Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

hst

『般若心経(般若波羅密多心経)』における観自在菩薩(観世音菩薩)についてのメモ

『正法眼蔵』「三十七品菩提分法」の記述に典型的に見られ、『正法眼蔵』全般に繰り返し語られる)道元の徹底的な、これ以上ないほどの出家至上主義に関して は、この「出家」という実践=コンセプトを「システムからの心身の離脱(脱落)」という、はるかに普遍的であり、かつ様々なレベルにおいて適用可能なもの に置き換えるべきだと考える。道元自身はそういったあらゆる既存の宗派・宗名を認めていないが、後に組織化された「曹洞宗」プロパーの立場からは、あくま でも文字通りの、少なくても道元の生前時におけるそれと同じ「出家」という実践=コンセプトを維持すべきとなるのかもしれない。だが、私自身の立場はそう ではなく、上記の立場を採用する。それは、むしろ親鸞の「非僧非俗」(僧に非ず俗に非ず)のポジションとなる。

『般若心経(般若波羅密多心経)』 における観自在菩薩(観世音菩薩)は、道元の語る意味における出家者ではなく、システムからの完全な離脱という智慧を体得した実践者とし ての、そしてそうした実践者であるにもかかわらず、「在家の求道者」であった。これを認めると道元の文字通りの出家至上主義に抵触してしまうからかもしれ ないが、道元は『正法眼蔵』「観音」巻の記述の冒頭と付記において単なる菩薩ではなくむしろ「如来=仏」の分身あるいは「諸仏の父母」としての観音の規定 を強調している。道元の『正法眼蔵』「観音」巻の記述は、決定的な洞察を放つはずの思考の光が半透明なヴェールの背後に巻き取られてしまったかのようなも どかしいものとなっている。道元も、観自在菩薩(観世音菩薩)を創造的に解体し尽くすまでにその思考と実践を展開することはさすがに手に余ったのかもしれ ない。

観自在菩薩(観世音菩薩)とは、すべての民衆の道標となるべき、システムからの完全な離脱という智慧をすでに体得してしまったにもかかわら ず、「非僧非俗」という永久革命を遂行し続ける実践者である。そしてその実践を導くのは「大地の母」を体現する真言としての「般若波羅密多」である。ここ で「大地」とは、「諸法実相」(仏とはあらゆる存在のあるがままの姿に他ならない)という根本的な立場からすればまさに「仏」とも言い換えられる。つまり 「大地=仏」であり、「般若波羅密多」という真言は大乗仏教徒たちによって「大地=仏」の母すなわち「仏母」と呼ばれる。この観点からすれば、この「般若 波羅密多」を体現する観自在菩薩(観世音菩薩)はこの「大地=仏」の母すなわち「仏母」それ自体であり、先の道元が強調した規定である「諸仏の父母」はこ こにおいてその正当性を持つことになる。

「非僧非俗」という永久革命を遂行し続ける実践者であると同時に、大地の母でもある観自在菩薩(観世音菩薩)は、ユーラシアの無限の大地において、あのゾロアスター(ザラスシュトラ、ツァラトゥストラ)の神々と出遭うことになるだろう。


『大般若波羅蜜多経』(般若部経典)最終部すなわち第十六部『善勇猛般若経』の「般若波羅蜜多」論

『善勇猛般若経』は五世紀後半から六世紀前半以前 に成立した。引用した部分の訳文は、中公文庫版、「大乗仏典1 般若部経典」の訳者である戸崎宏正氏による。これまで人類のさまざまな偉大な遺産が欧米中心主義的な歴史の影に埋もれる傾向があったことは大きな損失だといえる。だが、もし人類がこの先サバイバルできるなら、それらの遺産は、再び新たな形で登場してくることになるだろう。それにしても、生真面目な人間なら、『精神現象学』におけるヘーゲルの「東洋哲学」の記述には一種の憤激を感じるに違いない。



以下引用:

「世尊はいわれた。善勇猛よ(以下この 言葉は省略)、〝知恵〞といわれるが、これはあらゆるものについて理解することがなく、あらゆるものについて知ることがない。それゆえに、知恵と称せられ る。あらゆるものについて知ることがないとはどういうことか? これらあらゆるものの存在の仕方と、それらが語られる言葉とは相違し、しかもあらゆるもの は語られることを離れてあるものでもないということである。またあらゆるものについて理解せず、あらゆるものについて知らないということは、言葉によって 語ることができない。しかしながら、無知である衆生に順応し、それゆえに、知恵と呼ばれる。これは概念的に設定することといわれ、それによって知恵と呼ば れるのである。しかもまた、ものはすべて概念的に設定されるべきものでもなく、存在させられるものでもなく、説かれることもなく、見られることもない。こ のようにして知ることがない。この意味で、〝知らない〞といわれるのである。(中略)

これは知の領域に属するのでもなく、無知の領域に属するので もない。無知の対象でもなく、知の対象でもない。対象の存在しないことこそ、〝知〞なのである。もし知に対象が存在するならば、それは〝無知〞にほかなら ないであろう。知は無知に由来するのでもなく、知に由来して無知があるのでもない。知が無知なのでもなく、無知が知なのでもない。無知を根拠にして知があ るといわれるのでもないし、知を根拠にして知があるといわれるのでもない。なぜならば無知を根拠にして知があるといわれることがあるが、そのような場合、 なんらかの無知(なる知)があって、それを「その知とはこれこれである」とか、「その知はこれこれに属する」とか、「その知はこれこれを根拠にする」とい うように示すことができるわけではないからである。

それゆえに、知は知という実体のあるものとして存在するのではないし、知そのものとして確立さ れるものでもない。また、無知がそのまま知であるといわれるのでもない。もし無知を根拠にして知と呼ばれるならば、それゆえに、すべての愚かな凡夫が知者 であることにもなるであろう。

しかし知と無知を(実在として)とらえることなく、知と無知とをあるがままにあまねく知る(すなわち知も無知も実体 的存在ではないと知る)、それこそが知と称せられる。しかしまた、そう(言葉によって)呼ばれるように、その知があるのではない。それはなぜであるか。実 に知は言葉をもって表現されるものではないからである。また知は、あらゆる対象を超越しているから、いかなるものの対象ともならない。知は対象となること はない。(中略)

世間というものは、概念設定(仮設)することがそういわれているにほかならない。そして概念設定は、世間を超えてはいない。あら ゆるこの概念設定を超越してこそ、〝世間を超えた〞といわれる。しかしまた、超えるとき世間を超えず、超えないとき世間を超える。それはなぜであるか。そ こには、超えられるべきものも、超えるものも、塵ほども存在しないからである。それゆえに、〝世間を超える〞と呼ばれる。実に、世間を超える場合、《世 間》もなく、世間を《超えること》もない。〝このうえない〞ものには〝上(へ超えること)がない〞のである。それゆえに、〝世間を超える〞と呼ばれる。

こ れが超世間的知恵に関する説明といわれる。しかし、そういわれる言葉どおりに、超世間的知恵があるのではない。それはなぜであるか。実に、世間を超えてい るそれ(知恵)は、言葉によって表現されないからである。それはすでに超越したものであって、そこにはもはやそれ以上に超越されるべきものはなんら存在せ ず、それゆえに、超世間的知恵と呼ばれるのである。」


© Rakuten Group, Inc.