人は死んでいく子牛の為に語る
「戦後は終わった」初めてそう言われ出したのは1956年ことですね。何を根拠にそう言われたのか「マスコミ」の標語は時々よくわからないことがあります。何かが終わった、そう宣言されるとき、過去をリセットしてまた新しく始めようじゃないか。そういう意味合いで使われることが多いようですね。云わば「かけ声」のようなものです。マスコミっていうのは、世論を醸成する役割を担っていますが、その発言の「主体」が、責任を問われることは殆んどありません。その理由は、なんとなく広がっていくものだからです。つまり、「噂話」に近いものがある。噂話っていうのは「誰が最初にそんなこと言い出したんだ!?」といっても、よくわからないもので、自然に消滅していくし。非常に無責任なものです。そしてこのまた「無責任」なものに振り回されるっていうのも人だ。という部分が、人間の面白いところでもあると思うんです。日本人はよく世間体というものを大事にしますね。世間というのは犯人のいない「事件」のようなもので、人々の噂話に上り、広がっていき、人々を驚かせたり、歓喜させたりします。そしてその犯人のいない「事件」の渦中(世間)に自分の身を置き、自分の身を心配したり、安心したりするのが一般的な日本人とその世間の付き合い方のようです。一方でぼくらは「根拠」というものを大事にします。「おい、その話、本当にちゃんとした根拠があるんだろうな?」といった具合に、それが本当に信頼できる情報なのかどうなのか?「根拠」を元に検証するわけです。非常に面白い話だと思います。世間には根拠というものはない。けれど人はそれを規範に行動する。一方で「根拠」のない情報は、科学的でないとして認めないわけです。つまり日本人は、この2つの基準を巧みに使い分けながら暮らす民族で、社会が機能しているというわけです。先日、仕事上の付き合いを越えて、個人的に親しいお客さんと打合せを終えた後、彼が「いわれのある面白いお寺があるんだ」というので、言われるまま案内されて、2人してお寺の境内を散策していました。そのお寺の歴史や仏師の話、火災で消失したあと再建された話など滔々と彼は語るわけです。日本人は共通した宗教を持たない民族国家で、世間や会社や家庭や趣味のサークルに所属することでアイデンティティを埋める人たちです。でも同じ歴史を持つ民族として、この国の過去を語っていると、何か静粛な気持ちになることがあります。こういった気分はナショナリズムと呼ばれるものなのかもしれませんが、世俗を超えた宗教的な境地を誰かと共有し、身と心を静かに置いてみると、何かスッと気持ちが浄化されていくような心地になります。昨今のパレスチナ問題や世界経済の先行き、そのどれもが、先の2つの大戦やそのもっとずっとずっと昔の過去の歴史とも無関係に切り放しては考えられはしないでしょう。そう考えると、歴史は、特定の国家や宗教に所属するものではなくて、ぼくら一人一人のものであり、人類に一つのものだと思うのです。