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カテゴリ:○○について考えた
「古池やかわず飛び込む水の音」
だれもが知っている芭蕉の名句であります。 古池に蛙が飛びこんで、ぽちゃ~んって音がして、それが、わび・さびの世界を、かもしだして。って習いました。 なんとなくわかったような気がしてましたが、よく考えてみると、池に帰るが飛び込む音って聞こえるんだろうか? それが聞こえるくらい静かだから、わび・さびなのかな? それに、多分私が知っている(思い描いている)古池と、芭蕉の時代の古池は、全然違っているんでしょうね。 ましてや、今の小中学生が知っている池なんて、おおかた護岸工事もされていて、古池自体のイメージがわかないんじゃないだろうか。 調べてみたら、この古池にも諸説あるそうで、「江戸本所六軒堀鯉屋藤右衛門の屋敷の池」だっていうのもあるそうですが、それでもわからない。 そんな事がわかっちゃうと、ますます句の味わいもなくなっていくような気もします。 俳句の授業で印象に残っているのは、自由律俳句というんだったかな。五・七・五にとらわれない俳句でした。 山頭火とか、尾崎放哉の句が教科書に載っていたように覚えています。 山頭火はまだ意味がわかるものも多かったように思い好きでもあったんですが、尾崎放哉になると、てんでわかりませんでした。 「ひげがのびた顔を火鉢の上にのつける」 「なんにもない机の引き出しをあけて見る」 「墓の裏に廻る」 ねっ、「なんだこりゃ?だからなんなの?」ですよね。 どういう風に国語の先生が教えてくれたのかも忘れてしまいました。 長く、「なんだこりゃ?」のままだったのですが、ある時、「墓の裏に廻る」の意味が分かりました。 それまで墓参りに行って墓の前で手を合わせる事はあったのですが、その時は親類の納骨で墓の裏に廻ったのです。そのお墓は後ろから骨壷を入れるのでした。 お骨を墓に収める時の、なんともいえない気持ちがその句の意味だったのかなって、わかりました。 で、また長く、分かったつもりでいました。 それから何年もして、私も墓を買いました。そしたら前から骨壷を入れるのでした。 骨壷って裏からとは限らないのでした。 で、また「なんだこりゃ?」に戻りました。 調べてみたら、俳句は、いろんな事を表現するには短すぎる。 なので表現する事をしないで表現するのが尾崎放哉の句なんだという、わけのわからない解説がありました。 なるほど、読んだ方が意味を一生懸命考えても、表現した人(詠んだ人)が表現しないようにしていたんじゃわかりませんわね(笑) でも、分かったと思っていた時期の私も楽しかったし、またわからなくなった時も楽しかった。そしてまた、わからなくてもいいんだと分かった今も楽しいです。 こんなんでいいのかな?多分いいんでしょう。またいつか分かる時がくるかもしれません。それも楽しみです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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