、ずっと尊敬すべき災害弁護士だったが、お近づきになったのは、2015年、関弁連災害対策委員会の前身、関弁連災害対策PT発足がきっかけだった。 当時、私は、関弁連の東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故対策本部の事務局次長という肩書きで、2011年以来、3.11は当然として、成り行き上、管内で災害発生時に関弁連がどんな支援ができるか的な事業の裏方事務をしていた。この曖昧な説明で分かる通り、私の役割は、私自身も、おそらく、関弁連執行部もよく分かっておらず、毎年執行部含め理事が総入れ替えという関弁連の性質に加え、私の元々の能力不足も手伝い、一人でできることなど本当に限られていた。 そんな状況を、二宮さんは、ひそかに、見かねていたのだろう。関弁連としてこのままの脆弱体制ではまずい、ということもあっただろうけれど、私個人の心配もしてくれていたのだと思う。 2015年3月頃、二宮さんから、関弁連に常設の災害委員会を設置するアイディアはどうでしょう?というフランクなお声かけがあった。二宮さんによれば、次年度が、新潟会選出の藤田善六弁護士が関弁連理事長に就任される予定であるところ、災害連携体制構築に力を入れたいと考えていらっしゃる、ついては、現状で私が担当している業務を含め、特化した委員会を設立し、災害に関する様々な取り組みをできないか、ということだった。そんなことを、二宮さんの親友の群馬会の舘山史明弁護士とも話していて、葦名先生のご意見を聞きたいと思いまして、と。 こんなところで公言するのもどうかと思うが、私は、いろいろな人と話したり、交流したり、その上で自分で考えを深めて、それをまた発信して、といったことが本当に大好きだけれど、一方で、そんなに誰にでも心を開いて誰とでも屈託なく触れ合えるというタイプではない。一人でいろんなことをするのは苦にならないし、一人の時間は割と好きだったりする。 でも、二宮さんは違った。どんな人に対しても、明るく朗らかに、邪気なく、するりと屈託なく入れる人だった。そんな人、二宮さん以外にいるかなと考えると、舘山さんかな、というくらいで(大親友の二人は、「タテニノ」とか「ニノタテ」と呼ばれていた)、なんというか、誰しもが心に持っている壁を、壊しもせず穴も空けず、当たり前のことのように、何の抵抗もなく乗り越えて入ってきてしまうような希有な才能の人だった。 だから、私の心にも二宮さんは、すっと降りてきた。 明るく朗らかに、そしてニヤニヤと。 あの当時、私は、自分自身でも自覚していなかったけれど、今から振り返ると、少なくとも主観的には、ものすごく孤独だったと思う。原発事故の損害賠償は、ここでは本題ではないので詳しくは書かないが、明らかに大きな壁に直面しており、打開策が見えなかった。事故から時間が過ぎ、被害も世論も風化していきつつあった。一方で、管内で起きた災害に何らかの対応も必要だった。でも、自分自身がどういう立ち位置で何をしていったら良いか分からない、流されるままだった、というのが正直なところだった。 そんなときに、すっと来て、すっと手を引っ張ってくれたのが二宮さんだったから、私は、とても嬉しくて、でも、少し戸惑いながら、二宮さんに引っ張り出されるように、舘山さんや二弁の中野明安弁護士と共に、常設委員会設置に向けたPTの活動を始めた。 あれから10年近くも経った。私は、あの時、あんなにも孤独を感じていたけれど、あの時ですら一瞬たりとも一人ではなかったし、今も、一人じゃない。 そう思わせてくれた二宮さんに、私は、今、万感の思いを込めて言いたい。 ありがとう。本当にありがとう。 二宮さんは、私の文章が好きだと何度も言ってくれたよね。本当にありがとう。いつも本当に励まされてきたよ。 でもね、私は、ニノの追悼記事を書くことになるなんて夢にも思わなかったよ。でも、今の私があなたのためにできることが他にないから、書くことにしたよ。でも、こんな文章ではあなたの超越した素晴らしさも皆に愛された生き様も表現しきれないよね。それくらい、あなたは大きな素敵な人だった。 ニノ、もう一度会いたい。 皆がニノにもう一度会いたいと言っているよ。 本当に本当にありがとう。 天国から、みんなを見守ってください。 二宮淳悟さん、本当にありがとうございました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.12.08 17:13:50
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