テーマ:『功名が辻』(385)
カテゴリ:戦国
豊臣秀次という戦国武将を知っているだろうか。
つい昨日の大河ドラマではその人生の局面を描いたことからも、良く知りうる人も多いことだろう。 さて、この秀次。どんな武将であったのか。年表で軽くおさらいして貰いたい。 先ず、秀次の両親について。父は農民の出で、後に秀吉により、三好家の養子とされた、三好吉房と、秀吉の姉である日秀(とも)を母とした子供であり、子の無い秀吉の養子とされた。 <永禄11(1568)年> 出生。 <天正10(1582)年> 10月、根来征伐に参戦。(根来とは、現在の和歌山県の根来寺を主とした宗教団体である。) <天正11(1583)年> 2月、滝川一益に対し北伊勢攻略戦に参戦。(滝川一益は、織田信長の配下で、関東方面軍の第一人者的存在であったが、遠方に離れており、信長の死後の対応を見誤り、関東での利権を全て北条家に奪われ、その責任で、重臣であったにも関わらず、北伊勢の小領主とならざるを得なかった。) 4月21日、賤ヶ岳合戦に参戦。(言わずと知れた、織田配下の柴田家中心の北陸方面軍と羽柴家を筆頭とした、その他大勢の合戦。)この勝利で、河内北山2万石を得る。 <天正12(1584)年> 3月、小牧・長久手合戦に参戦。 4月6日、約28000の羽柴軍別働部隊を指揮し三河侵攻。 4月9日、徳川軍に大敗。(この戦は、有名だが、徳川家康と羽柴秀吉が正面衝突した唯一の戦である。この戦は、局地戦が主となり、秀次を総大将とした部隊が家康本拠を急襲しようと画策するも家康に難なく読まれ、逆に追撃、殲滅された。) <天正13(1585)年> 雑賀征伐に参戦。(雑賀とは、現在の和歌山県の和歌山市付近にある雑賀寺を本拠とした土豪の集団である。彼らは、鉄砲などを早くから所持していたため、信長ですら苦心するほどの戦闘集団であったが、秀吉の懐柔策に落ちた。) 6月、四国征伐に参戦。(四国征伐の相手は、四国を統一した長宗我部元親である。彼は、織田家の内紛を尻目に、四国を坦々と制圧していたが、その矢先に物資に勝る、秀吉軍に制圧された。) 閏8月、近江国43万石を得る。 <天正14(1586)年> 従四位下参議に叙任。 <天正15(1587)年> 11月、従三位権中納言に叙任。 <天正17(1589)年> 従二位大納言に叙任。 5月、秀吉嫡子鶴松、誕生。 <天正18(1590)年> 尾張・北伊勢五郡100万を得る。 3月、小田原征伐に参戦。(北条家討伐の戦。) 3月29日、山中城攻略。 <天正19(1591)年> 6月、奥州一揆平定戦に参戦。(奥州では伊達家が領土を広げていたこともあり、その配下であった葛西・大崎領が豊臣家臣の木村家の領土とされた事に対する反発が旧領主派により生じ、その討伐戦に赴いた。実はこの一揆は伊達政宗が豊臣政権を苦しませる為の画策であったとの見方もある。) 8月、鶴松、死去。 11月、秀吉の養子となる。 12月4日、正二位。内大臣、叙任。 12月28日、関白職、叙任。 <文禄元(1592)年> 正月29日、左大臣を兼任。 2月、後陽成天皇、聚楽第行幸。 4月、文禄の役。 <文禄2(1593)年> 8月3日、秀頼、誕生。 <文禄4(1595)年> 7月3日、謀反の嫌疑がかかる。 7月8日、官位官職、解任。高野山へ追放。 7月15日、切腹。 8月2日、妻妾子ら処刑。 さて、この年表を見ると、秀次の人生とは、秀吉の思うがままの人生だったとも言える。 それはそれで、思うが侭の栄華を楽しむことを出来たとも思う。ただ、近江八幡での好領主ぶりは今でも慕われるほどであり、また、彼の文人としての側面は当時の公家にもかなり惹かれるものだった事をふまえると、やはり、余りに成長しすぎた秀次のポテンシャルの高さや、若さへの嫉妬とが彼を死に追いやった秀吉の判断になるんだろうなとも感じる。 歴史にIFはないが、秀次が秀吉の後を継いでいたら、秀頼と秀次の戦いこそあれ、豊臣政権での平和は長く続いたと思う。実際、近江派が淀殿及び秀頼とすれば、秀次は尾張派であり、福島正則や加藤清正らは確実に彼についたことは間違いなく、そう考えると、関が原の事例をふまえずとも、秀次が政権を安泰にしたのだろうかと思える。 正直、彼が変態プレーの数々をこなしたとか、ルール違反の行動を多々こなしたとかいう、謀反、切腹の理由付けは、秀吉側近の諜報の効果であり、歴史の勝者による喧伝であり真実では無いんだろうと俺は思う。そういう意味では、歴史ほど、勝者が優れ、敗者が蔑まれるものは無いんだろうなと痛感したし、俺が秀次だったら、積極的に謀反を起こしただろうなと思った、今日この頃(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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