第412回 【都電の残像編(66)】 大塚駅前(おおつかえきまえ) 後編
(前回からのつづき)巨大ターミナル池袋に隣接する立地のせいか、大塚駅の印象はいまひとつ垢抜けませんが、都電の開通年で見ると、大塚駅前が大正2年(旧王子電軌は明治44年)なのに対し、池袋駅前は昭和14年と、大きな開きがあります。もともと、戦前の城北エリアの商業中心地は大塚で、地下鉄丸ノ内線も当初は大塚発着が計画され、東武東上線も計画段階では大塚を起点としたといわれます。北口の、荒川線東側に見える書店の入るビルは、かつての白木屋デパートの建物であり、南口側に残る三業通りの名も、かつて三業地として賑わった街並みの名残りといえます。その大塚駅も、国有化前の日本鉄道による計画では、目白から現在の文京区大塚を経由するルートが検討され、駅は現在の地下鉄丸ノ内線新大塚駅付近に設置される予定だったとされています。それが池袋から巣鴨方面に至るルートに変更され、巣鴨村の一部であった現在地に大塚駅が開業する運びとなりました。本来の大塚から離れた場所に大塚駅が開業してしまったことで、駅周辺は本来の地名である巣鴨や西巣鴨より、大塚の名で呼ばれることの方が多くなり、これが昭和44年の住居表示施行の際、現在見られるような北大塚、南大塚の町名を生む結果となったようです。改札から駅南口のロータリーに出ると、32系統(旧王子電軌)の生まれ変わりである荒川線の電車が、目の前をゆっくりと横切っていきます。その線路の向こう側、現在は都営バス[都02]系統の降車用バス停の立つあたりの路上が、16系統の折り返した大塚駅前電停の跡地となります。先に開業した32系統に遠慮するように、線路は駅前ロータリー手前で折り返しとなり、線路の接続はありませんでした。春日通りへ続く駅前の通りを、大塚駅を背に、16系統の電車は南へと向かいました。↑↑↑ブログランキング参加中です。