Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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3

東海村1



*通し番号4:属性;女性・50代・ケアマネジャー
1.
<b>:
性の問題に科学による手が加わることに関しては、色々な意味で危険である。


2.
<b>:
背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり、自分の子供に対しては、反対であるが、自分個人としては、組替えてもらい、もっと頭のよい子供に産んでほしかった。


3.
<b>:
ある意味では賛成であるが、非常に危険な思想であると思う。命という事の根源をもっと、慎重に考えてほしい。


「性の問題に科学による手が加わることに関しては、色々な意味で危険である」という記述は、他の記述との関連を考慮せずに、これのみを見るなら、テーマ文に対して明確に懐疑的な構えを表現していると言える。だが、ここでこの個人が、「性の問題」という言葉にどのような意味を込めているのか、また、もしそのようなものがあるなら、これがどのような個人的経験をベースにした言葉なのかは分らない。
遺伝子改造は、不可避的に「性の問題」への介入を伴うと考えることは可能である。また、そういった考え方に反論することも不可能ではない。だが、ここでは「性の問題」という言葉の含意が判然としない。そうである以上、「色々な意味で危険である」という言葉が、単に遺伝子改造一般に対する懐疑ではなく、さらに批判的または否定的なものであると言い切ることは難しい。従って、上記の記述のみから出発したこれ以上の分析は困難である。
次に、テーマ文2に対する記述に、比較的素直な解釈をしてみよう。まず、「背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり」は、人の属性の序列化に対して批判的であり、これら属性を「個性」として受容し肯定している。だが、ここには「自分の子供に対しては」という限定がある。また、「よい意味でも悪い意味でも」という表現には、属性を序列化する何らかの価値観の反映を見ることもできる。
すると、「自分の子供に対しては」属性の技術的な「改造」、さらには属性を序列化する価値観に対して「反対である」という「解釈」は、いったい何を理解したことになるのか。確かに、「自分の子供に対しては」、技術的操作及びそのベースとなる価値観に対する批判的な構えが一貫している。だが、「自分の子供に対しては」という限定のもとで、いったいどのような文脈が生成しているのか。それを分析するためには、さらに後続する記述を参照する必要がある。
先に見たように、その記述とは、「自分個人としては、組替えてもらい、もっと頭のよい子供に産んでほしかった」である。すなわち、「自分個人」に対しては、遺伝子改造を肯定している。さらに、「遺伝子改造をして欲しかった」という欲望を自覚してさえいる。「自分の子ども」と「自分個人」という両者に対する相反する構えが、このように一つの記述へと接続されていることは注目に値する。
こうした記述に対する最も単純な「解釈」は、「この事例は典型的に遺伝子改造に対してアンビバレントまたは葛藤的なタイプである。少なくても一貫した批判の原則や理念、考え方はここには存在しない」といったものであろう。だが、このような「解釈」によっては、まだほとんど何も解明されていない。解明されていないということを、「アンビバレントまたは葛藤的なタイプ」というラベリングによって確認すること自体は、とくに批判されるべきことではない。さらに、これら記述相互の関係性を分析する必要がある。
それでは、テーマ文1に対する「性の問題に科学による手が加わることに関しては、色々な意味で危険である」という記述は、テーマ文2に対する「背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり、自分の子供に対しては、反対であるが、自分個人としては、組替えてもらい、もっと頭のよい子供に産んでほしかった」という記述とどのような文脈を形成しているのか。
ここでの文脈の生成に関して、一つの仮説を考えることができる。それは、「自分の子供に対しては」という限定が、この個人にとっての、自分の子供として想定されているが、自分とは異なる存在である子どもの他者性に対する無意識的な顧慮を表現している、というものである。一見当然にも思えるが、この個人にとって、「自分自身」に対しては、この顧慮は生じていはいない。この顧慮が生じる他者としての子供に対しては、遺伝子改造は行うべきではないということである。だが、それはいったいどういうことなのか。また、この無意識的な他者性への顧慮に、先の「性の問題」がどのように関わるのか。
だが、以上のように考えたとしても、「性の問題」という言葉の含意が判然としない以上、これら記述が形成している文脈の分析は依然として困難である。そもそも、ここでは「性の問題」は十分に考えられていない。そのことは、次の事態がはらむ決定的な問題がここで考えられている形跡がないことからも推測される。
それは、他者性に対する顧慮の必要が無いとされているために肯定されている、「自分自身に対する遺伝子改造」が行われた後で、この個人が、自らの改変された遺伝子を残す形で子供を産むという事態である。その場合、当然のことながら、この個人の改変された遺伝情報がその子供へと、さらにはその過程がどこかでストップしない限り、世代を通じて継続して産まれていく子孫に継承されていくという問題である。「性の問題に科学による手が加わること」が考えられるとき、その究極の事態に関わるこの問題が、何らかの文脈形成過程においてリンクしてくるはずである。
この個人にとっての「他者性への顧慮」は、文脈形成の可能性を探るために、単に仮説的に想定されたものであった。だが、この仮説は、上記の分析において、「性の問題」とリンクしたものとして理解可能な文脈を形成してはいなかった。
次に、テーマ文3に対する記述だが、先の分析が、とりわけ「性の問題」という表現がブラックボックスになっていたために困難に陥ったのと同様に、ここでも、「危険な」と「慎重に」の基準、「ある意味」や「命という事の根源」という表現の含意が悉くブラックボックス化している。このような場合、分析は固い壁に遭遇することになる。


*通し番号5:属性;女性・40代・ケアマネジャー
1.
<b>:
現在生きている遺伝子疾患を持った人に対し、差別的な扱いが増すのではないか。遺伝子疾患以外の先天性疾患に対し、差別的な扱いが増すのではないか。


2.
<b>:
子供は「作る」ものではなく「授かる」ものだと思う。遺伝子操作により好みの子供を「作った」としても、その子がそのまま「親の思い通りの作り物」になるわけではない。子供を「作る」という意識は子供が親の所有物であるような意識につながりやすい。子供自身の人権は守られるか。


3.
<b>:
2に同じ。


テーマ文1に対する記述の第一文「現在生きている遺伝子疾患を持った人に対し、差別的な扱いが増すのではないか」は、一貫した理念を背景とした批判的懐疑と捉えることができる。ここで「一貫した理念」とは、既述の「属性を序列化する価値観」に対する一貫した批判がそれによって可能になる理念である。ただし、ここでは仮想された理念それ自体を抽出する作業はしない。
ところで、「属性の序列化」は、「属性の序列化に応じた、そのような属性を持った人の生存の序列化」をも意味する。言い換えれば、属性を序列化する価値観は、生存それ自体を序列化する価値観でもある。ここでの事例に即して述べれば、「何らかの遺伝子疾患」という属性を持った人の生存が、そうした属性を持たない人の生存に比べて「より価値が低いもの」として序列化される。テーマ文1に即して述べれば、「本来は遺伝子改造によってそうした属性が消去され得た者」として認知される。
さらに、「これからは生まれてくる自分の子どもに深刻な問題が見つかった場合、産みたい子どもだけを産むことができる」というテーマ文3に即して述べれば、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た者」として価値付けられる。その結果、そうした者に対する「差別的な扱いが増すのではないか」という冒頭の危惧が生まれることになる。なお、上記は因果的な過程の記述ではなく、無意識的に生成すると考えられる過程を、便宜上段階的に記述したものである。
ここで、先にも触れた「個々人の選択に際して、技術的な力によってコントロールされた出生の「必要性」が社会的強制力として作用する」という論点が再び浮上する。何らかの遺伝子疾患」という属性を持った人の生存は、社会的に「より価値が低いもの」であり、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という社会的強制力が生じる可能性がある。その場合、「差別的な扱いが増す」という事態は、こうした(おそらくは暗黙で無意識的な)強制力の効果であるだろう。
次に、第二文「遺伝子疾患以外の先天性疾患に対し、差別的な扱いが増すのではないか」は、第一文と一貫した文脈において、第一文と同様に批判的な危惧を表現する記述として捉えることができる。確かに、ここでの「遺伝子疾患以外の先天性(出生以前の何らかの要因に由来する)疾患」という表現の具体的内容を特定することは難しい。例えば、一般に遺伝子レベルでの改造・治療・予防・発生の予測等が不可能な事例を想定したものだとしよう。その場合でも、第一文と同様の批判的理念に基づいた危惧として捉えることが可能である。遺伝子レベルでの改造・治療・予防・発生の予測等が不可能な事例であったとしても、それが現実に可能な事例がすでに存在している(と想定され得る)なら、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た者」という序列化は可能である。従って、あらゆる先天性疾患に関して、上記第一文と第二文を通じて一貫した文脈の生成を想定することができる。
次に、テーマ文2及び3に対する記述の含意に関しては、属性及び生存を序列化する価値観に対する批判的理念を明晰に意識化したものとして、とくに分析困難なところはない。
言うまでもないが、ここで注目すべきは、上記の記述が、テーマ文2と3に共通するものとして為されていることである。私たちは、テーマ文1に応答した先の記述全体に対して、一貫した文脈の生成を想定することができた。その一貫性は、テーマ文2と3に応答した記述とともに、属性及び生存を序列化する価値観に対する批判的理念を共有していると考えられる。従って、テーマ文2と3の両者に一貫して応答する文脈が、これまでの全ての記述の生成過程において同時に生成していることになる。
私たちは、先に「仮想された理念それ自体を抽出する作業はしない」と述べた。その理由は、「仮想された理念それ自体」というレベルが、その都度の記述を織り成す文脈の生成という過程に先立ってどこかに存在しているわけではないからである。複数の記述が批判的理念を共有するという事態は、より根源的には、そこにおいて複数の記述を織り成す一貫した文脈が生成される、その都度の偶発的な創発過程なのである。


*通し番号6:属性;女性・その他・ケアマネジャー
1.
<b>:
そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか。いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする。親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか。


2.
<b>:
それができるとなると自分のよいところを更にのばした子どもを望むだろうか。それとも、まるで反対のあこがれの人物像にするだろうか。いずれにせよあまり自分と似ていない親子ということになる。うまくいかない時は自分に似たんだからしようがないという諦め方はできなくなる。


3.
<b>:
現実的な話でも重い人生を自分や人に負わせることはできないが---。本当はどんな子が生まれても家族や社会で守ることができるのがよいと思う。


テーマ文1に対する記述の第一文「そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか」には、「優秀(な人間)か否か」という価値付けが含まれている。一見して当然のように思えるが、まずこのことを確認しておきたい。その基準、あるいは「そうすると」の内容は、テーマ文1を受けているので、「成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができる(のであれば)」である。従って、ここでの文脈は、「遺伝子への技術的介入により難病等の属性が除去された状態=優秀」と「除去されていない状態=優秀ではない」という二項対立として生成している。すなわち、ここでも属性(同時に生存そのもの)の序列化という文脈が生成している。このような分析結果が引き出されるということは、残酷なことに思えるかもしれない。だが、私たちはこうした事態を直視する必要がある。
ただし、既述のように、こうした文脈が生成しているという事態は、あくまで分析の結果見出されたものであり、この個人が属性(同時に生存そのもの)の序列化という文脈を意識化しているという(ここでは仮想されているに過ぎない)事態とは独立している。より明確に言うなら、この個人は、上記の文脈(の生成)を意識化してはいない。一般に、このような記述を行う個人は、必ずしも属性(同時に生存そのもの)の序列化という文脈を意識化した上で肯定しているわけではない。そうした意識化は、(これもここでは仮想されているに過ぎない)メタレベルの認識である。言い換えれば、こうした文脈(の生成)は、ほとんどの場合、無意識的なものにとどまる。それは、ある個人が、「そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか」といった自らの記述や発話を十分意識して行ったとしてもそうなのである。さらに一般化して言うならば、このことは上述の属性(同時に生存そのもの)の序列化という文脈に限らず、どのような文脈(の生成)についても妥当すると考えられる。
 次に、「優秀な人間ばかりになるのだろうか」という記述部分には、既述の「何らかの遺伝子疾患という属性を持った人の生存は、より価値が低いものであり、本来はその出生(生存)自体が予防され得たとする社会的強制力」がすでに偏在してしまった世界がイメージされている。つまり、そうした強制力が、無意識のレベルで偏在的なものとなった世界が、「優秀な人間ばかりになる世の中」としてイメージされている。言い換えれば、「遺伝子改造による難病等の属性が除去された状態=優秀」と「除去されていない状態=劣等」という二項対立が常に既に前提され、こうした属性の除去あるいは出生(生存)そのものの予防という思想と実践が偏在する社会である。
ここで注意すべきことは、この場合の「イメージされている」という事態も、無意識的なものだということである。「社会的強制力が、無意識のレベルで偏在的なものとなった世界」のイメージとは、それ自体無意識的なものである。その意味で、意識化されることなく<我々自身の無意識>を構成するこのイメージは、「何らかの遺伝子疾患という属性を持った人の生存は、より価値が低いものであり、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という<言表>の際限の無い反復がもたらす記憶痕跡のレベルにある。
次に、「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする。親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか」は、最も単純に「分類」するなら、「先に見た事例ほど自らの葛藤に自覚的ではなく、葛藤レベルも低いアンビバレントなタイプ」と判断できるだろう。確かに、「親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか」は、先の事例に通じる懐疑と捉えることもできる。この事例よりも文脈が意識化された先の事例では、「子供は「作る」ものではなく「授かる」ものだと思う。遺伝子操作により好みの子供を「作った」としても、その子がそのまま「親の思い通りの作り物」になるわけではない。子供を「作る」という意識は子供が親の所有物であるような意識につながりやすい。子供自身の人権は守られるか」という記述であった。
だが、この「優秀な人間ばかりになるのだろうか」という記述には、「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする」との文脈の一貫性が欠けている。一見すると、これらの記述(第一文と第二文)の間のみならず、「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする」という記述自身も何らかの「葛藤」を表現しているかに見える。だが、この記述は、実は「葛藤」を表現しているのではなく、それよりもはるかに根源的な、偏在する<我々自身の無意識>を、すなわち、社会的強制力が無意識のレベルで偏在的なものとなった世界を暗黙のレベルで指示している。  
とりわけ「なんだかつまらない気もする」という表現は、この偏在性がもたらす(今風に言えば)「ダルさ」を暗黙のレベルで指示していると言えるだろう。もしその「ダルさ」が顕在化するなら(実際には暗黙のレベルに留まる)、「もはや、あるいは常に既に、すべては超微細なレベルで決定されている」といった<言表>の際限の無い反復で表現されるような。この<我々自身の無意識>は、意識化(対象化)されることなく、あくまでも無意識に留まっている。それ自体無意識的なこの世界のイメージは、いささかも揺らいではいないのである。
次に、テーマ文2に対する記述において着目すべきことは、「それができるとなると」という記述に凝縮されている。この記述も、先に述べた「社会的強制力が無意識のレベルで偏在的なものとなった世界」を指示していると言える。一見して明らかなように、1の「そうすると」と、ここでの「それができるとなると」という書き出しのスタイルは極似しており、このスタイルそのものが本事例の特徴である。
この特徴から、この記述は遺伝子レベルへの技術的介入に対する肯定的な要素がかなり強いと言える。ここには、この技術的介入における「失敗」という事態が、その社会的効果にとどまらない致命的な事態をもたらす可能性についての危惧はない。既述の、改変された遺伝情報が世代を通じて子孫に継承されていくことがもたらす予測不可能な効果という問題である。それどころか、「自分に似たんだからしようがないという諦め方はできなくなる」という記述からは、子孫や生態系は別としても、そのようにして「生産された」子どもが負うリスクについての眼差しも感じられない。「うまくいかない時」の「諦め」が、もっぱら自分自身のこととして語られてしまっている。これは一体なぜなのか。この問いは、実は予想以上に困難な問いである。
精神分析のアプローチを採用するなら、この個人のどちらかというと否定的な自己イメージのあり方や由来に関してさらに精緻な分析が可能かもしれない。だが、これだけの記述から、これ以上の分析を行うことは困難である。その分析は、かなりの程度仮説的なものにとどまるだろう。
また、テーマ文1に対する先の記述と同様に、論理的一貫性の希薄さも本事例の特徴である。遺伝子への介入あるいは生命の選別に対して肯定的・否定的な主張のいずれと仮定しても、その意味内容の一貫性を読み取ることは困難である。また、整合的に読み取り可能な批判的理念もここには存在しない。
だが、ここで重要なことは、批判的理念に基づいた論理的一貫性が稀薄であるという事態と、<我々自身の無意識>が意識化(対象化)されない状態にとどまるという事態とが、不可分な関係にあるということである。言い換えれば、「それができるとなると」以下の記述から一貫した意味内容を読み取ることが困難であるということは重要ではない。むしろ、意味内容の読み取りの困難さこそが、根底に存在する<我々自身の無意識>の存在と整合的なのである。すなわち、この個人によるこれまでの記述のベースに、「すべては超微細なレベルで決定されている」といった<言表>の際限の無い反復で表現される世界が暗黙の内にイメージされている。この事態にこそ、根源的な一貫性がある。
おそらく、個々人が<我々自身の無意識>を意識化(対象化)しそれに直面するという事態の発生は、現在のところ仮想されているに過ぎない何らかのメカニズムによって、あらかじめ<排除>されている。このことは、自己イメージの由来についてのこれ以上の精緻な分析が困難であることとも関わる。
次に、テーマ文3に対する記述だが、まず、「現実的な話でも」は、テーマ文3冒頭の「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」という記述を受けていると推測できる。テーマ文1,2に対する記述において、私たちは暗黙のレベルにとどまる<我々自身の無意識>の偏在性を指摘した。この<我々自身の無意識>が偏在する世界イメージは無時間的なものであった。だが、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」というテーマ文3冒頭の記述が、この無時間性に時間性を導入することになる。無意識とは無時間性のもとに滞留することであり、従って、この無時間性から時間性への移行が、<我々自身の無意識>の意識化(対象化)過程の端緒を形成すると考えられる。
ここで導入された時間性は、<我々自身の無意識>のまどろみに亀裂を穿ち得るだろうか。「現実的な話でも重い人生を自分や人に負わせることはできないが---」では、「重い人生を自分や人に負わせることはできない」ということ、すなわち自分の場合にも人の場合にも(従ってほとんど全ての場合において)避けがたい事態として、生命の選別(「不要」になった受精卵の廃棄等)が想定されている。
ここでは生命の選別が避けがたい(「できない」)事態として意識化(対象化)されている。そのため、「できないが---。本当はどんな子が生まれても家族や社会で守ることができるのがよいと思う」という記述がなされている。この記述を、批判的に一貫した文脈が生成する萌芽状態として捉えることもできる。個人とテーマ文との応答過程の展開とともに、これまで無意識的であった層が浮上してきたのかもしれない。だが、導入された時間性が、<排除>のメカニズムを超えて、<我々自身の無意識>のまどろみに亀裂を穿ち得たのか。この問いに対する決定的な応答はまだ存在していない。


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