Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

P2-3

suginami




以下は、《超-訓練都市》からほど近い、沈黙と光と闇に包み込まれた浜辺に流れ着いた
ディスプレ-から読み取られた、差出人不明の贈り物である。
【読み取られたもの】

 動きへの渇望に貫かれた身体と、同じ音の反復を決して経験することのなかった身体が
出逢う。そこで交わされる笑い。身体と身体の狭間で、それは絶えずやってくるのだ。

笑いは、いつどんな場合も、決して予測できない。――出来事。それは包み込む水の動
きとともにやってくる。光も音もない砂漠の監獄に閉じ込められ、堅く縛り付けられてい
た子供たちが今浜辺へとやってくる。そこでは、水や大気の動きに初めて触れ、驚きに満
ちた叫びとともに生まれる笑いさえあるのだ。他方、予測できる笑いは、もはや笑いでは
ない。だが実は、予測できるもの、あるいは予測されてしまったものは、その予測のはる
か手前で、何の価値もないものとして、我々によって密かに捨て去られているのだ。とう
の昔に最終処分されてしまっているもの。それへの執着は、身動きのとれない冗長さと退
屈さの網の目で我々を窒息させる。その場合、我々は「海が見える」とか、「そこから道が
二つに分かれる」とか、そんなことさえもはや言えなくなってしまう。まして「そこに広
場がある」ことなど、一体誰が気づくだろうか。だが、浜辺で初めて水に触れ、風を感じ
たあの子供たちは違う。海と風は、砂の流れと溶け合いながら、そこに生まれたのだ。出
来事。浜辺も広場になる。誰もがそこで、何かの誕生に必ず出逢うことのできる場所とし
て。子供たちは乳白色の貝殻の破片を握りしめる。貝殻の破片との出逢いは、子供たちの
体に微かな揺らめきを生み出し、それは次第に動きへの渇望へと成長していく。舞踏。互
いに絡まり合いながら飛び立っていった子供たちの笑い声は、そこに永遠の残響を残す。
広場は、その都度永遠に生まれ続けなければならない。だからそこには、あの笑い声が絶
えず呼び戻されるのだ。



文化と呼ばれるもの――身体の表層に漠然と漂っていた反復(例えば指先の動き、舌の
動き、さらには指先の動きと舌の動きの偶然に満ちた交差など)が次第にその表層の裏側
へと巻き込まれていき、ある微かな律動を獲得し、その律動の速度が多様であるままに安
定し、我々の身体の裏打ちとしての無数のひだになるとき、我々は文化の内在的なファク
タ-として、普遍的な視点から〈反復〉を見定めることになるだろう。そのとき我々は、
身体の内部(皮膚の裏側としての内側)に反復の律動を〈感じる〉ことができるのであり、
そうした皮膚の裏側(身体の内部/内側)からの触発との出逢いを次々に通過しながら、
〈我々の経験〉が造型されていくのだ。

 触発の通過にどこまで耐えられるのかという問題がここに生まれている。
――すなわち身体の動きの様式の生成と訓練の問題である。

私はどうしても食べることのできないあるもの、どうしても語ることのできないあるも
のに遭遇する。私はそれらあるものに出逢うことができない。この出逢いの不在において、
私の〈食べる〉という反復、〈語る〉という反復は挫折する。ここでは食べ物が、言葉が私
にはない。暗闇の中で壁を目の前にして力尽きた私は、その壁をつたって流れるわずかな
水滴を沈黙の中でゆっくりとなめようとする。私の舌の動きはざらざらとした砂の塊には
ばまれて急速に疲労していく。光を失った私の目は、静かに閉じていく。音を失った私の
耳は、堅くふさがれる。目と耳はお互いを区別することを止め、べっとりと癒着する。私
の顔は、重い塊となって次第に壁の中に塗り込められていく。
 私は〈私の反復〉をなす力を失ってしまった。出来事という触媒が、壁にうがたれた裂
け目としての出来事が、私の反復の誕生のために必要なのだ。水滴は砂漠の激しい息づか
いのただなかで既に干上がってしまっている。壁に包囲された暗闇を包囲しながら、そこ
に打ち込まれる外の光と熱の束。その時壁に微かに亀裂が走る。かつての私の顔がその亀
裂に沿って歪み、均衡を失いながら折り曲げられ、徐々に壁からはがれ落ちていく。私は
私の顔という遠い反復を、それが埋め込まれた壁に生成した出来事としての亀裂からの剥
離、脱落の過程で想起する。私の舌が再び震えだした。舌は私の声を喉の奥の震えから再
び奪い取るためにその動きを取り戻そうとする。私の指先は、私の舌の動きに触発され、
砂の上をのろのろと這い始める。出来事の交差。砂の上にその体を深く突き立て、抵抗に
打ち勝ち、新たな亀裂をうがとうとしているのだ。一切の速度を奪い去られた後で、遠い
忘却の彼方で約束された出逢いを待ちわびていたかのように、余りにも遅い動きで、外に
向かって開かれ始めたこの密室を破壊しながら、指先の動きと舌の動きが偶然に満ちた交
差を遂げようとする。
 ………予定されていたはずの、文書の無限反復は余計なものだった。それは出来事を抹
殺するための最も古くさい戦略だったのだ。なぜなら戦争と呼ばれるものは常に、この文
書の反復の避けがたい腐食から、この同じものの反復の超-飢餓状態から、あらかじめそ
の挫折が宣告されている再生のための触媒としての差異を渇望して生まれてきたからだ。
自ら生み出した砂漠を逃れ生き延びるために、この文書化の装置は必ず戦争を体内から分
泌していく。他方、文書の《隙間/裂け目》から生まれたこの舌の動きの反復は、やがて
声となり叫びとなる。剥離された顔と名前が絵画文字として同時にそこに刻み込まれた砂
の上を、彼方からの風がいっせいに駆け抜けていく。爆撃。そして閃光。開かれる目と耳。
砂の上の顔と名前、あるいは絵画文字は何度も風とともに分散し、消滅する。振り返って
みても、もはやあの壁に塗り込められた私の顔はない。そして私の名前も。生まれたばか
りの声と叫びは風の音に変わる。〈私〉が反復されるわけでは決してなかった。それは文書
への回帰に過ぎない。反復されるのは、砂漠の上を絶えず通過していくこの風とともに、
動きへの果てのない渇望に貫かれながらその都度生み出されるこの分散そのものなのだ。
すなわち、彼方へと通過していく風/言葉/笑い……。



 眼差し――あるいは、顔にうがたれた空隙をその都度埋める、あの砂の上の絵画文字の
分散と凝集。そして、どこまでも続く両者の絡み合い。

 眼差しの分散と凝集を隔てる《隙間/裂け目》が、〈出来事〉、すなわち分散と凝集の相
互転移が生成する場面である。この〈出来事〉という条件が、眼差しの分散と凝集の癒着
を切断し、同時に、微細なずれを含んだまま、両者を再び結び付ける、言い換えれば、相
互に転移させるのである。この切断と結びつきの両者を内包するプロセス――、〈出来事〉
はこうしたプロセスの誘発/触発者であり、それ自身一つの誘惑者でもある。いや、出来
事は常にこの誘惑者としてやってくるのだ。
 〈出来事〉としての眼差しが、意味を生み出すプロセスとしての眼差しへと転移するの
は、そしてその逆の転移がそのプロセスを絶えず裏打ちしているのは、〈出来事〉としての
眼差しが誘発/触発し、そこへと誘惑する迷宮のような世界が、眼差しとともに現れる誘
惑者=他者たちとその受取人の両者がともに避けがたく巻き込まれ、そこへと没落してい
く罠として、そしてこれら両者が生き延びるためにどうしても突破しなければならない〈試
練〉として絶えず反復されるからである。この反復は、それ自身迷宮であるほかはない《運
命》として生成する。運命、――あるいは、残酷。

 あまりにも多彩な〈反感〉、すなわち反動感情の反復がこの運命の迷宮を没落の反復とと
もに織り成していること、この誰にとっても明白に思えることが、あの悪夢への隔たりを
いつしか掘り崩していく。我々の背後からしのびよる影が、最も内密な恐れを包み込みな
がら、我々自身を駆り立てていく。その時、とめどもなく、急速な腐食が音もたてずに、
いたるところで開始される。
 
 我々の周囲から課せられる条件としての権力の網の目が、我々とその周囲との間に形造
られる。我々と周囲との間に生まれるこの権力の網の目は、やがて抵抗する手だてを失っ
た、あるいは剥奪された我々の内側へと反転し、そこに〈反感〉が織り成されていく。権
力の網の目の媒介者/代理人となったこの〈反感〉は、自らの生成母胎としての我々の身
体のすみずみにある眼差しをはらみ、生まれでる眼差しの分布に従った無数のひだの紋様
を編み上げ始める。すなわち、眼球の動き、舌の動き、声帯の動き、指先の動き、神経繊
維の不可視の震え……、いや、あらゆる細胞や分子の動きの一切が、互いに触発し合い、
微細な振動/興奮を伝え合い、それら振動/興奮が響き合い、交差し始めるのだ。《反感=
眼差し》の誕生。その時、《反感=眼差し》は我々の内部/内側に潜む他者の分離/析出を
密かに開始する。すなわち、狩猟、――あるいは、残酷。

 それは決定的な瞬間だ。何故なら、その時こそ、最も内密な恐れが我々の身体の内側に
浸透するからだ。つまり、この眼差しが狩り出された他者へと与える生が、他者を《生=
眼差し》への隷属の袋小路へと消し去り、同時にこの《生=眼差し》の送り手たち、すな
わち我々を、まさに我々によって消し去られたはずの他者たちへと隷属させながら没落さ
せていくのである。
 
 反感=眼差し。そこには、〈広場〉が欠けている。この〈広場〉とともに生まれる、風/
言葉/笑いが欠けているのだ。徐々に細長い坂道を登り、やがて中心という袋小路に至り、
さらにその中心/袋小路を突破し、分散させていく風と言葉と笑いの波動。だが、この没
落の経験こそ、一つの試練として、眼差しの送り手と受け手の不断の転位、そして突然の
逆転という〈出来事〉によって誘発/触発されたものなのである。この不断の転位、突然
の逆転という試練が避けがたいものであること――そこにまた、袋小路からの突破口も生
まれる。 



 ――ある時、私の友人がこんな話をした。
「他者がいるってことは、語りかけるということだ。もしかしたら、今こうして俺が語り
かけているお前は、すでに〈きれて〉(〈おかしく〉なって)しまっているかもしれない。
そしてお前が語りかけている俺も。果たしてどうなのかは、俺にもお前にも決して分から
ない。そのことを確かめるすべは何もない。それでもこうして語り合っている。お互いに、
他者に語りかけているのだ。たとえ俺たちの間で、どんな予測が崩れさってしまった後で
も。」
 彼はそう語りながら、かつてアジアの大地を一緒に旅していた中国人のカップルを思い
起こしていた。一人旅の途中で男が女と出逢い、彼は二人と出逢った。男の方が彼に語っ
てくれたところによると、相手の女はすでに〈おかしく〉なっていて、家族は女を見放す
形で、長旅に出したと言う。そんな女とずっと旅をともにしている男は、女の回復をまだ
あきらめきってはいないようだった。だが、男は女を誰よりも愛していただけに、その絶
望は深かった。彼は彼に語りかける男の眼差しから、そのことをいやおうなく読みとるこ
とができた。しかし男は女に語りかけるのを決してやめようとはしなかった。やめること
など、できるはずもなかったのだ。疑いもなく、女は男にとって他者だった。永い沈黙の
狭間で、女も男に切れ切れの言葉を贈り与えた。女の言葉の流れが、脈絡もなく不意に途
絶え、女の眼差しが沈黙とともに分散を始める。それでも、男には他者がいたのだ。男に
とっては、絶えず変容し、移動していく旅のすべての時空が――紺碧の波間を切り裂く船
の甲板の上が、あるいは真夏の日差しが容赦なく照りつける赤茶けた砂漠の海原が――生
まれでる〈広場〉だった。 
 
 そんな話の後で、彼は今度は一人の子供の話をした。私も何度か会ったことのあるZか
ら彼が聞いた話なのだが、Zは実際にあった話として彼に語ったのだと言う。しかし、一
体なぜ唐突にそんな話をしたのだろうか。そこのところは彼に聞いてもよく分からない。
だが、Zは直接彼に話したのではなかったのか。先立つ話との脈絡といったものがないの
か。おそらく、彼自身にとっても了解しかねるような脈絡の欠如といったものがあったに
違いない。少なくとも彼の話しぶりからはそう感じとれる。それでは他人から、「ほとんど
病気だ」と言われかねない。彼の当惑は、Zの話の内容と照らし合わせるならば、そして
その後のZの行動と照らし合わせるならば、私にも理解できる。なぜなら、Zは彼にその
話をした後、唐突にどこかへ消えてしまったからだ。あたかも我々から急いで身を隠そう
とでもいうように。当惑の内容とは、実はこんなことなのだ。つまり、もしかすると、そ
の子供とは、Z自身のことだったのかも知れない。だが私には、今やさらに大きな当惑が
降り注いでいる。そこには恐れもある。彼があの中国人のカップルの話をした後だけに、
もしあえてそのただ一つの分脈に従うならば、私にはある解釈が執拗にまとわりつくこと
になる。私には、こう感じられたのだった。その子供は、実は彼自身であった/あるので
はないか。そして同時に、私自身のことでもあった/あるのではないか。すなわち、眼差
しの送り手と受け手の不断の転位、そして突然の逆転という出来事=試練……。

 その話は、次のようなものである。
 『ある一人の子供が、――恐らくは、小学校の低学年頃のことだが――、夜どうしても
寝つけずに苦しんでいた。それも無理はない。彼の部屋の窓に、毎晩必ず、見知らぬ顔が
現れ、彼をじっと見つめているのだ。まるで窓に埋め込まれたように微かな動きさえ見せ
ることなく、その顔の冷たい眼差しは彼をとらえて離さない。彼は目を閉じた。だが、何
度目を閉じ、再び開いても、部屋の暗闇が持続する限り、その顔は消えなかった。よく見
ると、それはあたかもいつか別の日の彼自身の顔のようだった。見知らぬ顔ではない。い
つかやってくる、あるいは知らぬ間にその傍らをすでに通り過ぎてしまった別の日の彼の
顔。だが、もちろん彼がそんないつか別の日を、そしてその日の彼の顔のことなど知って
いるはずもない。その顔は、従って、あくまで彼のあずかり知らない、誰か別の者の顔で
あるはずなのだ。
 しかし、彼にはそう言いきることがついにできなかった。その顔は、誰か別の者の顔で
も、彼自身の顔でもない、だがそれにもかかわらず、彼だけのもとに訪れた誰かある者の、
しかも彼自身のものであるかも知れない誰かある者の顔なのだ。彼がそんな顔との出逢い
などを望むはずがない。それは誰かある者のおそるべき策略であり、彼を陥れる罠である
他ない。ちょうど、独り部屋にいて、ふと気づくと今し方までそこに確かにあったはずの
何か――例えば机の上の一枚のスナップ写真――がどうしても見つからなくなってしまっ
たかのようである。そしてそこには見知らぬ別の写真がいつしか置かれている。だがそれ
は一体誰の罠なのか? 
 彼はその顔の眼球の奥深くナイフを突き立てた。窓ガラスは粉々に砕け散り、そこに埋
め込まれていたはずの顔だけが窓にうがたれた空隙と彼との狭間に浮かんでいた。眼球は
とめどもなく血を流している。血を流し続けながら、眼球は彼を見つめている。彼を取り
巻いていた時空――あるいは、彼と見失われたその周囲との間に織り成された権力の網の
目――は、彼に向かって不断に反転する《反感=眼差し》になって、彼を皮膚の裏側/内
側からむさぼり喰っていたのだ。彼は分裂病の診断を受け、入院した。
 ……長期の治療の結果、彼は回復に向かい、やがてその顔は消えた。しばらくの間彼に
もまともな眠りが訪れた。だが、彼が中学生になって二年目の秋のことだった。ある夜の
街角で、刺すような痛みが彼の脳裏を貫き、青い一筋の光とともに辺りの光景が舗道の上
に散乱した。砕け落ち、舗道を覆い尽くした無数のショ-ウィンド-の破片のそれぞれに、
彼の身体のそれぞれの部分が張り付いていた。街は半透明の被膜に密かに包み込まれてい
る空隙に過ぎなかった。そして今、その被膜も切り裂かれたのだ。舗道には彼を含めて、
誰もいなかった。……いや、そこには誰かがいたのだ。だが一体誰が? 
 その時からだった。再びあの顔が彼の部屋の窓に現れ始めたのだ。やはり彼をじっと見
つめている。苦しみ抜いた彼は、再びかつて入院した病院の主治医を訪ね、顔による恐怖
と苦痛を訴えた。主治医はしばらく考え込んでいたようだが、ふと大切なことに気づいた
といった感じで彼にこう言った。いつものように、快活な声で、何事も起こらなかったか
のように。
 「そうそう、忘れていたよ。君が最初にここに来たときに描いてもらった君の部屋の絵
があっただろう。まだここにしまっているはずだから、参考までに見ておこうと思うんだ。
何か手がかりになるものがあるかも知れないからね。」 
 そう言って席をはずした主治医は、過去の患者達のデ-タ・ファイルの束から、かつて
彼が描いた絵を探し出して持ってきた。あらかじめ主治医には確かな記憶があったのだ。
その絵には、〈それ〉がはっきりと描かれていたのだということの。彼の目の前で主治医は
その絵をファイルからゆっくりと取り出して広げた。部屋の窓際に、無造作に投げ出され
た感じの細長いベッドがあって、そこに一人の子供が横たわっている。だが――、信じが
たいことに、その部屋の窓には、確かに描かれていたはずのあの〈顔〉がなかった。』
 ………………………………………………………………………………………………
 私はここで、もう一つ別のある他者の経験を思い起こしていた。それはこの子供の話と
も微妙に共鳴する。以下の記述は、彼が書き残してくれたその経験を、《反感=眼差し》と
いう読み取りのための手がかりを通して私が再構成したものである。
  
 『……それはちょうど、独り部屋にいて、ふと気づくと今し方までそこに確かにいたは
ずの誰か――例えばベッドに静かに横たわる祖母――がどうしても見つからなくなってし
まったかのようである。そしてそこには見知らぬ別の誰かがいつしか横たわっている。(…
…)部屋の壁の向こう側から、その誰かの呼び声が次第に強く際立って聞こえてくる。私
たちは、つい今し方まで独り部屋にいた私たちの影との出逢いをその誰かに促されて、今
ようやく部屋に入っていく。だが、果たしてそれは〈今〉なのか? 
……その私たちの部屋は、いつしかいつもの見慣れた病室に置き換えられていた。永い
間、確かにそこは私たちの部屋であったはずなのに。一人の女性が、ベッドに静かに横た
わっている。彼女は、私たちに向かって、私たちの眼差しを求める眼差しを投げかけてい
た。彼女の眼差しは、とりわけ私の眼差しの応答を求めているようだった。ふと気づくと、
私の眼差しはその眼差しを迂回していて、私のもとへは、その意図しなかった迂回を密か
に誘導したある記憶が訪れていた。
 
 つい二週間ほど前のある街角の舗道の上、――例えば固く閉じられた店の錆び付いたシ
ャッタ-の前や、古びたアパ-トの入り口に連なるコンクリ-トブロックの小さな階段の
真下など――に横たわり、今にも死にかけていた、あるいはすでに死んでしまっていたの
かも知れない行き倒れの人々の顔は、その傍らを無表情に通り過ぎていく街の〈外〉の人々
(私もその一人だ)の眼差しから薄汚れた毛布やぼろ切れのような衣服で遮られていて、
もはや通過していく人々の眼差しなど全く求めてはいなかった。眼差しの誘惑と抵抗、挑
発とその回避/迂回といつた戦いは、少なくとも表面的には、そこにはないようだった。
だがその街は、すでに激しい砂嵐の洗礼を受けたあとだったのだ。
 ……それは応答を求め続けた彼らの叫びと眼差しを遮蔽された透明な壁の中へと封じ込
める眼差し、街とその〈外〉との可動的で柔軟な見えない境界(いわば意志を備えた海綿
状組織としての街の皮膚)を生み出す眼差し、そして黄昏の街の大気の半透明の被膜をど
こまでも貫き、伝播していく赤外線暗視スコ-プの二つの眼球=眼差しなのだ。それがこ
の小さな街を覆い、包み込み、その〈外〉との連絡あるいは〈外〉からの応答をその都度
断ち切っているのだった。私は赤く点滅するその眼球=眼差しが一人の男のふらつく後ろ
姿をとらえるのを見た。ほどなくしてその男は力つきてうずくまり、そのまま倒れ、路上
にうつ伏せに横たわった。彼の眼差しは私に対して遮蔽されていた。私は彼の眼差しを私
の眼差しでとらえることができなかった。彼と私の間には、一見彼らと似通った姿をして
偽装した何人かの特性のない男たちが立ち、両腕で支えた暗視スコ-プを自身の二つの眼
球にぴったりとあてがい続けている。出来事として生まれでる応答ではなく、彼らを囲い
込み消去するために発動される《反感=眼差し》。彼らの一人一人に、そういった暗視スコ
-プの赤い光の束が降り注いでいるのだ。
 私がその街にたどりついたのは、すでに彼らのかなりの部分が飢えと寒さの為に死んだ
後だった。そしてそれ以外の者たちは、廃棄物の砂漠のただなかに急いで作られたバラッ
クへと収容されていた。彼らは私(たち)から隔離され、街の〈外〉への感染源、または
病原体としての活動に入る以前に絶滅させられてしまうことを切望されていたと言うべき
だろうか? そうかもしれないが、恐らくそれだけではない。一体そのことを切望してい
たのは誰なのか? 彼らの叫びと眼差しは決して消え去ってはいなかった。それはまだ断
続しながら、生き続けていた。《反感=眼差し》の装置にとらえられていたのは、そしてそ
のことによって絶滅させられていたのはむしろ私(たち)の方だったのだ。

 あの暗視スコ-プの光線は、むろん絶えず私(たち)にも向けられていた。言うまでも
ないだろう。私(たち)もすでに感染しているのだった。彼ら=病原体とそれを貫くあの
赤い光線の束の両者に、そして同時に。何故なら、私(たち)がすでに感染者であること
を否定するもの、少なくともその否定を証明するものなど何一つないのだから。すなわち、
殺菌されたということだけですでに充分な感染の証明である。それ以上に何が必要だろう
か。だがそのことが、私(たち)の眼差しを《反感=眼差し》へと反転させる。私(たち)
の無数の身体=眼差しが、反転しながら同様に無数の私(たち)の身体=眼差しの監視と
コントロ-ルを開始するのだ。そこにはあの赤い光線の束が絶え間なく降り注いでいる。
それら光線の束が一体いつ、どこからやってくるのか、もはや誰にもわからない。それは
いつでも、どこでもない時空の裏側から私(たち)を見つめ続けるのだから。そして、そ
れら光線の束が通過し、浸透していく時空の裏側こそ、私(たち)の身体の無数のひだを
織り成しているものだからだ。
 
 それら光線の束は、私(たち)を彼らのいない街の〈外〉へと追放すると同時に、彼ら
と同様に無数の光線の束に貫かれた私(たち)の無数の身体=眼差しに街の〈外〉を忘却
させるのである。
  
 振り返ると、二十人ほどのあの偽装された特性のない男たちが、病原体による攻撃回避
のために用意された囚人護送車で、大規模な電波監視・分析管理局が設置されている区域
に運び込まれていくところだった。実に意外な光景だ。私(たち)のいわゆる日常生活に
おけるちょっとした落とし穴だと言える。特性のない男たちは、その名の通り全く互いに
見分けがたかった。揃ってくたびれた灰色の作業ズボンに全くどこにでもありそうな安物
の紺のジャンパ-、そしてガ-ゼマスク。しかし、問題のマスク上部の眼球を覆う超高性
能暗視スコ-プは、やがてやってくる真の暗闇の接近に、そしてその暗闇での新たな戦い
に備えて恒常的な使用に耐えるようにセットされていた。もっとはっきりと言えば、今や
それは彼らの眼球の裏側に移植され、その裏側から伸びた生体細胞とほとんど変わらない
触手が視神経と大脳皮質を連絡する形で埋め込まれているのだった。彼ら自身の力でその
眼球を除去することはとてもできないだろう。今や彼らは夜行性の陳腐な仕掛けに改変さ
れているのだから。そして彼らのもとには、すでに永遠の夜が、真の暗闇が訪れている。
獲物を狙う仕掛けたちが再び作動する。永遠の夜、真の暗闇の餌食になるのは、実は彼ら
自身なのだ。
 彼ら=仕掛けたちも、まだそこまでは気づいていない。だが、その仕掛けがここまでシ
ンプルであることにかつて気づいた者がいただろうか? 子供だましにも似たその種明か
しをするなら、獲物を狙うどころか、眼差しそのものの消去、眼差しが自分自身(=眼差
し)のみを永遠に眼差し続けるために、他ならぬ自分自身が生み出す悪夢を見続けるため
に、自らの上にぴったりと覆いかぶさり、自分で自分を完全に閉じてしまうのだ。
 ――《反感=眼差し》、あるいは最も退屈な運命。それもいいだろう。だが、それで一体
彼らは何を得ることになるのか? 結局は、彼ら自身が生みだし、彼らのいる限り反復さ
れるあの病原体たちの死と再生の幻影だろうか? 終わりなき戦争だろうか? この問い
に満足な答を与えられる者は恐らくいない。彼らとは、私(たち)のことでもあるのだと
いうことに、私(たち)はすでに気づいてしまっている。私(たち)は永遠に回帰するこ
の自己を、自己という別の名を持つ〈出来事〉を恐れるのだ。しかし、その恐れをあざ笑
い、その裏をかくかのように、壁には一筋の亀裂が走り始めている……。
 
 ――ふと気づくと、電波監視局のすぐ隣の敷地に、私(たち)が何度か通った病院があ
る。堅く二重に閉ざされた病室の扉を開くと、一人の女性が、ベッドに静かに横たわって
いる。しかしその病室は、あえて言うが、彼女が普段は完璧に監禁されている病室とは異
なる、〈面会用〉の部屋なのだ。その部屋のさらに内側をかいま見るすべは、私(たち)に
は与えられてはいない。彼女は、私たちに向かって、私たちの眼差しを求める眼差しを投
げかけていた。彼女の眼差しは、とりわけ私の眼差しの応答を求めているようだった。す
でに言葉は失われていたが、(あるいは奪われていたが)、彼女の沈黙の叫びはすぐそこま
でとどいていた。恐らくは、救いを求めているのだった。
 そのことは私(たち)に深い恐れを抱かせる。私の眼差しは、今、確かに彼女の眼差し
をとらえる。眼差しは、確かにもう一つの眼差しに出逢う。だが私の眼差しは、彼女のそ
の眼差し=叫びに応えることができるだろうか? もし私がこの病室で彼女を見ることが
できるとしても、そしてそのことがもはや避けられないのだとしても、その時私(たち)
は間違いなく彼女の外にいて、あくまでも見る側にとどまっているだろう。そして、その
時彼女は、私(たち)の生活から閉め出されているはずだ。つまり、私は彼女を見ること
ができないのだ。見ることは、私(たち)の眼をつぶし、私(たち)の身体を引き裂いて
しまう。
私の指先は、今ようやく、彼女の乾いた指先に触れる。彼女は私の祖母だった。言葉は
失われていても、まだ声は失われてはいなかった。その声は、かろうじて私の名前を呼ぼ
うとする。だが、その声は、私の名前へと凝集する前にすぐさま分散してしまうのだ。そ
れとともに、彼女の眼差しもゆっくりと分散していく。彼女の脳細胞は、その他の全身の
細胞と同様に、毎日のように投与される化学物質(要するに薬だ)の為に、以前にもまし
て急速に麻痺し、むしばまれていった。彼女は、日々私(たち)から遠く隔たった、絶え
ず内側へと折り畳まれていく時空の底へと落ち込んでいくのだった。
 もうずっと昔、彼女が私(たち)の部屋にいた最後の日々、夜が来る度に失われつつあ
る最後の声を振り絞って、彼女は〈隣人たち〉が「毒ガスをまきにやってくる」という恐
怖に満ちた叫びを発し続けていた。彼女はもはや立ち上がることはできなかった。〈隣人た
ち〉、あるいは外部/周囲の人々は、私(たち)を常に非難していた。私(たち)が彼女を
それほどまでに深い孤独と「人間不信」に追いやったが故に、言い換えれば、私(たち)
にはそれほどまでに愛情が不足していたが為に彼女が「こんな姿になってしまったのだ」
と。やましさを感じていたのは、私(たち)だけではなく、彼ら隣人たちも同じだったの
だ。彼らがあくまで彼女の外部にとどまって彼女を見ていたのは、言うまでもない。そこ
にはやましさと癒着した快楽もあった。だからこそ、そうやって、彼らは彼女に惜しみの
ない憐れみを捧げることができるのだ。
 
 私(たち)とその外部/周囲の間には、紛れもない権力の網の目がはりめぐらされてい
た。その権力に対して、私(たち)は抵抗するどんな手だても奪われていた。それは、彼
女が自らの言葉を奪われていったのとまさに同じ仕組みに従ったものだったのだ。
 
 一度彼女の外部に踏み出してしまえば、彼女を憐れもうが、死を願おうが同じである。
あくまでも見る者として、見られる者の生を一方的に与えてしまうこと。そしてこの場合
は、いい加減に終わりを告げるべき生、すなわち死が彼女に与えられることを願っただけ
なのだ。こうして、見られる者は、あくまでも見る者によってその生を確認され(与えら
れ)る限り見る者に隷属してしまう。私(たち)は、彼女へのこの隷属をこの様な彼女の
私(たち)への隷属へと逆転させようとした。あくまでも見る者には、あるいはそうであ
りたいと決意してしまった者には、どうしても捨てられない、諦めきれないものがあるか
らだ。つまり、すでに見捨ててしまった者への埋めがたい距離を私(たち)の憐れみが造
りだし、かつて私(たち)を非難した人々がまだそこにいるはずの生活に回帰することさ
えできればという願い……

 彼女は、私(たち)自身の手によってあの病室へと閉じ込められ、そして死んだ。いや、
そうではない。彼女は殺されたのだった。再び流れ始めた月日の中で、私(たち)の彼女
に対する憐れみの感情は、すでに拭いようもなく根付きだしていた。私(たち)は、この
転換が、私(たち)家族が隣人たちとの戦いに敗北し、彼女の死を最初に願ったあの時か
ら始まったのだということを知っている。その時から私(たち)はあくまでも見る側へと
移行したのだから。だがそのことによって、少なくとも私は彼女が、そして彼女と共有し
たはずの現実がもはや分からなく(見えなく)なってしまっている。不思議なことに、あ
くまでも見る側に移行することによって、私(たち)が彼女を見ていたのか、それとも彼
女が私(たち)を見ていたのか、もはや分からなく(見えなく)なってしまったのだ。も
しかすると、彼女は終始私(たち)を見続けていたのかもしれない。そして今も。だが、
もしそうだとしても、私にはついにそのことが、あるいは彼女が見えなかったのだ。
 
 ……ふと気づくと、いつものように彼女を取り囲んでいるはずの私(たち)の部屋のあ
の見慣れた光景が、沈黙の中で血を流す若い娘の燃えるような眼差しに貫かれ、粉々に砕
け散る。私(たち)がいったんそこから立ち去ったあの扉は再び開かれる。分散する薔薇
の花びらが降り注ぐ部屋の窓辺で、失われた忘却の彼方に生まれでたその若い娘の微笑が、
凍り付いた私の眼差しにそっと触れ、やがて静かに傍らを通り過ぎていった。その時、よ
うやく私はその微笑が語る言葉を読み取る。
 彼女は、何ものにも隷属してはいなかったのだ。』



(余白の付記)
 それぞれの受動感情(passio)の力とその増大、そしてそれがあくまで存在へと固執するこ
とは、存在に固執しようと努める我々の能力によっては規定されず、むしろ我々の能力と
比較された外的な原因の力によって規定される。
                ―――スピノザ 『エチカ』 第四部 定理五
 
 私の友人、そして彼が出逢った中国人のカップル、消えてしまったZと彼が語ったあの
子供、そして私にとってのもう一人の他者と彼の家族――。彼らは紛れもなく、私の眼差
しと交差する眼差しの贈り手として、私とともに生き延びてきたのだ。生き延びること、
それは没落を背景にしているのではない。それは没落という背景を持つのではなく、まさ
に没落の反復としての試練なのである。生き延びることは、この没落の反復というプロセ
スと区別することができない。かろうじて、それはこの没落の中から生まれてくるとは言
えるだろう。だが、この「中から」という表現は、決して没落とは本性的に異なった何か
がそこから離脱することを意味していない。没落の反復は、生き延びることを、残るくま
なく巻き込んでいる。逆に生き延びれないことは、それは常にどこかで起こってしまって
いるのだが、この没落をもはや反復し得ないということなのだ。
 例えば、無数の細胞が、その都度この没落を反復している。それら細胞は自らこの没落
を何度でも反復する力を持つが故に、自らの力のこの持続の効果として、〈我々の身体〉と
いう何かをその都度新たに生産し続けることができるのである。それが生体の機構の最小
限である。もしこの没落の反復が不可能であったなら、そこには、我々の不吉な宿命が密
かに書き込まれた一枚の紙切れだけが残されることになるだろう。だが、この紙切れほど、
一つの仕上げられた機構としての〈我々の身体〉が誘惑されやすい罠は他にはないのだ。
〈我々の身体〉は、あらかじめこの紙切れに書き込まれた何かに誘惑され、没落の反復を
為す力を失い、その同じ一枚の紙切れへと自らを同化させてしまう。
 ここで仮に定義するなら、〈文書〉とは、あらかじめ没落の反復を排除した様式で、〈我々
の身体〉と相互に同化/癒着したこの一枚の紙切れのことである。それはいたるところに
生まれる。それはまさに〈我々〉によって、〈我々〉として保管-管理されるのだ。そこで
は、一切の変異が、あからさまに廃止されることはないものの、誰の手もとどかない彼方
で凍結されていることになっている。つまり、この一枚の紙切れは、「その上に新たに書く」
という出来事をはらんだ挑戦を許さない。〈我々〉は両手を縛られ、さらにはそれを切り落
とされることになる。だがその挑戦は、いつかはその力をあますところなく表現すること
になるはずだ。何故なら――
 
 (散歩中。無人工場の壁の余白に次のような落書きが浮かび上がってその後消える。)

 さきに私は、〈文書〉を仮に「あらかじめ没落の反復を排除した様式で、〈我々の身体〉
と相互に同化/癒着したこの一枚の紙切れのことである」と規定した。さらに、「それはい
たるところに生まれる。それはまさに〈我々〉によって、〈我々〉として保管-管理される
のだ」とも。ところで、ここで考えておきたいのは、この一枚の紙切れ、あるいは〈文書〉
と賭の関わりなのだ。
 二人の者が出逢い、例えば、牛と馬を交換する。いつの日か、彼らはある開かれた、し
かし約束された場で、牛と馬を売り買いする者たち、すなわち博労(馬喰・伯楽)と呼ば
れるようになるだろう。ここで〈博〉とは、規定された交換の一歩手前に生成する分散の
反復を表現している。牛と馬を交換した二人は、まだ可逆的で可塑的な相互関係を維持し
ている。彼らの生きる場は、まだ変容する生命を持っている。
 確かに博労たちは、この交換に対して超越的なある尺度にいたる一つの道筋をつけたと
言えるかも知れない。彼らはどの馬/牛とどの馬/牛とが、現実に交換できるのか、交換
されるに値するのかを吟味する能力を持つのだから。だが彼らの特異な身体的力能に内在
するその尺度は、交換に対してまだ超越し切れてはいない。この博労たちの交換から、普
遍化された超越的な尺度として機能する貨幣を媒介にした交換へといたる無限に思われる
距離のすぐ傍らに、賭が位置しているはずなのだ。すなわち、博労たちは、賭の民として
生成することによって、分散の反復を規定された(その都度二項を対立させ、それら二項
をもう一組の二項に一対一に対応させる)交換の枠の中へと誘導していくことになる。言
い換えれば、〈文書〉(あるいは避けがたい偽装としての等価交換)の受胎告知。
 貨幣もまた、〈我々〉によって、〈我々〉として保管-管理される〈文書〉として考える
ことができる。もちろんそれは、紙幣として現象している必要はない。それと賭との間に
生まれた特異な関係こそが問題となるのだ。さしあたりそれは、その関係を特異なものに
する賭の反復という問題である。すなわち、貨幣と賭との特異な関係という問題は、この
賭がまさに貨幣の交換という形を取って生成してくるという〈出来事〉の問題でもある。
関係は、常に〈出来事〉から生まれてくる。そしてこの〈出来事〉とは、〈文書〉り生成と
しての賭の反復なのである。
 
 賭は、無限反復され得ることをあらかじめ予想されている。確かにここでは、リアルな
無限(反復)が前提されているわけではない。だが賭は、それが無限に反復され得るとい
う予想がその都度生まれるのでなければ、賭として成り立たないのだ。様々な獲物を携え
た者たちがその都度出逢い、それら獲物をいったん宙吊りにする。広場に彼らの獲物がば
らまかれるわけだ。賭が始まり、反復される。それは無限の反復が予期された、その都度
の反復である。無限の反復が予期されることで、賭は獲物たちの分配という形での交換を
生み出すことになる。ある時すべてを失うある者が、別のある時に別の者としてすべてを
奪い返す可能性が常に保留されていることが、賭けられた獲物と一つの破滅の交換でさえ、
〈彼ら〉の間での獲物の分配にしてしまうのだ。ここで破滅とは、自らの存在=身体その
ものを獲物として差し出し、犠牲になること(様々な苦痛、破壊、さらには抹殺の対象と
なること)である。すなわち、〈経済〉という名の、終わりなき残酷の反復。
 賭の反復――決定的な終わりを欠いた、言い換えれば、未完であり続けるこの交換=分
配の生成という〈出来事〉の直中で、広場は変容する。すなわちそれは、賭の反復におけ
る《市場》の生成という〈出来事〉なのである。無限の反復が予想された賭は、自らのそ
の都度の反復を《市場》の内側へと誘導していく。すなわち、さまざまな方向から、様々
な獲物たちを携えた人々が誘導された賭とともに集まってくる。そこでは常に、何が起こ
ろうとも、獲物たちの賭が反復されることが人々の間で予想されているからだ。それは、
〈外〉への通路の不断の折り畳みとしての〈内側〉の生成であり、人々は絶えず入り交じ
りあいながら、賭けられるもの、すなわち獲物たちとともにそこへと、あるいはそこから
出入りすることになる。この〈外〉への通路の不断の折り畳み=一つの〈内側〉の生成と
しての人々の出入りと賭の無限反復の予想とは、互いに切り離すことができない。つまり、
その都度の人々の出入り――《市場》の生成は、その都度の賭の生成なのである。
 賭が無限に反復されるという予想は、その都度の賭の直中へと巻き込まれる。よって、
人々が共有する賭の無限反復の予想は、それ自身が賭である以上、実は賭に先立ってなど
いなかったのである。それは予想ではなく、賭そのものであった。
 そして、ここで賭けられているもの/獲物、同時に賭の直中で獲物として生成してくる
もの、それこそが、《我々=人間》なのだ。

 こうしたことに、一体どんな終わりがありうるのか。これを限りの、一つの終わりとい
うものが。瞬時に凝集する賭けられるもの(獲物=《我々=人間》)は、次の場面で他の時
空へと旅立ち、移りゆくためにのみ、そこに場所を占める。だが〈そこ〉とは、その都度
破壊され、生まれ出る時空の狭間である。その狭間は、次の、もう一つの時空へとたどり
着くことはない。別の者の掌の上の砂は、いつしか指の隙間からこぼれ落ちている。賭は、
賭そのものを没落させる終わりのない分散の反復へと永遠に回帰するのだ。

 『無人工場の余白の落書き』の末尾は、奇妙なことに、そこだけが、子供たちがやって
きたあの浜辺の砂の上にいつしか転写されていたらしい――(そのことを私は、街角に転
がるディスプレ-の亀裂に埋め込まれた乳白色の貝殻の破片を透かして読み取った。どう
やら子供たちが何らかのゲ-ムの過程で転写したらしい。もっともその点については、言
うまでもないことだが、何の手がかりもない。)

 『いつかどこかの、あの黄昏の浜辺へ行け。――それはやがて、すぐ〈そこ〉にやって
くる。』


……ふと気づくと、砂浜の上を横切っていく私の影は、いつしか黄昏の光と溶け合う微
細な波に洗われ始めていた。私には、この黄昏の光だけが、このように私の体を取り巻き
包み込む波間に溶け込むことができるかのように思われた。確かにそこに新たな時が今に
も刻まれようとしているのだった。私はその時空の狭間で立ち止まる。あの無(人)工場
は今でもそこにあるのだろうか? その壁の余白に浮かび上がって消えた落書きをそこに
刻んだのは、この私でなければ、一体誰だったのか? だがそこがどこなのか、私にはも
はや分からない。いつか、そしてどこかに書かれたはずのその文字の束は、遠い残響とな
って私の脳裏をかすめていくだけで、それがどこからやってくるのか確かめるすべはない。
私の体を、すでにそこにあった沈黙と、没落していく黄昏の光と、生まれでる闇が同時に
包み込んでいく。私は静かに眼を閉じる。
 沈黙――、それは没落していく黄昏の光と新たに生まれでる闇との狭間で、それら光と
闇との絶え間ない交換――あるいは反復――をひそかに表現していたあの波の音だ。その
音の波間から、そしてこの体を繰り返し洗う波間から、私は立ち去ることができなかった。
沈黙、あるいは絶え間ない波動の戯れを内包したプロセス。そこには、うるおいと恵みに
みちた無数の震えが生まれる。
 
あらゆる生き物たちが、どこまでも屈曲し、分岐するはるかな時空の流れを貫いて、こ
の波間で自らの誕生と死を反復してきた。生き物たちは、この無限に微細な反復の過程で、
あらゆる触発を誘発する波の動きをそれぞれの仕方で自らの内側(皮膚の裏側)へと包み
込んでいった。というよりむしろ、この内側の生成としての波動の包み込みこそが、その
都度の生き物たちの誕生だったのだ。生き物たちの内側へと包み込まれ、新たに生まれた
さまざまな波の動き(内的律動)は、さらにその内側/波間に、再びあらゆる生き物たち
を誘発する触発の場を用意した。つまり、それら触発の場が新たに内側へと包み込まれる
ことによって、あらゆる生き物たちの内側で、再びあらゆる生き物たちが新たに誕生して
いったのだ。包み込まれるこの体が、様々な他の体を再び包み込む。
 こうして、一つの皮膚に包み込まれた無数の体のそれぞれが、それ自身の内側に再び無
数の包み込む皮膚=体を包み込んでいく。〈そこ〉は、他者としてあらゆる誕生と死の狭間
に生まれでる。
 
 ――すなわち、〈出来事〉として生成する、あの《別のある者》。



 
ゼロ・アルファ[Zero-α]―――出来事のために.
 
 ☆第一部:ファ-スト・ドラフト:1975年10月-1990.2/15.
 ☆第一部:セカンド・ドラフト:1990.9/2-1992.7/18.
 ☆第一部最終変換:1995年2月初めから1995.3/19夜.
 ☆第二部:ファ-スト・ドラフト:1993年12月21日から約一月の間.
 ☆第二部:セカンド・ドラフト:1995.3/20午後-3/28.
☆第二部:最終変換:1996.2/3-2/6.


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