|
カテゴリ:我が良き虫の世かな
男はこの暮らしを始めて20年に近くなる。俗に言うホームレスである。以前はましな生活を送っていた事もある。地方では大きな部類に入る会社の支店で経理を任されていた。 しかし40歳を過ぎたある日、それは突然やって来た。 業務上横領 彼の罪状である。事が発覚して支店は騒然となったが、社長の一声で不問に伏す代わりに懲戒免職となった。典型的な一族会社であり、支店長を勤める一人息子の経歴に傷が着くのを恐れたためだ。 社長にとって幸いな事に、この事実を知る者は、支店の一部のみだったため、それぞれを他の支店の支店長や上級幹部に抜擢して、懐柔を謀り揉み消した。 しかしやがてマスコミに知られる事となり、スキャンダルから社長は失脚し、その会社も信用を失墜して、間もなく会社更正法の適用を申請して、事実上の倒産の状態となってしまった。 すべてのきっかけとなった彼は、突如職を失い、退職金もなく、妻は家を出て、子供も頼れる親戚もなく、噂は地方ではどこまでも彼を追い詰め、職を求めて大都会東京に出て来た。 おりしも世界的不況から職にはありつけず、資金も底を尽き、この川岸のテント生活を始めてもう20年近くになる。 男は突然倒れ、食べる物もなく、動く事も、声を出す事も出来ず、ただ生死をさ迷う意識の中に横たわっていた。ホームレス仲間も皆離れた所に住み、彼を訪れる者は週に一度くらいだった。 男はこのまま、誰にも看取られずにあの世に行く事になるのだろうと思うと、一抹の淋しさを感じたが、これもひとえに自分の業が成した事。相応しい最期かも知れないと思うと、気持ちも何故か落ち着き、身動きもままならない体におぼろげな意識を委ねていた。 するとその時、耳元で一匹のコウロギが鳴き出した。 コロコロ、コロコロコロ。 その済んだ鳴き声に耳を傾け、昔を思い出した。 コロコロ、コロコロコロ。 父にせがんでコウロギを捕まえてもらい、毎日餌をやって、コウロギの鳴き声を聞きながら眠った事を。 コロコロ、コロコロコロ。 あの時のコウロギの声と同じである。 コロコロ、コロコロコロ。 男は目尻に一筋光を宿すと旅立った。 コロコロ、コロコロコロ。 コロコロ、コロコロコロ。 コロコロ、コロコロコロ。 もう聞く者もいなくなったテントの中で、コウロギは相変わらず鳴き続けた。 コロコロ、コロコロコロ。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[我が良き虫の世かな] カテゴリの最新記事
|