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弁護士YA日記

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〒420-0837
静岡市葵区日出町5-3
TEL 054-269-4590
FAX 054-269-4591
http://hinodecho-law.jp/
日出町法律事務所
2019年6月より1年間、日本弁護士連合会客員研究員としてイリノイ大学アーバナシャンペーン校に留学中です。
弁護士葦名ゆき(あしな・ゆき)

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相馬写真日記

2012.06.05
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カテゴリ:相馬写真日記
ちょっと間が空いてしまいましたが、

第1弾(キノコ)
http://plaza.rakuten.co.jp/yyy0801/diary/201203240000/

第2弾(カニ)
http://plaza.rakuten.co.jp/yyy0801/diary/201203290000/

に続き、相馬写真日記第3弾!です。
今日のテーマは、郷土力士栃東関!!! 

写真日記の更新に間が空いたのは、純粋に他に書きたいことがあったとか、忙しかったとかいうのもあるのですが、今の私にとって、幸せな相馬を書き起こすことは、ものすごくエネルギーを使うことだから。

そもそも、写真日記は、仕事でもないし、誰に頼まれているわけでもないんだから、別に書き残しておかなくたっていいわけです。

でも、自分が書かなきゃ「かわいそうな瀕死の重傷を負った相馬」ばかりが歴史に残ってしまうんじゃないかという勝手な使命感があって(勝手に背負うなって感じですが)、だから書きたいのです。

ただ、幸せな相馬を書くとき、やっぱり私は涙が止まらなくなってしまいます。どうして毎日一生懸命生きてきた人たちがあんな酷い目に遭わなくちゃいけないのかなあって、もう一度あの時代にタイムスリップできればお金なんか1円もいらないのになあって、考えても仕方のないことを考えてしまうから、かなあ。

・・・このように、色々と心を揺さぶられつつ、結局のところ、書きたくて書くので、どうせ書くなら楽しく書いていきたいと思います!

さて、私は、渋いとよく言われますが、大相撲が好きです。
しかも、中学校時代から好きですから、もう20年の歴史があって、今更他のスポーツに浮気できません。サッカーなんて、未だにルールがよく分からないもの。オフサイドとか、何回説明されても、はあ?って感じです(笑)。

その点、大相撲は良いですよ、あのまあるい土俵を割った方が負け!以上!だもの。
老若男女に愛されるためには、分かりやすいルールじゃないとね~。

大相撲にはまった原因は単純で、貴花田関(当時)がめちゃくちゃかっこよかったこと!
今じゃ、物真似のネタにされたり、奇人変人扱いされがちな彼だけど(まあ、実際、言動はちょっとヘンですよね・・・)、デビューした時の「こ、この人は一体・・・!」とテレビ画面越しに叫びたくなるほどの色気というかオーラはホント凄かった。単に強いだけだったら、あれだけのブームを巻き起こさなかったと思うなあ。

消防団に貼ってあった、若貴兄弟のポスターを頼み込んで1枚分けてもらったり、「貴花田」というそのものずばりの題名の写真集を買ってきて、飽きずに眺めていたり、冷静に考えると紛れもなく変な中学生だった。その上、場所中は、毎日のように、「昨日の貴花田はすごかったよね」と親友いぬさん(というあだ名だったんです)に延々と相撲の話をしていたっけ。

いぬさんは、おしゃべりな私の話をホントに楽しそうに聞いてくれる聞き上手さんだったけど(というか、私は今も昔も、そういう人になつく傾向がありますねえ)、さすがに辟易していなかっただろうか、と今になってようやく反省・・・。

このように最初はミーハーな動機だったのだけど、成長と共にだんだんと、長い歴史を誇る大相撲の文化そのものに魅せられるようになって、ひいき力士だけじゃなくて、大相撲全般が好きになっていった。

で、大相撲好きと相馬と何の関係があるの?ということで、ようやく本題に入ります。

私が赴任していた相馬市は、玉乃井部屋の先代親方である初代栃東関の生まれ故郷。
赴任当時は、平成19年に引退した二代目栃東関が現役大関だった。

二代目栃東関は、生まれも育ちも東京で、厳密にいうと、相馬市の「郷土力士」ではない。
だが、父親の縁があり、毎夏、部屋ごと相馬市に合宿に来ることもあって、相馬市民は、彼に対して息子のような愛情を抱いており、全市を挙げて応援していた。

もっとも、私とて、相馬で栃東関がそんなにも愛されているとは、知らなかった。郷土力士ではないので、直接には結びつきませんでしたからね。

私が、相馬における栃東関の位置付けを知ったのは、初めて相馬を訪問した平成17年1月のこと、ちょうど初場所中だった。

これまで仕事をしていた一晩中明るい池袋の街と全く違って、日が落ちると、街の灯りが早々と消え、真っ暗になる。
福島の中では比較的暖かい地方とはいえ、やはり東北、東京と比べると段違いに寒く、コートの襟を立てても防げない凍てついた寒い風が吹き、吐く息が白く霧のように立ち上る中、私は、事務所候補のビルの下見に来ていた。

・・・暗くて寒い見知らぬ土地。誰一人知り合いもいなくて友だちもいない土地。正直なところ、とても心細かった。
身も心も震えていたその瞬間、1月の夜だというのに、闇を切り裂くような鮮やかな花火が幾つも続けてあがった。

「あの花火は何でしょうね?」と下見に一緒にきた不動産屋さんに聞くと、こともなげに「ああ、栃東が勝ったんだね」と答える。
え?栃東ってあの大関栃東?なんで?と更に問いを重ねると、「先代栃東が相馬出身だから、こちらに後援会があるんですよ」とのこと。

へえ、と思いつつも、疑り深い私は、ホテルに向かうタクシーの運転手さんにも、「さっきの花火は何だったのでしょう」と聞いていた。
すると、やはり「栃東関が勝ったからですよ。今日は勝ち越したから花火が多かったですねえ」と答えるではないか!

わあ!相馬市では、栃東関が勝ったら花火をあげる習慣があるんだ!
そして、相馬市民はそのことを当たり前と思っているんだ!
なんて大相撲を愛している地域なんだろう!
 
暗くたって寒くたって、ここは私がこれから住む土地、覚悟を決めなくちゃ、と言い聞かせていた心が、ぱっと、それこそ花火のように明るくなった。
あの日の花火の美しさ、私は、一生忘れない。

そんな相馬市が沸きに沸いたのは、平成18年1月に栃東関が3度目の優勝を飾ったときだ。連勝街道なので、毎日景気よく花火があがる。

そう、栃東関が登場する18時前後は、たいてい打ち合わせをしている時間だったから、相談途中でも花火が鳴れば、「あ、栃東関、勝ちましたね」と依頼者も私も、一瞬にっこりしてしまうのだ。

序盤戦ならともかく、後半戦に入っても、花火は景気よく鳴る。日を重ねるにつれ、もしかして優勝かも?と事務所を訪れる市民の方々も期待を口にし始める。

何故か私は「まあまあ、勝負っていうのはどうなるか分かりませんから、期待し過ぎちゃ駄目駄目。ここまで勝ってくれただけでも喜ばなくちゃ」となだめ役に回りつつ、内心、「ここまできたら優勝しますように」心から応援するようになっていた。

そして、ついに優勝が決まった晩、相馬の夜には、いつまで続くのだろう、と呆れるくらい花火が鳴り響いた。

翌日には、相馬市長が「あなたは相馬市民の誇りです。市民を代表してありがとうと言いたい」と公式コメントを発表。それだけではない、地元のスーパーが栃東関の勝ち星数14個分のポイントをつけることを始め(この「勝ち星数」ってところが何ともおかしくないですか?)、各商店が一斉に優勝記念の割引を始めたではないか。

地域密着を目指す相馬ひまわり基金法律事務所としても、14日間、相談料半額セールを実施した方がいいのではないか、一瞬検討したが、事務局さんたちが「先生、電話口で、『優勝記念セールのため半額です』と言うのは笑っちゃって無理です」と理性的に反対意見を表明したため検討しただけで終わった。

翌2月には、栃東関が相馬市に優勝報告会のために凱旋。
昼頃に栃東関が来ると聞き、朝からそわそわしてしまう。事務所に仕事は山積みだったが、「こんな貴重な機会を逃すなんて相馬市民として耐えられない」という結論に至り、風のように仕事を片付け、事務所を留守電にし、事務局さんたちと、会場の相馬市体育館に向かった。

会場に向かう道路はびっくりするほどの人、人、人・・・。
小学生からお年寄りまで、相馬市にはこんなに沢山の人口がいたのかと呆れるくらいだった。

ただ、私たちが駆けつけた時は、報告会は既に終わっているようだった。
せっかく来たのに栃東関に会えないなんて無念すぎる、辺りを見回した私の目に、人垣が見えた。間違いない、あの輪の中にいるに違いない!

案の定、栃東関は、いた!帰りの車に乗り込もうとしている栃東関に人の輪をかいくぐって何とか追いつき「大関!大関!こっち見てください!お願い!」と騒ぎ立て、こちらを向いた瞬間、携帯電話でパチリ。

これがその写真である。

栃東関

ちなみに会場には、マスコミも沢山来ていて、あちこちで、市民にインタビューのマイクを向けていた。栃東関の写真を撮れて大満足の私が、帰路につこうとすると、懇意の記者と目が合ってしまった(当時、県内初めての公設事務所ということで、取材が結構あった)。

「葦名先生、ちょっと、一言」と声をかけてくる彼に、「すみません、今日は完全にプライベートなんですよ」とにっこりと微笑み、走って逃げたのはいうまでもない。

それから1年程経って、栃東関は、文字通りの満身創痍で引退したが、あれほど、郷土(厳密には父の故郷だが)に愛された力士はそういないのではないか。怪我も多く、2度も大関を陥落する等、苦労を重ねた栃東関だが、幸せな大関だったと思う。

何の憂いもなく、栃東関を全市で応援したあの日、懐かしくて懐かしくてたまらない。

あの日、栃東関を迎え入れた相馬市体育館は、当初は、津波被害者の、後には、原発事故被害者の避難先となり、6月まで多くの人たちが共同生活を送る場所となった。

GWに相馬市体育館に法律相談に入った際、「地獄だよ、先生。こんな地獄さ、待ってるなら、津波で流された方が良かっだなあ、おらはな。」と涙を一杯ためて訴えるおばあちゃまの手を、何にも言えなくて、無力感で一杯になって、ただひたすら黙ってさするしかできなかった情けない自分の姿、心から消えることはない。

・・・幸い、栃東関改め玉乃井親方率いる玉乃井部屋は、去年の夏も、相馬市で合宿を行い、多くの市民が詰めかけたそうだ。

http://www.asahi.com/national/update/0801/TKY201108010112.html


今年もきっとやるだろう。行きたいなあ・・・。
それにしても、お相撲さんたちの来相で、少しでも一瞬でも皆の心が明るくなってほしい、そう願わずにはいられない。

今は、原発からの距離とやらで、住む場所も人の心も分断されている相馬ですが、郷土力士を市民みんなで一体になって応援していた明るい相馬の風土、この記事で少しは伝えられたらいいなあって思います。






Last updated  2012.06.06 01:18:18
2012.03.29
カテゴリ:相馬写真日記
  • 松川浦産のカニたち.jpg


相馬写真日記、第一弾が好評だったので、調子に乗って第二弾!
今日は、受付に山と積まれたカニ写真のご紹介です。

相馬市は、漁業の街。市内から車で10分も行けば、風光明媚な松川浦にたどり着き、「小松島」と呼ぶにふさわしい穏やかな浦に何とも風情のある岩が波に洗われながら立っているのが見える。
海辺には、釣り客、観光客のための民宿、ホテルが並び、店先には、イカや魚を丸ごと串に刺して焼いている香ばしい香りが漂っている。
併設された魚市場には、百戦錬磨の売り子さんが揃っていて、うっかり足を踏み入れると、「お姉さん、味見していって」「今なら、これだけ全部で1000円にしとくよ」「ワカメもつけちゃうよ」と相槌を打つ暇もない位話しかけられる。
実際、売り場に並んだ魚介類は、ぴちぴちと跳ね出しそうな新鮮さで、見るからに新鮮であることがよく分かる。それに安いのですよ、魚市場だけじゃなくて、近所の魚屋さんやスーパーでも。

ちなみにですね、富山育ちの私は、こと、お魚の味には容赦なく点が辛いので、はっきりいって大学上京以降の東京時代は、魚に関しては、まったく満足できなかった。

たとえば、イカとかエビの刺身は半透明と思って育ってきたので、白い刺身を見たときは「これ茹でてあるんですか?」と無邪気に質問して、板前さんを凍り付かせたこともあるし、大変お世話になっている先輩弁護士の事務所開所パーティーでは、出された店屋物の寿司にまったく手をつけないでいたのを、同行した兄弁に見咎められ、「あんなに電車の中でお腹すいた、お腹すいたって騒いでたくせに何で食べないんだよ」等と問いただされ、「だって、私、寿司にはうるさいんですよ」と堂々と答え、兄弁が先輩弁護士に青くなって平謝りなんてこともありました。

ひゃあ、今から思い返すと大変失礼ですね・・・本当に本当に、その節は大変申し訳ありませんでした。

はい、話がそれました。
そんな点が辛い私から見ても相馬の魚介類は、最高だったってことを言いたかったわけですね。お魚が美味しいこと、大相撲が盛んであること、これだけで、相馬のこと、好きになれるなあって思ったくらいですもん(大相撲のことは、書かなくていいといわれても、書きますのでお楽しみに)。

この私が太鼓判を5つくらい押したい相馬の魚介類を獲ってきてくださるのは、漁師さん。彼らの絆は、ものすごく強い。命を懸ける場所である海で、お互い助け合って仕事しているわけだから当然といえば当然なのだけど、家族にはいえない秘密も漁師仲間には打ち明けている節があり(これは、漁師の奥さん仲間も同様)、法律相談に、家族でも親戚でもない「漁師仲間」がついてくる、なんてことは驚くことではなかった。

私も最初びっくりしたんですよ。
相談室に入ると、2人~3人と座っていらっしゃる。そのこと自体は、東京でも静岡でもあることだけど(やっぱり法律相談は一人で来るのは心細いですよね~)、「付添」の方に「ご親族ですか」「お父様ですか」などとお声かけすると、「いや、近所の者です」とか「ずっと相談にのっている者です」とかお答えになるのですよ。

私からすれば、親族でもない第三者にプライベートな話を聞かれちゃっても相談者の方は平気なんだろうか、と心配になって、最初のうちは、相談者の方に「一緒にお話しをお聞きされるということで構わないのでしょうか」と声をかけていました。
そのうち、だんだん、この地域の人たちの気質を飲み込んで、雰囲気で判断できるようになってきましたけどね。

写真のカニを下さったまだお若い漁師さんも、仲間の先輩漁師さんと二人連れでいらした。
詳しいことは書けないけれど、ちょっと込み入った債務整理案件。
相談者ご本人よりも、付き添いの方の方が雄弁で、「こいつ口下手だから」と言いながら一生懸命お話される。
そんな様子を見ていて、相馬ひまわりの事務局さんたちが彼につけたあだ名は、アニキ。なるほどね(笑)。

ところで、また話がそれちゃいますが、「込み入った」債務整理案件、相馬時代はとても多かった。人間関係が濃いということは勿論一つの原因だが、最大の根本原因は、弁護士がいなかったから、だと私は確信している。

声を大にして言いたいのだけど、「多重債務者」になりたいと思って、お金を借り始める人はこの世に誰もいない。みんな、最初は困りに困った結果、これくらいなら返せるだろうと思っておそるおそる一社から借り始める。
金融会社だって、最初から怖い会社なんてないですよ、CMだって電話応対だって優しいでしょう?みんな、門戸を広げて笑顔で待ってくれている、法律事務所とは比べものにならないくらい敷居が低いんです。

だけど、私が赴任した当時、いわゆるグレーゾーン金利が堂々と存在した時代(この解説を書き始めると別記事が必要になるので割愛します)、年間30%近い高金利は、元々「困りに困った」人を確実に圧迫、「困りに困った」人が、困りに困って、今度は別の金融会社に手を出す、こうして、望んでいない多重債務者への道を歩き出してしまう・・・こういう展開が普通だった。

この道は、恐ろしいことに、ひたすら、ひたすら下り坂です。どこまでいっても下り坂、下り坂の終点は・・・人によっては夜逃げ、犯罪。そして一番悲しい自殺。

弁護士が沢山いる都会では、この下り坂の途中に「多重債務者110番」の電話案内があったり、法律事務所の広告があったりする。そう、最悪のどん詰まりまで行く前に、何本も救命ロープがぶらさがっている。そのロープを掴むには勇気がいるし、困っている人が掴みやすい場所に下がっているのか、ロープの本数は足りているのか、色々と問題はあるにせよ、とにかく下り坂から脱出できる可能性が広がっている。

でも、弁護士過疎地域は違う。そもそもロープ自体がない。
そうなるとどうなるか。多重債務者は、家族、親戚、知人までをも道連れにして、ひたすらに下り続ける・・・。「借金で悩んでいる」というと、一般的にはせいぜい「お金」の問題と軽く考えられがちだけど、弁護士過疎地域における多重債務問題は、人々の生命、身体を脅かす生存権侵害と隣り合わせの深刻な問題だった。

あの当時、相馬ひまわりにいらっしゃる多重債務の相談を抱えた方は、皆、何日も寝ていない、何日もご飯をのどを通らない、というご様子の土気色の顔をされていた。
「借金は、必ず何とかなりますから大丈夫。良く来てくださいましたね」とお声かけしたときの頬をつたった沢山の涙、私の身体にも沁みていくような気がした。

さて、話を戻しますね。

アニキと一緒に来た漁師さんも、そんな土気色の顔をした方だった。
口下手というよりも、疲れ切って話ができないご様子、おそらくアニキもそんな彼をみかねたのではないかしら。

とりあえず、すぐに彼とご家族を悩ませている貸金業者に弁護士が受任しましたよ、ということを告知する文書を出して督促をストップし、法律上認められている利息に計算し直し、ということをしていくと、借金が残るどころか、過払いといって、高い利息を払いすぎた状態であり、むしろ、「お金を返せ」といえることが分かった。勿論、すぐに訴訟提起、そんなに大きな金額ではなかったけど、とにかくお金が戻ってきて、事件処理は終了した。

・・・正直なところ、弁護士としてはごく一般的なオーソドックスな処理をしただけで、特筆すべき素晴らしい事件処理をしたわけではない。

しかし、相談者とアニキは、この結果には本当に驚かれたようだった。正確にいうと、驚きすぎて、「よく飲み込めない」という感じだった。
借金がなくなったってどういうこと?何でお金が返ってくるの?もう返さなくていいの?

何度かかみ砕いてご説明をしているうちに、ようやく腑に落ちたようで、「ありがとうございました」と二人とも腰を折るようにくの字に頭を下げて事務所を後にされ、私としては、当たり前のことをしただけなのに喜んでいただけて良かったなあ、と思いつつ、さあ、別の事件に取りかからなくては・・・と山積みの仕事に頭を切り換えていた。

それから、数週間程経った頃だろうか、突然、相談者とアニキが事務所を訪れた。
私の席は、敢えて受付から見えないように工夫して設置してあったので、私は、彼らの来訪を声で知りつつも、机で仕事を続け、事務局さんに対応を任せていた。

しかし、「あ、あの、すみません、ちょっと弁護士を呼んできますので」と事務局さんの焦った声が聞こえてきたので、なんだろうと思って顔を出したところ、びっくり仰天。

そう、アニキと彼は、受付台の上に、黙々とカニを積み上げていたのだ。しかも、そのカニは、まだ生きていて、がさがさごそごそ脚が触れあう音がしている。

飛び出してきた私は、「ちょっと、ストップ!何で?これどうしたの?」と叫んで事態を把握しようとした。
二人がこもごも語るところでは、カニ漁が解禁される季節になったので、先生にも食べて欲しいと思って持ってきた、獲れ立てのカニは最高に美味しいのだ、今晩中に茹でてほしいとのことだった。
・・・なんだか、心がじわっと熱くなってきてしまった。
でも感動している場合ではない。二人が持ってきているカニは、尋常の量ではなく、受付台を占拠するどころか落ちてしまいそう、それなのに、二人は、積み上げるのをやめない。

こみ上げてくる何かを大きく深呼吸して飲み込んで、「ちょっと待って。うちは、私と事務局2人の3人なんだよ。こんなにいただいても食べきれない。お気持ちはとても嬉しくてとてもありがたいのだけど、一人一杯位しか食べられない」と交渉し始めると、アニキが言い返す。

「こんけ小さなカニ、食べるとこ、いくらもないんだよ。カニ味噌は、いくら食べたって飽きることないし、多すぎるってことはないって。」

その後も少々笑える押し問答を続け、最終的に、受け取ることになったのが、この写真のカニさんたち。これを3人で山分けですよ、やっぱり多いですよねえ(笑)?

その晩、アニキに教えてもらった通りのやり方でカニの甲羅が下になるようにして、次々と茹でて、食べてみたところ、もうね、この世にこんなに美味しいものがあるのかという程美味しかった。
熱々の甲羅に入っているカニ味噌に、カニの身を落として食べてみると、確かに、余りにも美味しくて手が止まらない(お酒好きな人はここに日本酒入れて火であぶって甲羅酒にして飲むんですよ~)。

私、こんな夜中に何やっているんだろうと思いながら、カニの汁でべったべたになってカニを食べ続けた時間、本当に掛け値なく幸せだった。

・・・どうしてもどうしてもどうしても考えてしまう。
今頃、アニキたちは、どうしているだろうかって。職場の海は汚されてしまった。これからは、年間の売り上げの多くをしめるはずのコウナゴ漁の季節なのに、毎日、海に出かけることもできないで、いったい、日々をどう過ごしているのだろうって。

直近の記事にも書いたけど仕事は人間の尊厳を守るもの、生き甲斐そのもの。
お金で買えるものではないんです。

相馬写真日記第二弾、一番伝えたいことは、海からの恵みを糧に生活と人生を成り立たせていた人たちの、3.11前の様子です。
傷ついたかわいそうな相馬ばかり、クローズアップされるのは今は仕方ないことだけど、相馬はとてもとても素敵な土地でした。そのことを、みんなに分かってほしい、そんな切なる想いで一気に書いてしまいました。






Last updated  2012.03.29 23:26:23
2012.03.24
カテゴリ:相馬写真日記
  • ナラタケを収穫した筆者.JPG



先日、予告した通り、古いノートパソコンから、相馬時代の写真が見つかり、嬉しくて仕方ないので、ブログにもアップすることにしました!
「相馬写真日記」と題して、少しずつ大切な想い出を写真と共に綴りたいと思います。
すべての想い出を写真保存しているわけではないので、写真でイメージ浮かばないと思われる点は、私の拙い文章で補うこととします。

さて、第一弾は、浪江町の依頼者ご一家とご一緒したキノコ狩りの写真。
福島県浜通りにある浪江町は、緑豊かな田園風景が続く穏やかな町。
私が赴任した当時、浪江町には、弁護士は一人もいなかった(今もです)。浪江町の住民が、弁護士に相談に行くためには、北の相馬市に行くか、南のいわき市に行くかしか選択肢がなく、いずれにしても1時間以上は移動時間が見込まれる。

依頼者は80代の農家の老夫婦で、農作業をされていることもあって、大変お元気な方々ではあったけれど、打ち合わせには、いつも30代のお孫さん(女性)が同行され、階段の上り下りや少しだけ耳が遠いご夫婦のために私が言ったことをかみくだいて耳元でもう一度説明してくださる等、依頼者ご夫婦にとってはむろん、私にとっても、大切な役割を果たしてくださっていた。

事件としては、形式的には「境界画定訴訟」という名称が付されるものではあったけれど、その内実は、長年にわたる感情のもつれに代表される当事者間の様々な事情があって、法律上、簡単に単純に結論を出せる問題ではなかった。

そこで、事務所に打ち合わせに来ていただいたり、裁判所の期日に出頭するだけではなく(いわき支部です、相馬市からは車で2時間半、遠かった・・・)、依頼者のお宅にお邪魔して実際に現場を見ることも何度か必要で、そんな年月を過ごしているうちに、依頼者は勿論、前述したお孫さんのご夫婦ともすっかり打ち解けてお話ができる関係になっていった。

ある日の打ち合わせ時の雑談で、「今年もそろそろキノコ狩りの季節がやってきた」ということをお聞きし、「へえ、私、キノコ狩りなんて今まで一度も行ったことがないです。採れ立てのキノコってやっぱり美味しいですか。どんなキノコが採れるんですか」等と何気なく口に出した。

その瞬間、依頼者のおじいちゃまの目がキラリと輝き、「一番沢山採れるのは、ナラタケだ。炊き込みご飯にしても味噌汁にしても、うんとうまい。うまくすっと、マイタケのおっきな株にあたることもあんど。」ととめどなくキノコ狩りの魅力を話してくださる。

側にいたお孫さんも、「そうそう、食べきれないから、すぐに汚れ採って大鍋で煮てねえ、冷凍しておけば、先生、一年中、食べられるんだよ。ここらの人、キノコなんて買ったことないよ。キノコ狩りのコツはね、やっぱり朝早く出ること、お昼過ぎじゃあ、良いキノコ全部なくなってるし、山の夜は早いからね」と言葉を添える。

・・・聞けば聞くほど、楽しそうだ。「わあ、私も行ってみたい」と思わず口に出すと、おじいちゃまもおばあちゃまもお孫さんも身を乗り出すようにして「先生、ホント?ホントに来る?一緒に行く?」となり、「はい!何時に行けばいいですか?」と聞くと、「5時にウチに来られる?」と答えが返ってきた。

5時・・・。朝の5時ですよね。今は早起きの私も、当時は、深夜まで仕事をする生活スケジュールだったので、休日は1分でも寝ていたい。それに浪江町に5時って、4時前に出ないといけないってことだよね、3時半には起きないと駄目だよね・・・一瞬、迷いが生じたが、目の前には、わくわくきらきらの3人が私の顔を固唾を飲んで見ていらっしゃるし、それに、何よりキノコ狩りがあまりにも楽しそうでこの機会を逃したらいけないかもしれないと思うと、いいじゃん、お昼寝すれば、とすぐに思って、

「はい!行きます!いつにしましょうか」
と答えたときの、3人の嬉しそうな顔、今でも、心に焼き付いている。

日程を決めて、汚れても良い服、歩きやすい靴、手袋、帽子などキノコ狩りの装備をお聞きして、後は、当日を迎えるのみ。

眠い目をこすって依頼者のお宅に約束通り、5時に到着した時には、この人たちはいったい何時から起きていたのだろうと思われる活気ある雰囲気。後でお孫さんからお聞きしたところによれば、おじいちゃまは、興奮して眠れなかったらしいです(笑)。私の持参した軍手を一瞥して、「そんなもの、薄すぎる、こっちにしな」と厚手のスキー用のような手袋を貸していただき、さあ、みんなで里山に出発だ!

早速山に入るも、キノコ狩り初心者の私は、そもそもどこにキノコがあるのか、探し方のコツがまったく分からない。ベテランのお孫さん夫婦は、とにかく私に直接キノコを見つける楽しさを知ってほしいというお気持ちなのだろう、「先生、あの藪の下とかあっかもよ」「古い木があるとこは要注意」と的確な指示を与えてくださる。

なるほど~と探すうちに、わあ、あったあった!食べられるかどうかも私には判別つかないのだけど、とにかくキノコがあったあった!「先生、ナラタケだよ、食べられるよ!」とお孫さんも大喜び。貸していただいた鎌で慎重に掘り出したところを、お孫さんが持参したカメラでパチリと撮って下さったのが冒頭の写真です。

その後も、「先生、初めてとは思えないよ~」等とおだてにおだてられて、すっかり調子にのってキノコを収穫、汗だくで2時間程、山道を歩いたか、帰宅の時間となった。
2つの籠一杯のキノコを背に帰宅した私たちをお留守番部隊のおばあちゃまが、満面の笑みで出迎えて下さる。

早速、庭に広げて、絡んだ雑草や泥汚れを落とし、大鍋で煮る。浮き上がってくる汚れをすくって、もう一度さっと煮てできあがり。ものすごい量のキノコをほぼ全部お土産に持たせていただき、「先生、今日はゆっくり休んでよ」と見送られて、帰途につく。
高揚する頭で、寝付けるはずもなく、炊き込みご飯とお味噌汁を作り始め、食べてみたら、まあ!なんとなんと美味しいんでしょう!採れ立てのキノコって全然香りが違うんだあ。キノコって食感を楽しむものだと思ってたけど、香りが命なんだなあと、実感。

ここからは後日談。
それから半年後、私は、日弁連の機関誌「自由と正義」に公設事務所のリレーエッセイの寄稿を依頼された。仕事のやり甲斐も勿論だけど、相馬の魅力、どうしても伝えたい。写真も数枚掲載していいということだったので、迷わず、この写真も選んだ。だって、東京にいたら絶対経験できない楽しいことなんだもん。

原稿と写真を日弁連の担当事務局にメールで送ったところ、「先生、写真の順番、どういたしましょうか。あと、通常、冒頭に、先生の顔写真を掲載するのですが、別途送って頂いていいでしょうか」と電話連絡があった。

私は、「え~、顔写真ですか。えっと、じゃあ、あのキノコの写真ありますよね?あれを顔写真代わりに使うのでどうでしょう?『ナラタケを収穫した筆者』とキャプションつけていただければ、私だって分かりますよね」と答えると、
「はい、あの、でも、先生?この写真ですと、キノコに先生のお顔が隠れてしまっていますが、それでもよろしいでしょうか」と戸惑った声。

「いいです、いいです、キノコが主役で」と答えると、笑いをたっぷり含んだ声が「分かりました!そうさせて頂きます」と応答してくれた。

拙稿「相馬ひまわり物語」は、自由と正義 (58巻(2), 103頁、2007年)に収録されていますが、巻頭写真には実は、こういう背景があったのでした。
依頼者宅にも勿論送付して、大変喜んでいただきました。

・・・楽しくて素敵な宝物のような想い出、ここまで書いてくるだけで、何度も涙が溢れそうになりました。
浪江町。小さいけど、豊かな自然に恵まれていたあの町は、キノコ狩りどころではない、今は、警戒区域となって、誰も入れない地域に指定されています。
誰がこんな日が来ると予想したでしょうか。
・・・返してください。あの綺麗な自然を返してほしい。あの日の皆の笑顔を返してほしい。それだけです。お金なんていらないです。
あの日に戻ることができるなら、私は、どんなことでもしたいです。

でも、でも、心に焼き付けた想い出は、どんな強大な力だって消せないから、だから私は、書き残しておこうと思います。
相馬写真日記第一弾でした。









Last updated  2012.03.25 03:42:48
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