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るぅ@ Re:坂東眞砂子「子猫殺し」 最初から飼わなければ命を奪わなくてすむ…
アハハ@ Re:坂東眞砂子「子猫殺し」 結論の無いタブーに触れ、しかも普通は選…
どぴゅ@ みんなホントにオナ鑑だけなの? 相互オナって約束だったけど、いざとなる…
お猿@ やっちまったなぁ! http://feti.findeath.net/-ua5rvi/ ちょ…
しおん@ ヤホヤホぉ★ こっちゎ今2人なんだけどぉ アッチの話…

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August 21, 2006
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私は、坂東眞砂子の小説が好きだという点を除けばごく常識的な人間だ。人間はもちろん動物も殺したことはない。虫なんかもなるべく殺さず、回収可能ならば、なるべく怪我しないように柔らかくティッシュに包んで私の邪魔にならない場所に持っていって放している。

その私に言わせてもらうならば、批判者は少なくとも3つの重大な点がわかっていないと言わざるを得ない。

第1に、坂東眞砂子は、生と死の狭間(はざま)を知った上でああいうことを言っている。批判者はその意味がわかっていない。坂東眞砂子は生の価値、死の価値を十分に認識した上で、「子猫殺し」を告白しているのであって、単に邪魔だから殺してしまえなどとは言っていない。彼女が(他の選択肢である)避妊手術を避けている理由をもう一度読み返して欲しい。(親猫の)「生の充実」なのだ。坂東眞砂子がそこまで言っているわけではないが、「子猫殺し」は「堕胎」とある意味パラレルだ。ひょっとすると、むしろ、彼女は「堕胎」のメタファーとして「子猫殺し」を持ち出しているのかもしれない(多分、これは考えすぎだろうが)。批判者の中には、猫を野に放てばいいという人もいるが、それが殺すこと以上の優しさだとは到底私には思えない。野に放たれた猫の多くは野垂れ死にするだろう。仮に生き延びたとしても、その過程で、どれほど多くの生がその猫によって奪われることか。坂東眞砂子が言っている「責任」とはそういうことだ。

第2に、批判者は、坂東眞砂子がわかっていない。批判者の多くは、例えば、「死国」さえ読んだことがないのではないだろうか?もちろん、作品と作者を混同する必要はないが、死国は、正に生と死の狭間の世界なのだ。そこは、「生」が「1」で「死」が「0」となるようなディジタルな世界ではない。そして、思うに、そういう0でも1でもない世界は存在するし、坂東眞砂子もそう思っていると思う。彼女が子猫を投げ落とした瞬間、子猫は曖昧な黄昏に落ちる。もちろん、仔猫は「にゃーにゃー」泣きながら肉体的な死を迎えるのかもしれないが、それを嘆くのは、死の瞬間、1が0になってしまうと思うからだ。仔猫への愛も仔猫からの憎しみもすべて存続するものとして、それを引き受けて彼女は仔猫を殺している。「子猫殺し」末文における「殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」はそういうことだろう。

第3に、批判者は小説家がわかっていない。小説家は小説家なのだ。もちろん、私は、坂東眞砂子の「子猫殺し」がフィクションだなどと言うつもりはない。たぶん、それは事実なのであろう。だが、ある意味、小説家はフツウの文脈にいてはいけない生き物なのだ。三島由紀夫は「鏡子の夏」の中で自らを何度も「小説家」として定位してみせた。「芸のためなら女房も泣かす それがどうした 文句があるか」は小説家にも当て嵌まる。やや古臭い言い方をすれば、小説家には祝祭が必要だ。というより、祝祭のない小説家など意味がない。「子猫殺し」などかわいいものではないか?

坂東眞砂子が、何か戦略をもって今回の一文を書いたとは思えない。ある意味、批判に対する対応はノープランであろう。だが、敢えて言うなら、坂東眞砂子の「子猫殺し」を猫が可哀想とか人間の身勝手とか責任感のはき違えとか言う批判は”全くナンセンス”である。もちろん、猫が可哀想だと思うのは勝手だが、そういう方々は一体何のために批判しているのだろう。坂東眞砂子は亀田や藪本とは違う。「改心」させることなどできるわけがないのに、何を勘違いしているのだろう(文中敬称略)。

死国






Last updated  August 22, 2006 02:26:23 AM
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