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バス停地名学のすすめ

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2010.01.07
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カテゴリ:中央区
(前回からのつづき)

往古の奥州街道は、後の日光東照宮への参詣道として整備され、日本橋を起点に浅草橋、蔵前、雷門、小塚原、千住大橋を経て千住宿、草加、越谷方面へと通じていました。日光街道と呼ばれる道筋ですが、江戸時代は日光道中と称する方が正しかったようです。

浅草橋南詰は、浅草口と呼ばれた江戸城外郭門の跡地で、寛永13年(1636)に桝形櫓が造営され、浅草見附として番士が置かれるようになりました。いわゆる江戸三六見附のうちでは、最も外側に位置した見附であり、当初は見附を出るとあたりは人家もまばらな淋しい場所だったといいます。明暦3年(1657)の江戸の大火の際は、現在の日本橋小伝馬町にあった牢屋敷の非常措置として囚人が仮釈放されましたが、浅草口へ押し寄せた囚人たちを番士が集団脱獄と勘違いして門を閉ざしてしまったことから、猛火に追われた市民が避難路を失い、神田川へ落ちるなどして2万人余りの死者を出したと伝えられます。現在は、橋の北詰西側に「浅草見附跡」の碑を見ることができます。

浅草橋では、かつての都電12系統の他、25、29系統が交差点を東西に直進、一方で国道6号(江戸通り)の方は22、31系統が南北に直進していましたが、この交差点には岩本町方向から蔵前方向へ曲るレールがあり、普段使われることは無かったものの、都心を周回する花電車の運行や、電車の回送などに使われたといいます。

12系統で浅草橋を過ぎると、次の電停は両国橋西詰の両国電停でした。両国というと、隅田川対岸の墨田区側の地名というイメージが強いですが、もともとは両国橋を挟んで東西両方に両国地名はあり、中央区側の両国は昭和46年の住居表示実施により、東日本橋と改称され消滅しました。

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最終更新日  2010.01.07 23:50:29
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