Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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東海村3



以下に、質問票の回答者の生データを転記する。なお、回答を受け取った順に通し番号を付してある。

【質問票】

*性別 (女性・男性)
*年齢 (20代・30代・40代・50代・その他)
*職種 (ケアマネジャー・ケアコーディネーター・ヘルパー・その他)

下記のそれぞれの<a>欄の発話文を読んで、最初に頭に浮かんだ言葉を<b>欄に記述して下さい。記入の際には、他の人と相談せずに自分だけで記入して下さい。どのように書けば正解ということはありません。また、制限時間はありません。訂正は、なるべく2本線で行って下さい。

<記入例>
1.<a:これからは銀行や郵貯のカードが「ICカード」になるそうだ。どういうことかと言うと、個人一人ひとり違う指や手のひらの静脈のパターンをこのカードに記録して、本人かどうかを認証することになる。だから、自分以外の誰かが勝手にお金を引き出したりしようとしてもできなくなるというのが国や企業が言うセールス・ポイントだ。そうすると、お金の出し入れは、これまでよりも安全になるのだろうか?>


<b>:確かに、簡単に誰かに暗証番号を盗み取られたり、自分が知らないうちに勝手に預
金を引き出されたりするといった、最近ニュースなどでよく耳にすることはこれまでよりも少なくなるかも知れない。そういったことには不安がある。でも、実際しばらくたってみないと、本当に効果があるかどうかは分からないと思う。また、自分の静脈のパターンが銀行や国に登録され、ずっと記録され続けるというのも、何かプライバシーを冒されているようで、また、つねに監視されているようで、あまり気持ちのよいものではない。登録や登録解除の自由はあるとは思うが。もしすべての金融機関で誰もが登録しなければならなくなったら嫌だが、そうなったら、結局は登録することになると思う。


1.<a:これからは、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになるかもしれない。どういうことかと言うと、もしこれまでのように何もせずにそのまま生まれてきたとしたら、成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができるということだ>

2.<aさっき言ったことをさらに進めて言うとこうなると思う。これからは、子どもが生まれてくる前に遺伝子を変えて、何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康だったり、背が高かったりする子どもを産むことも技術的にはできるようになるということだ。本当にそうなるかどうかは分からないが。すると、カップルの希望に応じた子どもを作るといったSFのような話も夢ではなくなるかもしれない>

3.<a:もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある。個人個人で違う遺伝子を検査したり診断したりすることによって、これから生まれてくる自分の子どもに、さっき言ったような何か深刻な問題が見つかったとしても、産みたいと思ったこどもだけを産むことができるようになるということだ。遺伝的な問題は、ある特定のガンになりやすいとか、アルコール依存症になりやすいとか、さらには攻撃的な性格になりやすいとか色々なことが考えられるようだ。ともかく、治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ないと思う>

*通し番号1:属性;女性・40代・ケアマネジャー
1.
<b>:
遺伝子を変えることは、生まれてくる前の子どもに対し、してはならないと考える。成長するにつれて、難病などになってしまうのを防ぐという目的のみに運用されるとは考えにくいし、倫理上、問題がある。天才の集団をつくることも、戦闘の集団をつくることも、可能になりうるし、遺伝子を変えることが許認可制ならば、管理する側が大きな権力を持つ可能性が高い。人間も、他の動物も、植物も、基本的には自然に存在するのが、地球の生命体として必要なのではないかと考える。


2.
<b>:
子どもは、親の希望に応じて存在するとは思えない。一個の別人格を持つ人間である以上、個人の遺伝子を勝手に変えること自体、許すべきではない。他にも前述のリスクがある以上、簡単に発動して良いとは思えない。また、個人の価値観なので、もっと健康だったり、背が高かったりすることが、遺伝子を変えてまで手に入れなければならないものなのか疑問である。


3.
<b>:
羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので、中絶をした話を聞いたことがあるが、実際に産んだ後の負担を考えれば、否定することはできない。遺伝子異常の子供を持つ親の話を聞いたこともあるが、いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある。実際に立場になってみないことには安易に発言できないが、深刻な問題についての基準は、明確にしておかないと、ささいな事で、出産しない親が増加するような気はする。


「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること(以下「遺伝子改造」とする)はしてはならない」という主張の根拠が次のようなものであったら、私たちはそれをどのように考えたらいいのか。すなわち、「私にとって遺伝子改造が許されないと思うのは、それが、運用上、難病の予防という目的に限定され得ないと推測されるからだ」というものである。そこで、以下のような問題提起がされ得る。この主張は、半ば無意識にではあれ、難病の予防という目的に関しては、遺伝子改造あるいは「生命の選別」を肯定していると言えるだろうか。
また、「運用上」という表現で具体的にはどのようなことを想定しているのか。たとえ難病予防という目的に限定されたものであったとしても、運用上その遺伝子改造という操作が何らかの「事故」に遭遇する可能性をゼロにはできないということなのか。
さらに、「運用上、難病予防という目的に限定され得ない場合」として想定されているのが、遺伝子改造が管理者による許認可制であった場合には、たとえその遺伝子改造が難病予防という目的に限定されたものであったとしても、管理者の意思の恣意性によって、難病予防という目的からの逸脱が生じてしまうかもしれない。少なくても、その可能性をゼロにはできない。このことが、生まれてくる前の子どもの遺伝子改造という操作自体が許されない理由とされる。
 この主張は「生命の選別」を肯定していると言えるだろうか、それとも言えないだろうか。それとも肯定否定を決定不可能であろうか。

1.「子どもは、親またはカップルの希望に応じて存在するものではない」という主張は、「子どもは、親またはカップルの希望に応じてこの世界へと存在させられるものではない」と言い換えられる。あるいは、「子どもは、親またはカップルの希望に応じた生存の様式を持つように予定されてこの世界へと存在させられてはならない」と言い換えられる。この場合、子どもは、まだこの世界へと生まれてきていないと想定されている。また、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という先の文脈のもとでは、上記の事態は、親またはカップルは、遺伝子を変えるという手段を用いて、自分たちの自由な選択と希望に応じた子どもを作る意図を持っているということになるだろう。
冒頭の「子どもは、親の希望に応じて存在するものではない」という主張が以上のように解されるとき、この主張がさらに、
(1) この場合の子どもは、たとえ生まれてくる前であっても、親とは別の存在、あるいは一個の別人格を持つ存在である。
という含意を持つとする。ここで親とは別の(または他の誰とも)別の一個の独立した人格を承認されるのは、受精卵や胚細胞、さらには単なる母胎血中細胞の現存を通して、私たちによってこれから生まれてくると想像されている何かである。それは、「生まれてくる前の子ども」と呼ばれる。また、その未来における存在が抹消されてはならないのだから、「これから生まれてくる子ども」と呼ばれる。
(2)「そうである以上、これから生まれてくる子どもの、言い換えれば、親またはカップルとは別人格を持つ存在の遺伝子を勝手に変えることは許されない」。
私たちは、こうした主張、あるいは「そうである以上」という言葉をどのように考えたらいいのか。果たして、こうした主張へと接近するための最適な道筋というものはあるのか。また、この主張は、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」に対する批判的論拠となるのか、それともならないのか。もし論拠になるのだとすれば、結局それはどのような論拠なのか。
2.次に、個々人が、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」を肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を誤った価値観として否定することはできない、という論の前提を認める者が、先の「子どもは、親の希望に応じて存在するものではない」という主張を、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてはならない」という主張への批判的論拠とすることができるのか。あるいは、1と2を同時に主張することは論理的整合性を欠くのか。
そもそも、1の段階で、個人の価値観が「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」に肯定的であった場合を想定した上での批判の論拠として、「子どもという一個の別人格を持つ存在」をどこまで自覚的に位置づけているのか。この自覚のレベルの判断は、こうした主張をする者へとさらに問いかけていかない限り、実は非常に難しいのではないか。
3.さらに、2を主張する者が、それでも「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」への違和感を抱きながら、私たちは、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」に関する個々人の価値観自体を否定することはできないにしても、もっと健康だったり、背が高かったりすることが、遺伝子を変えてまで手に入れなければならないものなのか疑問である、という主張をする場合、ここには、個々人の価値観として捉えられた「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」への肯定あるいは否定という両極の間で揺れ動く(半ば)無意識の葛藤があるのではないか。もしそうだとすれば、この葛藤は、我々の生存にとってどこまで普遍的な、または偏在的な(いつどこにでも存在する)ものなのか。
“SOL(Sanctity of Life)”と“QOL(Quality of Life)”の言葉が象徴的に示すような、「人間生命の不可侵の尊厳(神聖性)」と「人間の人生の質(クオリティ)」が交錯し葛藤する問題。
先に、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」への肯定と否定の間で揺れ動くなかば無意識の葛藤を指摘した。ここでは、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」は「個々人の価値観」として捉えられていた。この葛藤は、個々人において多様な言葉にもたらされるだろう。と同時に、それら多様な言葉を構成する何らかの共通の核も想定され得る。
ところで、この葛藤には、遺伝子改造が「個々人の価値観」として捉えられていることから生まれてくるという要素もある。すなわち、私たちにとって、「これは個人の価値観による自由な選択である」という壁を超えようとする意欲はそもそも生まれにくい。
また、個々人の価値観は、それら個々人が遭遇する多様な経験との関わりで形成されると考えられるだろう。例えば、ある個人が、他の個人またはカップルから、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話を聞いたとする。この場合、その個人は、話を聞いた相手の価値観を、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話から類推することになるだろう。言い換えれば、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話を聞いて、そのような経験をした「個人の価値観」を類推するのである。
その経験を、より積極的に、その個人またはカップルの選択という行為として捉えることができる。すなわち、その経験を通じて、その個人またはカップルの選択という行為が生じたということである。また、もしその中絶という経験または行為が、その個人またはカップルにとって初めて遭遇するものだとすれば、その経験または行為によって、その個人またはカップルの「価値観」が形成されたのだと考えることもできる。
つまりこの場合、選択という行為を導く「価値観」があらかじめ存在していたのではなく、まさにこの経験または行為を通じて形成されたと考えられる。このことを言い換えれば、次のようになるだろう。すなわち、経験と行為の成立過程を、個人またはカップルが再帰的に(反省的に)捉えたときに、その個人またはカップルにとって「自分自身の、または私たちの価値観」が立ち現れてくるということである。
さて、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という経験を、個人の価値観を表現する選択行為として捉えた上で、その価値観をさらに対象化してみたい。私たちがこの価値観を対象化する場合、この価値観は、上記の個人またはカップル以外の個人にとっても理解可能なものとして、あるいは個々人の多様な言葉を通じて「何らかの共通の核」を持ったものとして捉えられている。すなわち、このとき私たちは、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という経験または行為を、我がことのように想像することで、そのような場合にこの私が抱くかもしれない、または抱くに違いない考えはこのようなものであろう、と想定することができる。こうした想定を「何らかの共通の核」としたときに現れてくる考え方の枠組みが、一般的なものとして捉えられた「個人の価値観」である。この価値観によれば、例えば、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば、中絶を否定することはできない」ということになる。
ところが、こうして辿り着いた一般的な「価値観」は、直ちにその限界を露呈することになる。共通理解が可能な価値観として捉えられたかに見えたものは、再び個々人の多様性を前にして、あえなくその無力な姿をさらしてしまうのである。
「遺伝子異常」を持った子どもを中絶することは、実質的に「生命の選別」に等しいとしても、中絶をやむを得ないとするこの価値観を持つ者においてそのことへの認識があるのか無いのかは明らかではない。私たちが、「この価値観は、生命の選別を肯定する優生主義的なものである」と言えるかといえば、必ずしもそうは言えないのではないか。
と言うのも、あくまで個々人の多様性を示す一例ではあるが、ある個人が、他の個人とのコミュニケーションにおいて、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば、中絶を否定することはできない。遺伝子異常の子どもを持つ親の話を聞いたこともあるが、いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」という発言をする場合、この個人は、「生命の選別」というテーマに関わるどのような「価値観」を持っているのか。あるいは、これら両者の発言をする個人が、「生命の選別」というテーマに関わる何らかの「価値観」を持っていると言えるのか。
おそらくこの個人は、中絶をした他者の話と、中絶をしなかった他者の話の両方を聞いたことがあるのだろう。だが、この個人が、では自分ならどう考えるのか、どう行動するのかを自分自身に問いかけたのかどうかはわからない。また、「いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」という言葉が、どこまで他者によって語られたものなのか、あるいはどこまで他者の思いを汲み取ったものなのかもわからない。
私たちにとって、この個人が、「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもは、むしろ生まれてこない方が望ましい」という「生命の選別」に関わるどのような「価値観」を持っているのか、またそもそも何らかの価値観を持っているのか、という問いに答えることは容易ではない。むしろ、ここでは、「個人の価値観」を特定することの困難さ、一般に「ある個人がある価値観を持っている」と誰かが誰かに関して判断することの困難さが浮上する。もちろん、このことは、他者に関してのみならず、この私が私自身に関して、「ある価値観を持っている」と判断することの困難さをも示している。
この困難さがあらわになったのは、私が「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」というテーマについて問いかけることを通じてであった。よって、さらに踏み込んで「こうしたテーマに関する個人の(あるいは私自身の)価値観とはどのようなものなのか」と問いかけることによって、さらに決定困難な状況が生じてくるだろう。私自身は、実際、幾分かはそうした状況を現に経験している。
さて、先の個人が、自らに問いかけられることを通じて、生命の選別というテーマは本来深刻なテーマであることを意識し始めたと想定しよう。私たちは、このようなテーマの深刻さは、始めから意識されているのが当然だと考えてしまうかもしれない。だが、そうした保証は全くないし、もし当然だと考えるなら、それは事実に反しているだろう。
次に、「実際にそうした立場になってみないことには安易に発言できないが、深刻な問題についての基準は、明確にしておかないと、ささいな事で出産しない親が増加するような気はする」という発言においては、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてよいのかどうか」や、「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもの出生を予防してよいのかどうか」といった「深刻な問題」に関して判断することの困難さがかなり意識されている。また、現在の自分は、何らかの「明確な基準」がなければ、そうした問題に関して判断できないと思われているのかもしれない。しかし、少なくてもこの段階では、こうした基準の内容についてさらに考えてみようという自発性は見られない。その意味で、こうした問題に関する自分自身の判断を、外部から与えられた判断基準に委ねてしまうということにもつながり得る。
それでは、明確な基準なしには「ささいな事で出産しない親が増加するような気はする」とは、一体どのような意味なのか。もしここで、明確な基準が何らかの歯止めまたは制限として機能すべきであると考えられているのなら、やはりこの基準は個々人の選択にとって外部から与えられるものとして想定されている。だとすると、明確な基準さえ確立されれば、その基準の許す枠内において出生前の選別を認めてもいいのかどうか、言い換えれば、その基準は選別をある範囲内において認めるものなのかという問題に関する判断は、ここでは保留されている。
この判断が保留されている限り、またこうした基準の内実をさらに思考していくことが回避されている限り、想定された個人の「価値観」を特定することはできない。すなわち、この個人が何らかの「価値観」を持っているとは言えない。また、「生命の選別」というテーマを巡る問題に直面した場合、この個人にとって、ある行為を選択することは非常に困難なものとなるだろう。
もちろん、以上述べられたことの全ては、この私自身への、そしてこの文章の読者への鋭い問いかけにもなる。
*通し番号2:属性;無記(最終的にはサンプルから削除)
1.
<b>:
障害の子供の排除
劣性遺伝の排除


2.
<b>:
個性の脱落


3.
<b>:
人間破壊
聖域侵入

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