Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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【1998.5.22.学習会を巡って】
1. 冒頭の、木幡氏の問題提起「どれだけ反復に耐える授業を設定できるのか?」は、「大学の実践と小学校の実践を繋ぐもの/場は?」という問題提起、普遍化すれば教育実践の「場」への問い掛けと今後更に突き合わせていく必要がある。即ち、授業の構築・実践への問いと授業がそこで反復的に構築・実践され得る「場」への問いがこれ迄以上に緊密にリンクした探究作業が求められる。これは我々の運動の現状においては、未だ手が付けられていないままに放置されている課題である。
2. 循環(論)の実践プロセスにおける3Rの「シャッフル・再構成・デザイン」は、一例として、A.デッサン/素描力(通常は「美術」の授業枠内で処理)とB.抽象図形の把握力(通常は「算数・数学」の授業枠内で処理)を「横断的に相互乗り入れする」といった「各自の身体諸能力の総合・組み合わせの方法・技法」の育成によるコメント力(総合的・基礎的な思考・表現・対話能力=各自の身体諸能力の普遍的な総合・組み合わせ能力)の育成作業として遂行できる。こうした組み合わせは各自多様な形で実践可能であろうが、大切なのは、それら実践の統合システムの構築である。つまり、その都度の授業=実践の場の中で各自がそれぞれ発見し実践を試みる組み合わせの方法・技法を、その場に立ち会う他者に説明すること、又それを受けて各自がコメントを交し合う/批評し合うことが、システマチックな授業=実践の流れとして授業=実践者によって統合・構築されていることが求められる。授業=実践者は自らの身体諸能力の総合・組み合わせの実践的・創造的なモデルを、同時に、反復可能な「場」の構築作業としても提起できなければならない。モデル提起/場の構築は、優れた職人との協同作業であったりもする。


「全国犯罪非行協議会」NCCD原稿
私は、犯罪被害者支援の意義は、支援者と被害者との、お互いに面識の無い者同士だからこそ価値ある連帯を創り上げることだと考えます。身近な生活の基盤や他人への信頼が崩壊してしまうこと以上に、私たちにとって差し迫った問題はないでしょう。心と身体に極めて深い傷を受けた人々は、自分自身が無力な者であり、他人から見離され、孤立無縁であるという思いに圧倒されます。だからこそ、その深い傷からの回復の基盤は、自分自身が価値あるものであり、他人にとって大きな力になれるという確信を得ることのうちにあると思います。言い換えれば、たとえそれまで自分が生きてきた生活の場が大きなダメ-ジを受けたとしても、それを超えた、より開かれた場における他者との新しい結びつきを創り上げていくことのうちにあるはずです。支援者と被害者は、お互いに面識の無い者同士だからこそ、一切の利害関係抜きに、この切迫した課題を共に乗り超えるための場を必要としているのだと思います。その一つの場として、このニュ-スレタ-も、被害者と支援者双方の声を積極的に取り上げ、可能な限り問題を共有し、交流し合える場に育てていくべきだと考えます。

miyake15

「宗教と社会」学会発言

統合と凝集の違いの「十分条件」が見出せないという議論であるが、統合の中心が「神」によってつ釣り上げられているような宗教共同体の場合、自分の名前も一義的に決まっている、ということがある。例えば、クリスチャンネ-ムは基本的には幼児洗礼の場で決定され、勿論それはハンドル名ではなく一生の固有名として、即ち自分にとって唯一のものとして名付けられる。この場合には、統合と言えるのではないか。自分の固有名がクリスチャンネ-ムであるということは、統合された宗教共同体への所属という意識につながっていく。いわゆる超コ-ド化の根拠かつ中心としての神というレベルが、グル-プメンバ-にとって非常に「高い」ところにあるというのは、神から与えられた名前がまさに自分自身の固有名であるからだと考えられる。凝集の場合には、統合とどこで区別するのかという「十分条件」を見出すのが難しい。AAのメンバ-の本名・住所・家族などは、「語り合いの場」の外での付き合いにおいて、いずれお互いに知られることになる。しかし、それとは別に、この活動の中ではあくまでもハンドルネ-ムで呼び合うということであれば、そこに「自分の本名とハンドルネ-ムの差異」が、AAの成立条件=ル-ルとして措定されている必要がある。仮説にとどまるが、「神」はこの場合には「ハイアーパワー」であると言える。AAのメンバ-があくまで「自分の本名とハンドルネ-ムの差異」を維持し、AAの活動場面である「語り合い」においてはハンドルネ-ムで話そうというル-ルは、メンバ-が「ハイアーパワー」という「名付け」をするというもう一つの根源的なル-ル・原則に支えられている、と考えられる。即ち、「ハイアーパワー」は、ハンドルネ-ムを名付ける神のレベルとして仮想されるが、この名付けのレベルは、同時に、常に生じる固有名とハンドルネ-ムの差異・ずれをその都度回収するレベルでもある。従って、そこで形成される凝集的集団は、冒頭に述べたような、垂直的な統合というモメントを主軸とする集団とは区別されるのではないか。勿論、以上の仮説は、ハンドルネ-ムの使用が直ちに凝集的集団の形成につながる、という単純なものではない。


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