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バス停地名学のすすめ

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全6件 (6件中 1-6件目)

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瑞穂町

2008.05.22
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カテゴリ:瑞穂町
(前回からのつづき)

狭山池の北側に、調練橋という小さな橋が架かっています。その名は幕末の頃、付近で農兵への鉄砲訓練が行われたことに由来するといいます。橋の下の水路を辿って歩いてくと、住宅街の先には広大な農地が広がり、遠くに霞む奥多摩の山々まで見ることができます。

池の東側には、日光街道の大橋場にあった常夜燈籠が移設保存されています。埼玉県志木の石工の作といい、政情の不安定だった幕末の慶応元年(1865)に、街道と村の安全を祈念して建てられたもので、震災により倒壊し、移設されたとのこと。

残堀川の取水口などを見ながら、住宅街を抜けて青梅街道に戻ります。途中、子供の飛び出し注意を喚起する看板に英語が併記されているのを見て、改めて瑞穂町が基地の街であることを実感します。既に、バスを降りてからの二時間ほどの間にも、基地へ着陸しようとする米軍機の爆音が繰り返し頭上に響いています。

青梅街道を越えると、箱根ヶ崎駅です。2年前に完成したばかりの橋上駅舎は眩しいばかりですが、駅前は古色蒼然とした佇まいがそのまま残り、アンバランスな景観を作り出しています。そして駅前広場には、見慣れた都営の緑色のバス停が立っています。駅前に[梅70]が顔を出すのは、平日と土曜日の1日3便のみで、2便は小平駅行き、1便は東大和市駅行きとなっています。

駅前から南へ歩くと、新青梅街道に出る手前に、加藤塚があります。村山土佐守に討たれた武田氏の家臣加藤景忠の墓といわれ、かつては樹々に包まれた静かな場所だったようですが、基地への航空機の障害となることから、戦後に樹々はすべて伐採されたとのこと。新青梅街道の向こう側は、もう米軍横田基地の敷地で、高いフェンスが延々と続く様子が見えています。

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最終更新日  2008.05.22 23:16:09
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2008.05.20
カテゴリ:瑞穂町
(前回からのつづき)

円福寺の先にある箱根ヶ崎交差点から、北へと歩いてみます。今まで、青梅街道から北へ入れば、常に狭山丘陵に突き当たってきましたが、すでに丘陵の西端を越えているため、ここでは右手に丘陵を望むかたちになります。左に如意輪幼稚園の色とりどりの花壇を見ながら進むと、残堀川を越え、やがて前方に狭山神社の鎮座する小高い丘が見えてきます。

狭山神社の創建年代は不詳といいますが、源朝義が永承年間(1046~53)に奥州へ発つ際、この地で戦勝を祈願し箱根権現を勧請したと伝えられます。樹々に包まれ鬱蒼とした長い石段を三の鳥居までくぐると、ようやく丘の上の本殿前に出ます。

狭山というと埼玉県のイメージが強いかもしれませんが、元来は狭山丘陵とその北西部一帯の地名であり、立派に東京都内の地名でもあります。「さ」は細長いの意とされ、東西に細長い島状の狭山丘陵の地形から狭山の地名が生じたといわれます。

狭山神社境内には勝海舟揮毫による狭山茶場碑がありますが、狭山といえばまず思い浮かべるのが狭山茶でしょう。静岡、宇治と並ぶお茶の三大銘柄のひとつで、栽培のルーツは鎌倉時代にまで遡るといいますが、江戸期の新田開発によりこの地域の特産品として普及しました。「狭山茶」ブランドの表示には、埼玉県内産と埼玉県に隣接する東京都西部産の茶葉使用が定義されているそうです。

狭山神社前西側から北上する狭い通りは、飯能街道ですが、そこからすぐに西へ別れると、正面が狭山池公園です。公園の中央に広がる大きな池は、古くから筥(はこ)の池と呼ばれ、箱根ヶ崎の地名由来のひとつともなっています。現在は残堀川の水源となっていますが、もとは狭山丘陵を源としていた残堀川が、承応3年(1654)に玉川上水の助水となった際、狭山池の水を残堀川に流すための堀割が掘削されました。

(次回へつづく)

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最終更新日  2008.05.20 23:20:01
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2008.05.18
カテゴリ:瑞穂町
(前回からのつづき)

バスを降り、掲示されている路線図からバス停数を数えてみると、箱根ヶ崎は起点の柳沢駅から63番目(※)のバス停であり、これで全行程の約3分の2を消化したことを確認しました。

バス停から青梅街道を少し戻ると、日光街道との交差点があります。箱根ヶ崎は江戸期の宿駅でしたが、もとは八王子の千人同心が日光勤番に際して往き来した日光往還(日光街道)の宿駅として発展しました。八王子から数えると、拝島に続く第二宿になります。青梅街道との交差点付近が宿の南端にあたり、順に上宿、中宿、下宿と分けられていました。

交差点から日光街道を歩いてみると、随所に古い商家なども見え、歴史の刻まれた街の面影を感じ取ることができます。やがて残堀川を渡る大橋に出ますが、ここはかつては大橋場と呼ばれ、現在もすぐそばに西武バスの大橋場バス停があります。橋の親柱には常夜燈を模した飾りがついていますが、これは震災までこの地に大きな常夜燈籠があったことを示しています。

バス停に戻り青梅街道を西へ歩くと、すぐ右手が円福寺です。幕末の戊辰戦争の際、彰義隊から分かれた振武軍が、彰義隊の動向を窺いながら一時駐屯した寺でもあります。寺の東側には旧名主の村山家が隣接し、庭先には振武軍駐屯の際のエピソードが残る名主村山為一郎(一直)の簿銘碑が、街道に面して立っています。また、瑞穂町は「だるま(東京だるま)」を特産品のひとつとしていますが、円福寺は毎年一月のだるま市の会場ともなっています。

(次回へつづく)

(※)3月末に小川一番~東大和市駅間に小川1丁目アパート前バス停が新設され、[梅70]全体のバス停数がひとつ増えました。

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最終更新日  2008.05.18 22:41:35
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2008.05.16
カテゴリ:瑞穂町
みなさん、こんにちは。
いつも「バス停地名学のすすめ」をご訪問いただき、ありがとうございます。

さて、既に予告させていただきましたとおり、今回からは「連載200回突破記念」としまして、「梅70編・拡大版」全4回シリーズをお届けします。
取り上げるバス停は「箱根ヶ崎」です。今年の2月から延々と続けてきました「梅70編」も、ようやく終点の青梅が近づいてきましたが、あっさり青梅に辿り着くのも味気なく思い、箱根ヶ崎での途中下車をゆっくりと楽しんでみることにしました。みなさんもご一緒にお楽しみいただければ幸いです。

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バス停データ
◆所在地:西多摩郡瑞穂町 ◆路線:都営バス[梅70]系統他

バスは殿ヶ谷から石畑へと進むと、右手前方の丘陵先端部に建つ瑞穂町のシンボル、ビューパークスカイホールが見えてきます。東大和市の奈良橋から常に街道右手背後に姿を見せていた狭山丘陵とも、間もなくお別れです。

石畑バス停を過ぎると、間もなく左手から残堀川が近づき、青梅街道は吉野橋に差しかかります。その橋上に瑞穂第一小学校バス停がありますが、右手を見ると道路脇に建つ吉野岳地蔵堂が目に入ってきます。中の地蔵像までは見えませんが、堂そのものは小ぶりながらも立派な唐様建築で、大きく張り出した屋根が存在感を遺憾なく発揮しています。

吉野橋で残堀川を渡ると、青梅街道の左右は俄に商店街の街並みとなり、瑞穂町の中心地である箱根ヶ崎の市街地へ入ったことがわかります。といっても、人通りは少なく、シャッターを下ろした店も目立つようで、商店街らしい活気のある息遣いは聞こえてきそうにありません。見れば、街灯には「元気を出せ! 商店街」の文字が入ったペナントが、風に揺れています。

瑞穂町役場入口バス停を過ぎると、やがて左手にまだ新しい時計台が見えます。この場所には、もともと昭和6年に建造された木造の時計台があったといいますが、老朽化のため昭和30年代後半に解体撤去され、それを平成15年に復元したものが、現在の時計台です。時計台の左手を青梅街道から南西方向に分岐していく通りは、近世の頃に整備された旧青梅街道にあたるといい、時計台は新旧街道筋の追分地点に位置していました。時計台の脇を走り抜けると、バスは間もなく箱根ヶ崎バス停に到着します。

(次回へつづく)

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最終更新日  2008.05.16 23:21:42
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2008.05.13
カテゴリ:瑞穂町
(前回からのつづき)

丘陵に沿った住宅地を西へ歩くと、玉林寺公園という小さな公園に出くわします。同名の寺の跡地のようで、裏手の丘陵奥には須賀神社があります。公園の北側に大きな倉庫のような建物がありますが、ここには昨年瑞穂町の文化財に指定された殿ヶ谷の山車が格納されています。安政年間(1854~60)の建造といわれ、山車の中央に一本の柱を立てる独特の様式を今も見ることができるとのことです。

そこからさらに東へ歩くと、丘陵に面して広大な境内を持つ福正寺です。村山土佐守居館跡とされる地にあり、開山は鎌倉時代後期とのこと。境内に入って左手の高台にある観音堂は、土佐守により再興されたと伝えられ、長野の善光寺などに見られる撞木(しゅもく)造り(T字型の棟)の構造が特長です。

本堂の前には、樹齢約700年とされる貝多羅葉樹(ばいたらようじゅ)の木があります。古来インドなどで、葉を写経用の紙代わりとして使ったとされる木で、天然記念物になっています。境内はかつての豪族の居館跡にふさわしく、南側の斜面に面して立つと、その高い立地から立川方面までを一望の下に見渡すことができます。

バス停に戻ると、すぐ横の交差点角に殿ヶ谷地蔵尊と力石があり、その並びに火の見櫓が聳えていることに気付きます。説明によれば、昭和28年にこの地域の住民によって建造されたものとのこと。既に現役ではありませんが、芋窪で見てきた火の見櫓同様、狭山丘陵一帯の景観にもすっかり溶け込み、土地の財産として大切に保存されている様子がよくわかります。

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最終更新日  2008.05.13 22:37:06
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2008.05.11
カテゴリ:瑞穂町
バス停データ
◆所在地:西多摩郡瑞穂町 ◆路線:都営バス[梅70]系統他

みなさん、こんにちは。

三ツ木を出たバスは、武蔵村山市西北端の岸地区を西へ走ります。岸は、第184回「小川寺前」の項でご紹介した小川の開拓者、小川九郎兵衛の出生地です。今回は訪ねることができませんが、岸バス停から狭山丘陵へ向けてしばらく歩くと、小川寺同様に九郎兵衛の墓所となっている禅昌寺があります。また、その周辺の丘陵の谷地には、都立野山北公園の一部として、谷戸に広がる水田の景観が保存されている他、江戸時代の里山民家を復元した一画などもあり、時間のあるときにゆっくりと再訪してみたいエリアといえます。

岸バス停を過ぎると、青梅街道は間もなく武蔵村山市を抜け、西多摩郡瑞穂町に入ります。奥多摩町、日の出町とともに、残り少なくなった西多摩郡の「町」のひとつです。バスはやがて、殿ヶ谷バス停に到着します。

殿ヶ谷の地名も、かつては殿ヶ谷戸と称した谷戸地名のひとつといいます。「殿」は、戦国期にこの地の豪族として名を残している村山土佐守の居館があったことに因むとされますが、この村山氏と第193回「三ツ橋」の項でもご紹介した村山党との関連は、定かではないといいます。

バス停から岸方面へ少し戻ると、狭山丘陵に向って阿豆佐味天神社への長い桜並木の参道が伸びています。平安時代の『延喜式』に記載があるという古社で、村山党の拠点ともなっていたと伝えられます。小ぶりな社殿ではありますが、丘陵の緑に包まれた静寂とした境内には、長い歴史に培われた厳粛な空気が感じられます。

(次回へつづく)

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最終更新日  2008.05.13 22:21:55
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