第380回 【都電の残像編(34)】 墓地下(ぼちした) 後編
(前回からのつづき)青山霊園一帯は、江戸期の青山氏の屋敷地跡で、明治7年から市民向けの共葬地となり、後の青山霊園の前身となりました。国内における公営墓地の先駆けでもあります。尾崎紅葉、国木田独歩、斎藤茂吉、北里柴三郎、乃木希典、大久保利通など、多数の文人や学者、政治家らの墓石も並んでいます。忠犬ハチ公の墓もここにあります。バス停の東側、青山霊園に隣接する六本木7丁目一帯は、鉄条網で囲われた米軍施設となっています。六本木に近い都心の中心部にこのような敷地があることはあまり知られていないかもしれませんが、ヘリポートや星条旗新聞社の建物などがあります。二・二六事件で知られる旧陸軍麻布三連隊の跡地の一部で、戦後の米軍による接収後、その一部がいまだに返還されていないというのが現状のようです。再びバス停に戻ります。ここが西麻布や六本木に近い立地とは思えないほどの静けさの原因は、言うまでもなく青山霊園と米軍施設に挟まれた立地故のことですが、道路すらなかった都電の専用軌道時代の静けさはどれほどのものだったでしょうか。そんなことを思いながら周囲を見回していると、「仏蘭西料理 龍土軒」の大きな看板が目に入ってきます。明治33年開業の東京で最も古いフランス料理店で、明治期から大正期にかけては高級軍人や文化人のサロンとして知られ、田山花袋や国木田独歩らの自然主義作家の集会場ともなり、「自然主義は龍土軒の灰皿の中から生れた」といわれることもあったようです。残念ながら、現在は建替え工事による休業中で、看板はあってもお店は存在しませんのでご注意下さい。************************************本ブログで過去にご紹介した以下のバス停も、旧都電7系統の電停名を継承しているバス停です。関心のある方は是非ご参照下さい。光林寺前広尾橋権田原左門町↑↑↑ブログランキング参加中です。