FLg家族 の言語ゲームから #石黒浩 へ #東浩紀 #観光客の哲学 #ジジェク #ラカン永澤 護·2017年6月30日金曜日 2017年6月22日 T:東氏の思想には養子への幻想があるのですよ。それを彼は誤配とか郵便的とか言っている。なぜ彼に #カルヴァン派 が見えないのかの理由もわかりました。 彼は無生物にタマシイを見るんだろうか。 私は、タマシイが入っていれば他者という考え。 私:他者ではなく家族としてのあるいは家族という #言語ゲーム をなし得ているかに論点を限定します。 T:家族を、愛着あるなしと生き物・モノの二軸マトリクスで考えていました。東氏はオタクゆえに愛着あるモノを家族視出来ないのではないかと。 その上で愛着ある他人が家族というのが私の思想です。 私:再確認ですがその他者は家族の言語ゲームに乗るのですか? T:家族の言語ゲームとは? 私:単純に家族、父母娘息子などと呼びあい会話する。 T:東氏理論では爬虫類も家族だから彼の #家族主義 は言語ゲームに乗らない。私の思想は家族主義では無いので家族の言語ゲームとは無関係です。 私:私も家族主義ではありませんが、その定義はかなりストリクトな印象です。 T:ひと言だけ。 #天皇制 的家族主義があるとして、それは死者を含むため家族の言語ゲームには乗りません。 私:定義によるのでは。 T:私の定義では。 私:私にはかなりストリクトに思えますが。 T:ストリクト? ナチュラルだと思うんだけどなあ。 私:死者を含むため家族の言語ゲームには乗らないというロジックはナチュラルではなくむしろ説明なしには了解しにくいです。 T:家族主義では無く戸籍主義のロジックならその指摘は分かるのですが…。 私:その二つはクリアに分離できるのでしょうか? 天皇制の下で。 T:だって天皇は土葬ですよ。 は、冗談として。 私:日本人は火葬 ほぼ全員が仏式 T:クリアに分離できるでしょう。 例えばお腹の赤ちゃんに語りかけたりしませんか? 私:死者に関しては? T:クリアに分離されることに関しては、赤ちゃんの例がより適切です。 私:いや先の問いが重要です。 死者の定義がそもそもずれている? T:赤ちゃんの例により、クリアに分離されていることが自明なので証明は終わっています。 死者の定義は法律上の定義で構わないはず。 私:かなりまだ色々と詰めるべきポイントがあります。 気になるのは祖霊という形の家族です。 拡張可能なものとしての。拡張または象徴化の階層が多様にあり得る。身近なところでは仏壇の誰かの位牌に家族として語りかけるとか。 T:それはそれとして、家族と戸籍の関係で言えば、祖霊まで拡張しなくても死んだ家族は家族のまま。 そこには対話はあっても言語ゲームはありません。 私:私と綱覇さんとで言語ゲームの観念がずれていましたね。死んだ家族は家族のままというのは私の立場でもあります。 綱覇さんの言語ゲームの定義の方がストリクトでした。 そもそも定義するものではないのですが。 祖霊への拡張の限界例の一つとして念頭においているのはいわゆる農耕社会あるいはそれ以前の狩猟時代にもさかのぼり得るものとしてです。部族全体の「父」としてなど。 T:定義は永澤さんにお聞きしたのを変えていないのですが…。 「単純に(中略)会話する。」という定義から。 私:「会話」というのは相手が死んでいても例えば死んだ家族への「呼びかけ」という言語ゲームの一つのタイプとして捉えられるという定義です。死んだばかりの配偶者に対する呼びかけ(と場合によっては応答)という劇の上演は普通に見られることですね。 ただそうなると、もともとそういう含意だったのですが、先の定義「家族、父母娘息子などと呼びあい会話する」を「家族、父母娘息子などと呼びあい(または呼びかけ)会話する」に修正する必要はあるでしょうが。 T:消しゴムと対話するのは有りですか? 私:「家族の言語ゲーム」という限定された意味ではないのなら、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム一般の定義」は概ね「その活動状態における生活形式」というものと同じほどルーズです。「言語と生は一つである。」「それ(言語ゲーム)はそこにあるーー我々の生活と同様に。」等々。 なので、ありですよもちろん。言語ゲームの一形態としては。 T:それは神道とは違いますね。 日本の文脈なら引用すべきは #時枝誠記 ですよ。 似たような観点ならどうせなら時枝という冗談。 私:「時枝は生涯を通して、ソシュールの言語観を「『言語構成観』に基づく言語理論である」と批判した。そして、それに対立する命題として「言語過程説」を位置づけると同時に、これこそが日本の伝統的な言語観であることを主張した」(wiki)という二分法は #ソシュール に関しても「日本語」に関しても成立しないと思いますが。 2017年6月23日 私:ゲンロン二部に関してですが、「不能の父」と #孟子 自身および彼の #易姓革命論 との関係性が興味あるテーマになりました。 憐れみを #惻隠の心 とした場合。 東氏の狙いはかなり明確に見えます。しかしこの点についてはあまり議論したくありません。 T:その点については私からはもう考えは述べ終わったつもりです。養子への幻想のくだりで。(付記:このテーマに関する綱覇氏のより踏み込んだ発言はここでは省略する) なので議論したくないでオッケーです。 私:つまり何度読んでも同じ感想になるだろうという確認です。 T:実は #ジジェク を読む気は無いのです。ただゲンロンに出てきたジジェクによるラカンの #鏡像理論 は分かりやすかった。それまでラカンは、エスとか大文字(の他者)とか新奇性の割に当たり前じゃんという感想だったので。 私:ゲンロンにおけるジジェクは間違いではないのですがジジェク自身の強調する要点は違います。 T:ジジェクは以前に何冊か手に取ってみて本屋の書棚に戻した過去があります。 でも要点が違うのなら読まねばなりませんかね。 私:いえあれ(ゲンロンにおけるジジェク)はあくまでもジジェクの玄関だということです。間違いではない。しかしここでの議論は無理ですが先日話しかけましたようにジジェクの ポイントはまずラカンの現実界 (と《対象-a》) に関わる。 「義父のリアル」を論じるのなら必要です。東氏の持ち出した「不気味なもの」ではなく。 象徴界の自己完結の不可避的な失敗という構造的な事態です。そしてそれとは別に《現実界》という独立した静的領域があるわけではない。 実はジジェクのラカンは #ミレール というラカンの娘婿の完全なコピーです。 私が注目する無限判断の論点が明確に出始めるのは『パララックス・ヴュー』辺りからでしょう。 またはそれ以前の『否定的なもののもとへの滞留』。さらに未訳の大著(2012 Less Than Nothing: Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism, London: Verso)がありますが、これはそのうち話す機会があれば。たぶんないと思いますが。(笑) ちなみに「禅」解釈は他の箇所で繰り返しているのと同じワンパターンでよくある「カリフォルニア仏教」批判レベルの浅薄さです。 T:「象徴界の自己完結の不可避的な失敗」というのはラカンのアイデアですかジジェクのアイデアですか? 今日はそれだけ教えて下さい。 私:「失敗」またはそれに類する表現を「最も崇高なヒステリー者」 #ヘーゲル の正当化のためにジジェクが好んで使うということですね。 またはやりそこない。 ジジェクのラカン・ミレール的なヘーゲル解釈のためのフレームです。 なぜそこまでしてヘーゲルを救済するのかということです。 「 #無限判断 」は冨田本にも解説されているカントの概念です。私の『 #カンブリア革命 』でコアコンセプトの一つになっています。 ラカンの数学はトンデモですよ。「可算(可付番)」と「有限」の取り違えなど致命的な誤解がある。 T: #ソーカル事件 ですね。 今の時代にヘーゲルを話題に出すのは一般人にはリスクがあります。 私:長らくジジェクから離れていますが彼はサバイバルできないかも。あるいは #トランプ以後 すでに実質的に没落しているのでは。しかしここで誤解を避けたいのであらかじめ言っておきますが、私はジジェクのヘーゲル解釈をナンセンスだと思っているわけではなくそれなりに意味を持つとは思います。ただしジジェクはラカン=ミレール化されたヘーゲルの信者なのに対して例えばマルクス・ガブリエルはそうではありません。 2017年6月24日 T:ところで、いまファミマで売っている #赤塚不二夫 の「おそ松くんとアカツカ怪作劇場」は素晴らしいです。特に「クソババア」は、 #山本五十六 をもじった山本四十六しそろくと八十やそ母子の物語ですが、八十は耶蘇のもじりでアメリカの戯画化と思います。四十六は五十六に満たない戦後ニッポン。とにかくファミマに行って読んでみてください。傑作です。 今週中ならどこのファミマにもあるはず。 私:先ほど注文しました。 T:あ、立ち読みを勧めたつもりでした。私は買いましたが、いかんせん古い時代の作品なので。 私:赤塚は好きなので。私にとっての神はやはり #永井豪 ですが。 #手塚治虫 や #つげ義春 など最初期の作品が最も味わい深いとも言えますね。一つの味わい方ですけど。 T:安保闘争を時代背景に耶蘇つまりカルヴァン派アメリカと戦後ニッポンとの関係をクソババアとして漫画に結実させた赤塚はやはり天才バガボンドですね。 永井豪と言えば国内では #デビルマン ばかり評価されますが、パイルダーの形態は有人ドローンとしての空飛ぶ自動車そのものですよ。 http://gigazine.net/amp/20130518-the-tf-x 垂直離着陸が可能な空飛ぶ自動車「The TF-X」が目指すクオリティとは 世界初の空飛ぶ車を販売したTerrafugiaが、現在受注受付中のThe Transitionの次世代機にあたる「The TF-X」を開発しているようです。このTF-Xでは垂直離着陸が可能になり、 私:数知れない次元の先端テクノロジーの発想の起源は永井豪かも。また #グノーシス主義 (専門家はあんなもんグノーシスとは無関係と言うでしょうが)の導入等々。もちろん #エヴァンゲリオン 、 #攻殻機動隊 、 #ガンダム 、 #マッドマックス 、 #北斗の拳 等々の起源でもある。フランス政府が幼少時からの文化的乗っ取りの恐怖または妄想から永井作品の流入を阻止しようとしたほど。 その他彼が創出したジャンルは数知れず。 未読ですがとてつもないホラー短編集もありますね。 『凄ノ王』、『手天童子』、『バイオレンスジャック』の衝撃は凄かったです。 私は『キッカイくん』をリアルタイムで読んでいました。 赤塚もそうですがとてつもない天才とはああいう作品を産み出すのですね。 2017年6月25日 T:紹介したセミナーの資料を入手しました。クロサカ氏はオフレコトークを匂わせていましたが、それでも資料あってのオフレコなので。https://www.slideshare.net/mobile/hirsoshnakagawa3/ai-77195880 AI社会論研究会 第25回AI社会論研究会(2017年6月22日)の資料です。人工知能の概念的基礎、 #シンギュラリティ 以前に起こる社会問題について書いています。 http://slideshare.net 私:了解です。 この定義問題が重要ですね。 以下上記 https://www.slideshare.net/mobile/hirsoshnakagawa3/ai-77195880 から転載開始 「目的特化型AI vs 汎用目的AI – 目的特化型AIは決まった目的に対しては人間以上の能力をすでに持つ(AlphaGO) – 汎用目的だと右図のように多数の目的特化型AIから適するAIを選択するだろう – 選択自体を行うAIの開発は難問 – 汎用目的AIを汎用AIと混同する人多し(上のイメージなしに語る人) 3. 4. 混乱している用語 その2 • AGI (Artificial General Intelligence) =汎用AI – 人間のようにいろいろなタスクをいろいろな状況に応じて 処理できるAI – たぶん、一つの目的特化型AIの能力を別の目的にも流用できる能力を持つと予想。 • SAI (Super intelligence) = 超知能 (Nick Bostrom) – SAIの能力は人間よりはるかに高く、自分の意志を持つ 意志とは「生存本能」から派生する。 – 生存本能には「個体の保存」と「種の保存」の2種類あり AIが種の保存を持った時が厄介(あまり議論されていない) 」 以上転載終了 明後日以降にリプライお願いします。 #川上量生 のベスト本一冊選ぶなら? T:kaminoge vol.16 http://www.toho-pub.net/product_info.php?products_id=507 東邦出版 ONLINE STORE:書籍情報/KAMINOGE vol.16 http://toho-pub.net 上記ですかね。彼の思考を引っ張り出せるインタビュアーは限られるので。 彼の著作は、読めば分かりますが、ほとんどが編集者によるものと思われます。引き出さなくても勝手に話すタイプなら問題無いのですが、川上氏はそうではないので、編集者にインタビュアーの資質が求められます。 当然それは無いものねだりなので、それなら才能あるインタビュアーのインタビューを読むのが分かりやすいということになります。 私は宿題が嫌いなのでいま答えました。暇なのではありません。 川上氏の著作は対談本以外はだいたい目を通しています。逆に言えば対談本にいいのがあっても私のアンテナからはこぼれています。あとネットにはかなりの対談が公開されているようです。 私:NAVERでの発言もインタビューでしたが、それは読みました。ではまた。 綱覇さんが言うように川上氏も天才でしょうが、現在生きている日本人では石黒浩氏に注目しています。「世界を変える8人の天才」「生きている天才100人の日本人最高の26位」にノミネートされましたね。 まああっちのヒエラルキーですが。 T:石黒先生を支えているうちの重要な一社が、「オリエント工業」ってのもいいですね。 #平田オリザ は違うなーって感じですが。 平田オリザの人間理解が、イシグロイドの行動様式になっちゃうのが、んーって感じです。 2017年6月26日 私:そこまでいえないと思います。彼自身の著書を読む限りは。 平田氏は通過点に過ぎないと思います。 「オリエント工業」の製作ノウハウはさすがに必須でしょう(笑) T:通り過ぎず、累積されるという意味で、通過点では無く、ベースというべきかと。例えば→ http://logmi.jp/36575 人型ロボットの動きはなぜ不自然なのか? 研究者の難問を20分で解決した、ある演出家の結論 日進月歩のロボット業界から次々と誕生する最新の人型ロボット。しかしその動きにはどこか機械らしさが残り、人間味を失わせています。大阪大学の研究者が2年間悩み続けたこの難問を、たった20分で解決してみせた演出家・平田オリザ氏の結論とは?(TEDxSeeds2011より) http://logmi.jp 私:マイクロスリップつまり遊びの最適値の追及ですね。 その点に限れば今のところそれを超えるセオリーはないかも。 しかし石黒浩はそれに尽きますかねえ? 彼が天才なのはルネサンス的な総合芸術タイプだからだと思います。 ダヴィンチタイプかも。 ただ平田氏におんぶにダッコ説ならそうではなくなる。 ダヴィンチは独力で考えたのに、と。しかし石黒浩は平田氏に出会うはるか以前からの下地があったのは事実です。 T:あと、川上氏もそうですが、実務家にとって著書は余興みたいなもんですから、著書から思想は仮に垣間見えたとしても、読み取ってはいけないと思います。羽生氏だと分かりやすいですが。 私:ネット記事も同じなので極論になります。それは。 編集なしの生の思考などないし誰にとっても本人を含めてわからないので。 「 #非思量 (Non-Thinking)」のレベルは議論できないので。しかし何らか議論するのなら思考の編集という人間のベーシックなリアルを認めるべきです。 T:それは違うと思います。本でしか勝負出来ない思想家と違って、実務家は実務が思想。逆を考えてみれば明らかです。何らかその人の思考が出ているのは自明にしても、それにその人の思想を読み取っては部分と全体が転倒してしまう。 あと、下地と平田方法論の関係は、MS-DOSとwindowsの関係では? つまり通過点では無くベースだからはるか以前からの下地の存在があっても無くても平田方法論がベースに影響しない。 私:思想という言葉は綱覇さんが先に出したのでは? 私は石黒氏の天才を思想に観てないので。 T:平田オリザの文脈で。 私:ベースに影響しないので平田氏はある意味どうでもいいのです。 つまり思想はある意味どうでもいい。 私が注目したのは石黒氏のベースの構築過程です。 もちろん石黒氏の構築過程を特権視してはいません。 汎用ではないですが現在 #人工知能 がさまざまな分野で人間を超えているのは結果を出す迄のベースの構築過程の人間には未知のレベルの膨大さです。 T:私は、「そこまで〜読む限りは。」を深読みしましたか。 私:著書に書いていたことで私が注目したのは彼の思想ではないので。 それこそそれは著書を一つの全体と錯視することになります。 私が注目したのは、ベースの構築過程としての幼少時以来の彼の訓練過程なのです。 |