Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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まえがき(編者 永澤 護)
本書は私の母、永澤春栄が書いた数多くのエッセイのなかから、戦前、戦中、戦後にかけての経験、今は閉山した九州や北海道の産炭地での生活、母の両親の記憶といったテーマに絞って編者の私がセレクトし、まとめたものである。
戦中、戦後の時期、長兄の戦死の公報(後に帰還)、父親の死、結核療養中の妹や幼い弟を抱えながら、母は東京女子医専を中退し、戦後は立川米軍基地勤務の英文タイピストとなって一家を一人で支えた。三井鉱山社員の夫との結婚を機に家族妹弟とも離れ、筑豊・北海道と移り住みながら、三人の子供を懸命に育て生きぬいてきた。
母は子供たちの結婚独立後、二〇〇〇年頃からエッセイを書き始め、二〇一三年の現在まで断続的に書き続けている。それ以前に母が熱心に文章を書いていたという記憶はない。いま思えば、突如として書き始めたかのように見える。母は一九二六年(大正十五年)生まれの現在八十七歳なので、七十四歳から八十七歳までの十三年間にわたって書き続けていることになる。母のエッセイのうち特に本書第一章の作品は、戦前、戦中、戦後まもなくの時期の稀少な歴史的ドキュメントとなっている。東京大空襲や玉音放送、疎開先での経験の記録は、極めて貴重な歴史の証言だ。例えば、第一章の作品「一本の道」では、母が学年末試験勉強中に東京大空襲に遭い、かろうじて生き延びた経験がその状況の推移に沿って描かれている。それを読むとき、爆撃のなかで母が生き延びたというその事実が、偶然の出来事であったことがわかる。そのことの認識は、この私にとって大きな衝撃だった。母が生き延びた後の光景の描写を見てほしい。
「白々と空しい朝が来た。学友の家もただの広い焼け野原。昨夜一緒に勉強した部屋はどの辺りだろう。鶏小屋に焼け爛れた鳥たちが死んでいた。一面灰色の瓦礫の広場と化した昨日までの町々。ここに昨夜まで生きていた人々はどこへ行ったのだろう。」
 この一文に出会ったときの、母の書き留めた事実が私に与えたショックは言い尽くせない。人々は、次の朝が訪れるのを見ることができなかったのだ。
母は、この国の人々にとって、すでにそれがどのような経験だったのか定かではなくなってしまっている、あの戦時における疎開の日々についても克明な記録を残している。母は、疎開先の那須で玉音放送を聞いたときの経験を次のように書いている。
「「日本は負けたらしいぞ」
人々が叫んだ。ポツダム宣言受諾とは、日本の敗戦の事実を告げるものと知った。
 初めて聞いた天皇の声。長い辛い十五年戦争を耐えてきたのは何のためだったのか。多くの若者は一体だれのために死んだのか。私の心の中に大きな空洞がポッカリあいた。聞いている人、みな呆然とした。誰も信じられないという様子だった。
 小学校五年の時から、戦争は常に私の身近にあった。戦争はあるのが当たり前で、終わるということなど想像も出来なかった。だが戦争はこのとき本当に終わったのである。其の時、怒りも悲しみも、喜びもすべての感情は停止した。」(第一章「蝉時雨」より)
まだ二十歳前の若き日に、母はこの事実に直面した。この事実に直面するという経験。それは、いったいどのようなものなのか? こうした問いかけ自体が、日々の私たちの生活においては、そもそも、もはや生まれようもないものとなっている。しかし、母の記録によって、いま再びその問いが生まれ、いったん生まれてしまった以上は、取り消し不可能な問い返しの声となってこの私に迫ってくる。

あとがき(編者 永澤 護)
本書は私の母、永澤春栄が戦前、戦中、戦後の時代を生きた軌跡を自らエッセイに書き留めてきたものをまとめたものである。
母は疎開先の那須で玉音放送を聞いたときの経験を次のように書いている。
「蝉時雨が、一人歩を進める私の耳の中で微かに響いていた。ふと見上げると、あの真夏の太陽が、紺碧の空に浮かんでいるのが目に入った。蒸れるような草いきれもみな往きと同じだった。戦争に負けても自然はいつもと変わらず、私のまわりに悠然と存在している。「国破れて山河あり」の言葉が胸に浮かび、今度は本当に声を出して泣いた。自宅まで山道をどうして帰ったのだろうか。今まるで記憶にない。あれから五十数年も経ったが、あの山道の風景は今でも私の胸中に浮かんでくる。」(第一章「蝉時雨」より)
「国破れて山河あり」と杜甫が詠ったあの感情が母の心に生じたことは、まだしもの僥倖だったのだろうか? そしてその時、日本という国家が敗戦によって崩壊した事実に直面したそれぞれの人々にとって。
そうであればと願う。だが、私がここで思い描くのは、二〇一一年三月一一日のあの過酷な事故によって汚染された大地においては、もはや山河ありという可能性自体が取り返しようもなく破壊されてしまうということだ。あの出来事を経た私たちのなかで、この国の敗戦と過酷な惨事は、分かちがたくつながり合ってしまった。そして、かつてと同じ風景は、母にとっても、もはや永久に失われていたのではなかったか? 国家の崩壊(国が敗れる=破れること)は、もはやその後になに一つ残すことはない。自然も生活も、ひとしなみに消し去ってしまうのだ。私が、いまこの時に、母のエッセイを公開する理由の一つがここにある。
母は戦時における疎開の日々について克明な記録を残しているが、その記憶は戦後の脚色された物語の数々とは一線を画す事実の記録として、私たちに強く迫ってくるものがある。
「低い山あいは日没も早く、向かいの山には既に薄暗い夜の帳が下り始めていた。ほかに行く当てもなく、やむを得ず私たちはその山の中腹、垂れ込めた夕闇の中にひっそりと佇んでいた観音堂に暫しの安らぎの時を求めた(……)一軒の農家の物置小屋が私たちに与えられた。床は竹敷きの上に茣蓙と莚が敷いてあり周囲の壁はむき出しの土塀で、所々に開いた穴には茣蓙がかけてあった。寒い那須の冬は到底越せそうに無いつくりだったが、幸い冬はまだ先だった。」(第一章「父と戦争」より。)
戦後、母は立川米軍基地で英文タイピストとして働きながら一家を支えたが、第一章「母と歩んだ日々」に描かれた基地での出来事――米軍兵士たちの大量の残飯であるチューインガム、ケーキ、チョコレート、牛肉、野菜などありとあらゆる食べ物のかけらがぶち込まれた釜で作られた雑炊は当時の日本人従業員達の飢えをしのぐ貴重な栄養源であった――という衝撃的なエピソードも、当時ではありふれたものにすぎなかった。しかし、そのありふれたエピソードが、母自身のからだを潜りぬけた事実として言葉に記録されたとき、それはまったくありふれたものでなくなる。

 本書のエッセイのうちの三作品「一本の道」、「母と歩んだ日々」、「黒いシルエット」(抄録)は、もともと拙著『カンブリア革命』(水声社刊)の付録として収録されていたものである。この度、母の本を刊行するに際し、竹林 卓氏に大変なご甚力をいただいたことを深く感謝したい。
 また、母のエッセイの多くは、同人誌『萌』に長期にわたって収録された。『萌』主宰者の瀧澤よし子様をはじめとして、母とともに切磋琢磨し、母を支えていただいた『萌』同人の方々に、この場を借りて御礼申し上げたい。
 
母春栄の長女には三人の子供がいる。いまは立派に成人した末っ子の男の子(私の甥)が中学時代から愛読し特に好きだったヘッセの「ひとり」という詩がある。この詩は、私の母の、私たちに向けたメッセージのように感じられる。そして、その母のメッセージを、母が愛する孫がしっかりと受け止めたように私には思えたのである。

この地上には
大きな道や小さな道がたくさん通っている
でも行きつく先はどれも
おなじ
馬で行くも 車で行くも
二人で行くも 三人で行くも よし
でも 最後の一歩だけは
一人で行くしかない
だから やりたいことは何でも
ひとりでするのがいい
それよりいい知恵も 方法もない

二〇一三年八月


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