Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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創造的実践についての問い

人類史上最強の神経症者であったラカンは、より上位のカテゴリーにおいては、<最強度の>仏語を自己享楽的な症状とする精神病者であった。勿論ここでのポイントは<最強度の>中身(特異性=独位性のあり方)であり、それなしの上記の一般的命題だけではこれはこれで単なる「詐欺(的 な)言説システム」の一例に過ぎない。「仏語(何語でも構わないが)を自己享楽的な症状とする精神病者」など腐るほど存在するのであり、私たちはそういっ た強度、特異性、享楽といった定型語を操る懐メロそのものの(人によってはいまだに無自覚な)詐欺には飽き飽きしている。まさに民衆とは無関係の信徒たち の「戯論」というべきものに過ぎない。既述の様に、ラカン派精神分析という言説実践には<フランス(語)>あるいは<フランス(国 体)>(同時に<フランス人>という 身体的現実)の自己防衛あるいは自己享楽メカニズムの側面が濃厚である。自己防衛的(神経症的)側面と自己享楽的(精神病的)側面とがまた内的に葛藤し「英語(米語)」と「仏語」をともに包括するより大きな複合体としての 外部の内部すなわち「英語(米語)」と闘争を続ける。いわば祖国防衛闘争としてのレジスタンスであり、職業的哲学者になる前に英国対外諜報機関MI6の職員だったオースティンを源流の一つとする英米分析哲学と現代フランス思想の闘争がその典型的な表現型であるだろう。この場合全体の枠組みは超地政学的なもの(まさに破綻に瀕したグローバル資本主義とそれを超える運動の複合体) である。どのような言説システムであれ(「証明過程」を臨床実践とする数学を含む)、臨床実践を欠けば当然のことながら詐欺は詐欺のままにとどまる。しかもたいていの場合、連動するこ の実践自体も詐欺的または詐欺そのものとなる他ない。だが、この一般的意味での臨床実践とはそもそも何者なのか? この点について、既述の私のポジションを再び転載しておきたい。

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再掲(再転載:一部修正)

私 は仏陀の徒だが、ラカンも仏陀の徒に見える。「仏陀の徒である」とは言えないが。仏陀から龍樹、世親、親鸞、道元と連なる線上にラカンを位置付 けることができるだろう。ラカンの精神分析は、仏陀をマトリクスとした親鸞と道元の二重性あるいは二重運動として位置づけることができるかもしれない。し かし、上記の系譜はいかなる意味においても「進化」ではない。



いまだかつて、ラカンにしか創造し得なかった行為の型、実践のスタイルというものが存在する だろうか?



これが鍵となる問いである。この問いは、たとえ職業的なラカン派精神科医であっても、教育分析に関わる既存の制度(パス)やセッションの時間規定をいっ たん括弧に入れて、そのつど 各自が繰り返し厳しく吟味検証するほかない。またこの問いに最終的な終わりはないだろう。つまりこの問いは対象a、鏡像段階、シェマ、欲望、欲動、享 楽、現実界・象徴界・想像界、父の 名、大文字の他者、サントム、ボロメオの輪、性関係(性別化)の論理式といったテクニカルタームそれ自身とは無関係である。それらが存在するからといって 先の創造性への問いに肯定的な答えが得られるとは限らないのだ。もちろん上記「ラカン」の括弧内に、他の様々な固有名詞を入れて自ら吟味検証することがで きる。すな わち、



この私の行為ーー自己の行為=自己という行為の型・実践のスタイルの変遷過程ーーに照らして吟味検証した場合、いまだかつて、「固有名詞=X」と出会うことによってしか創造され得なかった行為の型、実践のスタイルというものが存在するだろうか?



も しこの問いにそのつど肯定的に答えられるなら、この私は「Xの徒」(例えば仏陀の徒、ラカンの徒)ということになる。だが、この問いに身をもって肯定でき なければ、それがいわゆる哲学、科学、思想、宗教、芸術---といったどのような営みに関わる固有名詞であれ、それに関わることに大した意味はないという ことに なるだろう。つまりそれは、単なる暇つぶし、生計の手段、権威や地位や冨の獲得手段---といった様々な形を取った「気晴らし」(パスカル)に過ぎな い。

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汎地球的社会実験

アメリカ亡命時に(「タヴィストック卒業生」と言われる)アドルノがタヴィストック傘下の(それによりコントロールされた)ファンドによって「大衆心理操作」のテーマで研究調査しその委託研究レポートである『権威主義的パーソナリティー』を書いたという仮説は信憑性が高い。もしそうだとすると、それはヒトラーを使ったナチスという大規模な社会洗脳実験の成果を精密に探り方法論的に確立するためのものだったということになる。フォン・ノイマンなどマンハッタン計画がらみの超A級戦犯たちは論外だが、そこまで露骨でなくてもアメリカへの亡命知識人で自覚の上か無自覚かはともかく英国(及びそれを通じて米国) 中枢に利用されなかった人間を探すのはほとんど不可能だ。それら全てのパトロンなのだから。なお、フランクフルト大学は、ナチスのパトロンで「ドイツ帝国」そのものであったIGファルベンの本社ビルをドイツ統一後引き継いだものである。第一次大戦、第二次大戦、(ロマノフ王朝打倒=「ロシア革命」からソビエト連邦の成立にいたる)「東西冷戦」システムと同様に、 そのサブシステムである資本主義体制下の(特にビートルズのフレームアップが頂点に達した60年代後半の)「反体制の嵐」が世界戦略システム中枢の捏造的な創造物であることは今や明らかである。この点から見ると、ドゥルーズ・ガタリとラカン派精神分析の「闘争」はごく小さなエピソードの一つだが、「反体制の嵐」が実は資本主義システムの全面的な「脱コード化」を媒介とした「超コード化」による汎地球的強化のためのグローバルな起爆剤となるというプログラムを記述する役割をドゥルーズ・ガタリは担ったといえる。まさにこの記述が(概ね ローカルエリアにおいてであるが)資本主義システムを正のフィードバック的に強化した。その「汎地球的社会実験」の核心にはドラッグカルチャーが存在す る。現在形で書いたのは以後地球規模でそれが全面化し継続しているからだ。 ドラッグの実物使用なしに、例えば「水だけで(ドラッグと同様に)酔っぱらうこと(ができる)」というドゥルーズ・ガタリの『ミル・プラトー』の有名なスローガンは、どれほど哲学的にその含意を好意的に擁護しようとしても(そしてそれは実に簡単だ)、あまりにも上記プログラムに沿った台詞であり、まさ にそのドラッグそのものとその収益が何に使われているかを考えるなら(某国とアフガニスタンの関係を考えるだけでいいだろう)ナイーブ(システムの作動に対して無知)なままに罪深く痛々しい。その当時の嵐のただなかで、アドルノをポルノ的なジェスチャーでボイコットし憤激させた「反体制」の申し子である女子学生は、このシステムの「扇動された産物」であるとはいえ、皮肉に満ちたアドルノ自身の鏡像を演じることで、壮大なシステムの捏造の核心を突いていたのだ。


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