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バス停地名学のすすめ

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港区

2009.11.04
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カテゴリ:港区
(前回からのつづき)

青山霊園一帯は、江戸期の青山氏の屋敷地跡で、明治7年から市民向けの共葬地となり、後の青山霊園の前身となりました。国内における公営墓地の先駆けでもあります。尾崎紅葉、国木田独歩、斎藤茂吉、北里柴三郎、乃木希典、大久保利通など、多数の文人や学者、政治家らの墓石も並んでいます。忠犬ハチ公の墓もここにあります。

バス停の東側、青山霊園に隣接する六本木7丁目一帯は、鉄条網で囲われた米軍施設となっています。六本木に近い都心の中心部にこのような敷地があることはあまり知られていないかもしれませんが、ヘリポートや星条旗新聞社の建物などがあります。二・二六事件で知られる旧陸軍麻布三連隊の跡地の一部で、戦後の米軍による接収後、その一部がいまだに返還されていないというのが現状のようです。

再びバス停に戻ります。ここが西麻布や六本木に近い立地とは思えないほどの静けさの原因は、言うまでもなく青山霊園と米軍施設に挟まれた立地故のことですが、道路すらなかった都電の専用軌道時代の静けさはどれほどのものだったでしょうか。そんなことを思いながら周囲を見回していると、「仏蘭西料理 龍土軒」の大きな看板が目に入ってきます。明治33年開業の東京で最も古いフランス料理店で、明治期から大正期にかけては高級軍人や文化人のサロンとして知られ、田山花袋や国木田独歩らの自然主義作家の集会場ともなり、「自然主義は龍土軒の灰皿の中から生れた」といわれることもあったようです。残念ながら、現在は建替え工事による休業中で、看板はあってもお店は存在しませんのでご注意下さい。

************************************

本ブログで過去にご紹介した以下のバス停も、旧都電7系統の電停名を継承しているバス停です。関心のある方は是非ご参照下さい。

光林寺前
広尾橋
権田原
左門町

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最終更新日  2009.11.11 23:10:53
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2009.11.01
カテゴリ:港区
バス停データ
◆所在地:港区 ◆路線:都営バス[品97]系統

みなさん、こんにちは。

都電荒川線が廃止を免れた理由のひとつに、専用軌道の区間が多かったこと、すなわち、渋滞の原因とならず、バスへの置き換えが難しかったことが挙げられますが、後に荒川線となった27、32系統に限らず、専用軌道区間を持つ都電の路線は他にも意外と多く、天現寺橋で明治通りから北へ進行方向を変えたかつての7系統の場合、その先の広尾橋から青山一丁目までの区間が、郊外電車のようなのどかな景観を持つ専用軌道区間となっていました。

現在は交通量の多い外苑西通りとなり、このルートを辿る都営バス[品97]系統の車窓からも、専用軌道時代の景観を思い浮かべるのは至難の技といえるかもしれません。西麻布交差点(かつての霞町電停)で六本木通りを越えると、左手には広大な青山霊園の緑が広がりますが、このあたりの景観だけは、霊園ということもあり、都電時代とさほど大きな変化は見られないのではないでしょうか。そんな青山霊園の南端入口付近にあったのが墓地下電停で、そのストレートな命名にいかにも時代を感じさせますが、現在もその場所には[品97]系統のバス停があり、都電時代の電停名がしっかりと守られています。

バスを降りると、桜並木で知られる霊園中央の目抜き通りが、目の前の霊園入口から一直線に北へと伸びています。この通りは緩やかな上り坂となっていますが、台地上の斜面に展開する青山霊園の南端部は、地形的に文字通り「墓地」の「下」であり、かつての専用軌道が台地に挟まれた谷地に沿って敷かれていたことを、改めて実感することができます。

(次回へつづく)

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最終更新日  2009.11.01 23:45:44
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2009.10.28
カテゴリ:港区
(前回からのつづき)

交差点の北西角側は、高層の都営広尾五丁目アパートが聳えていますが、この場所はかつての都電広尾車庫の跡地です。大正7年の開設で、7、8系統と、33、34系統を担当していました。車庫名と近接する電停名が全く異なる事例は、都電ではここだけのようで、各系統からの入庫電車が系統番号を掲示しないという慣習があったのも、広尾だけといいます。天現寺橋からすべての都電が消えた昭和44年10月、車庫も廃止となりました。

都営アパートの西側には、これも車庫跡地の一部である広尾公園がありますが、ここに渋谷区教育委員会による「都電車庫跡」の説明板がひっそりと立っています。車庫跡地でこうしたものがあるのも、ここだけではないでしょうか。説明を読むと「恵比寿方面への始発点でもありました」の一文がありますが、これは戦時中の昭和19年5月まで運転されていた天現寺橋~恵比寿長者丸間の支線を指すもので、簡易な説明文がこの支線にまで触れていることに驚かされます。当時は専用軌道で、途中に豊沢、白金三光町、伊達跡の電停があったといいますが、現在は大半が外苑西通りとなり、かつての伊達跡から恵比寿長者丸付近に、廃線跡らしき小径がかすかに残る区間があるようです。

日本では定着しませんでしたが、交通量の多い交差点の中心に円形の台を置き、その周囲をぐるぐると車が回るロータリー方式が、都電時代の一時期、この天現寺橋交差点で採用されていました。都電はどうしたのだろうと、古い地図を調べてみると、7系統はロータリー手前で明治通りから右折、渋谷橋方面への電車のみが、ロータリーの中心部をくり抜くようにして直進していたようです。

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最終更新日  2009.10.28 10:44:13
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2009.10.25
カテゴリ:港区
バス停データ
◆所在地:港区 ◆路線:都営バス[品97]系統他

みなさん、こんにちは。

品川駅前から四谷3丁目までを結んだかつての都電7系統は、泉岳寺から伊皿子を経て古川橋に出ると、古川に沿って西へ進み、やがて渋谷方面との分岐点となる天現寺橋電停に到着しました。明治通りと外苑西通りとの交差点で、現在も電停名を受け継ぐ都営のバス停が交差点の周囲に立っていますが、ちょうど港区と渋谷区の境界となる場所でもあり、明治通り上のバス停は港区側に、外苑西通り上のバス停は渋谷区側にそれぞれ属しています。

天現寺橋とは、交差点の南側で古川(渋谷川)を渡す外苑西通りの橋名です。かつてはここで青山方面から南下してきた笄(こうがい)川が合流し、天現寺橋はその笄川に架かる橋であったともいわれますが、笄川の暗渠により、いつの頃からか古川の橋という位置付けで定着しています。古川は元禄11年(1698)の富士見御殿造営の際に川幅拡張が行われましたが、その終点がこの天現寺橋で、故に堀留橋の別名もありました。交差点の南西側に設けられた橋の欄干から古川を覗き込むと、笄川跡と思われる下水が外苑西通り側から合流している様子を見ることができます。笄川については、第239回「広尾橋」の項でも触れましたので、ぜひ参照下さい。

橋名の由来となった天現寺は、交差点の北西角側にあります。享保4年(1719)の創建で、聖徳太子の作ともいわれる毘沙門天を祀っています。境内には孝光天王御陵の石燈籠や芭蕉の句碑があることで知られますが、現在は境内全域が工事中で、立ち寄るのも憚れる様子です。

(次回へつづく)

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最終更新日  2009.10.26 00:33:08
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2009.09.22
カテゴリ:港区
(前回からのつづき)

芝園橋を歩いて渡ってみると、石造りの大きな親柱の存在に目を惹かれます。橋そのものは昭和59年に架け替えられていますが、親柱だけは大正末年創架の旧橋のものが再利用されているようで、都電時代の芝園橋を見つめてきた貴重な遺構(といっても現役ですが)に思いがけず出会えたことになります。

せっかくなので、橋の北詰から芝公園へと足を進めてみました。この広大な公園地の中心は、なんといっても増上寺ですが、慶長3年(1598)に増上寺がこの地に移転してきて以来、周辺は同寺の大伽藍をはじめ、将軍家の霊廟や多数の子院、学寮が集まる大規模な寺地として発展してきました。武蔵野台地の東端に位置し、丘陵地と谷地が複雑に入り組んだ地勢は、次第に多くの江戸市民の遊行場としても知られるようになりました。公園地としての指定を受けたのは明治6年で、このときから芝公園と呼ばれるようになり、増上寺東照宮の場所を1号地、同寺本堂を2号地、将軍家霊廟を3号地という順で区画割がされ、25号地までが設定されました。

芝園橋から公園へのアプローチとなる芝公園南端の一帯がかつての1号地で、樹々の合い間の遊歩道を歩いていくと、5世紀中頃の前方後円墳の一部で芝丸山古墳と呼ばれる小高い丘があり、都心の喧騒がすうっと後ろへ引いていくような静寂の空間に包み込まれます。その手前には、明治期に西新宿の通称「銀世界」から移したという梅林があり、初春の梅の季節には賑わいを見せるといいます。

古川に沿って東進してきたかつての都電4系統は、芝園橋を出ると間もなく、古川河口部に近い金杉橋で1系統と合流し、国道15号(第一京浜)を銀座2丁目まで北上していきました。

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本ブログで過去にご紹介した以下のバス停も、旧都電4系統の電停名を継承しているバス停です。
関心のある方は是非ご参照下さい。

清正公前
魚籃坂下

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最終更新日  2009.09.23 00:15:19
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2009.09.19
カテゴリ:港区
バス停データ
◆所在地:港区 ◆路線:都営バス[都06]系統

みなさん、こんにちは。

「露しげき道の芝生をふみちらし駒にまかする明暮の空」とは『平安紀行』に見られる記述ですが、港区の芝地名は、武蔵野の東端の芝の生い茂る草原のような景観に因むとする説が一般的といわれます。一方で、小田原北条氏の文書には「柴金曾木船持中」とあり、永禄年間(1558~70)の文書にも「柴代官百姓中」「柴船持中」とあり、海岸に海苔を引っ掛けるための小枝(柴)を並べ置いた景観から「柴」の地名が生じたとする説もあるようです。他にも、足利家の管領、斯波(しば)氏が住んだことに因むとする説などがあり、定かではないようですが、古くは地名にも「柴」の字が使われ、江戸期に入る頃から「芝」の字に統一されたものと思われます。

古川に沿って三ノ橋、二ノ橋と進んできたかつての都電4系統は、現在は麻布十番駅のある一ノ橋でほぼ直角に流れの向きを変える古川とともに、進行方向を東に向け、中ノ橋、赤羽橋を過ぎると、次が芝園橋電停でした。電停は日比谷通りを渡す芝園橋の南詰にありましたが、現在も都営バス[都06]系統の同名のバス停が立っています。100メートルほどの距離に都営三田線の芝公園駅があるにもかかわらず、バス停が芝園橋の名を堅持し続けている姿が、嬉しく感じられます。

古くから芝の海岸を「芝浦」と称したように、芝園の名は芝の公園、すなわち芝公園を現しているといいます。橋の北詰側が芝公園の南端で、古川にかぶさる首都高速都心環状線の高架の奥に、公園の深い緑が広がっています。増上寺や東京タワーへも間近で、都心のちょっとした散歩には適した立地といえそうです。

(次回へつづく)

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最終更新日  2009.09.19 23:47:50
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2009.09.16
カテゴリ:港区
(前回からのつづき)

二ノ橋を渡ると、道はすぐに三田の高台へ上る急坂となりますが、これを日向坂と呼びます。江戸期、近くに毛利日向守の屋敷地があったことに因む名で、二ノ橋にも日向橋の別名がありました。一方で、橋の西側には間部若狭守の屋敷があったため、間部橋と呼ばれることもあったといいます。同様の事例は三ノ橋にもあり、松平肥後守の屋敷地に近かったことから、肥後橋の別名がありました。

二ノ橋から古川の下流方向を眺めると、首都高速2号線に蓋をされて薄暗い川面の奥に、小さな小山橋の姿が見えます。一ノ橋と二ノ橋の中間の橋で、欄干の低い桁橋ですが、その桁の中央に大きく「小山橋」と表示されています。三田の高台北部で古くから使われてきた小山の地名が、こうして橋名として残されている姿を見るのは、私のような散歩者にとっては嬉しい眺めです。

古い地名といえばもうひとつ、小山橋西詰に設けられている小さな公園に新広尾公園の名があるのを見つけ、驚かされました。麻布十番に近いこの場所で「広尾」の地名は違和感がありますが、実は昭和40年前後の住居表示の施行前まで、古川の一ノ橋から上流の天現寺橋に至る川沿いに、約2キロに及ぶ帯状で細長い新広尾町という町域がありました。明治期に広尾周辺の住民が移転して飛び地のような格好で形成されたものと思われ、当時の広尾町の番地が79番地までだったのに対し、新広尾町は80番地から始まっていたといわれます。

バス通りに出て二ノ橋へ戻ります。歩道の脇を注意して見ていると、「にのはし」と刻まれた旧橋の親柱が保存されているのを見つけました。現在の橋のひと世代前、昭和10年に改架された鋼鈑橋のものと思われ、都電時代の二ノ橋を見つめてきた貴重な遺構を前に、しばし目を細めて立ち止まってしまいました。

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最終更新日  2009.09.16 09:37:28
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2009.09.13
カテゴリ:港区
バス停データ
◆所在地:港区 ◆路線:都営バス[都06]系統他

みなさん、こんにちは。

古川橋から古川に沿って北上したかつての都電4系統には、その先三ノ橋、ニノ橋、一ノ橋と電停が続いていました。一の橋が現在の麻布十番駅の場所で、平成12年に地下鉄南北線と大江戸線が相次いで開業して以来、都電時代から受け継がれた一ノ橋バス停は麻布十番駅前と改称されてしまいましたが、三ノ橋、ニノ橋の名は変わることなく、現在も都電時代と同じ場所にバス停が立っています。

ニノ橋のバス停を降りて、ふと信号を見上げると、交差点名の表示は「ニの橋」であることに気が付きます。都電時代の古い写真を見ると、電停名の表記にも「ニノ橋」と「二の橋」の両方が混在したようで、これはどちらが正解かなどと、あまり厳密に考えるべき問題ではないようです。

そのニの橋交差点の東側が、すぐに古川に架かるニノ橋です。橋名の表記には「二之橋」もあり、この不統一さが逆に面白くもあります。そもそも一ノ橋、二ノ橋といった橋名は、江戸期からのものですが、元禄11年(1698)、上流の天現寺橋の手前、現在の南麻布4丁目の高台に将軍家の別荘である富士見御殿(白金御殿)が造営されてからは、一ノ橋がその船入口となったことからその名があるといい、これを起点に、順に二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋の名が生じたといわれます。

(次回へつづく)

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最終更新日  2009.09.14 00:25:26
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2009.09.09
カテゴリ:港区
(前回からのつづき)

古川橋の下を流れる川は、いうまでもなく古川です。場所により渋谷川、赤羽川、金杉川などと名を変えるこの川については、本ブログでも第280回「光林寺」第342回「内藤町大京町」の項などでご紹介しましたので、ご参照下さい。江戸期に通船のための川幅拡張工事が行われてからは、新堀川の名もありましたが、古川橋の北詰側、現在の南麻布2丁目一帯には、昭和41年の住居表示施行まで新堀町の町名がありました。

かつての都電4系統は、五反田駅前から古川橋を経て、金杉橋から1系統と合流して銀座2丁目までを結んでいましたが、その廃止後の代替は都営バス[橋99]系統として、五反田駅~新橋駅間に設定されていました。その代替バスも昭和54年に廃止となっていますが、現在の古川橋バス停で路線図をよく見ると、都電4系統のルートを踏襲する路線として、五反田駅~赤羽橋駅間の[反94]系統があることに気が付きます。時刻表を見ると、朝夕7便のみという寂しい状況ですが、この路線、[橋99]系統の末裔かと思うとそうではなく、第139回「魚籃坂下」の項でもご紹介した[反96]系統の「8」の字運転解消により新設された路線とのこと。

都電の廃止後、古川橋周辺は地下鉄には縁遠い場所で、長らく路線バスが地域の足の主力として重宝されてきましたが、近年相次いで地下鉄南北線や大江戸線、そして三田線の延伸部などが開通し、バスは大幅な路線変更と減便が繰り返され、運行形態がわかりにくくになるとともに、利用しづらくなった感があります。こうして路面交通が廃れていくと、街の雰囲気が無味乾燥化していくように感じるのは私だけでしょうか。現在の古川橋周辺を歩いていると、その思いがどうしても強まっていきます。

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最終更新日  2009.09.09 15:35:28
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2009.09.06
カテゴリ:港区
バス停データ
◆所在地:港区 ◆路線:都営バス[都06]系統他

みなさん、こんにちは。

五反田駅前を発車した都電4系統は、国道1号(桜田通り)を北上し、清正公前で目黒駅前からの5系統と合流、さらに魚籃坂下で品川駅前からの7系統と合流すると、間もなく古川橋電停に到着しました。ここでは中目黒からの8系統、渋谷駅前からの34系統も顔を揃えましたので、終日電車の姿が絶えることのない繁華な交差点だったことが想像できます。現在も、かつての都電34系統のルートを辿る都営バス[都06]系統を中心に、4本の路線が通過する古川橋バス停がありますが、地下鉄の駅から少し離れているせいもあり、よほどの用事がない限り訪ねるチャンスの少ない場所でもあります。

古川橋については、私の好きな永井荷風の随筆『日和下駄』にこんな記述があります。

溝川が貧民窟に調和する光景の中(うち)、その最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から三之橋(さんのはし)に至る間の川筋であろう

「貧民窟」というとストレートな表現ですが、この古川橋付近の川沿いには明治から大正期にかけて小さな町工場がぎっしりと建ち並び、大雨のたびに氾濫を繰り返す古川の水に悩まされながらも、一日一日を懸命に暮らす人々の姿が見られました。

橋そのものは、昭和初年頃に鋼橋に架け替えられていますから、スラム的な周囲の景観もその頃から次第に変り始めたのではないでしょうか。現在の橋は昭和43年改架のものですが、せっかく橋が新しくなったのも束の間、その翌年の10月をもって、古川橋を渡った都電路線はすべて廃止となりました。

(次回へつづく)

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最終更新日  2009.09.06 23:32:21
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