八坂神社 居合道奉納演武を見るの巻!(´~`;)/
大体ぼくは子供ころに柔道をしていたこともあり「道」と名のつくものには非常に興味があります。居合道もその例外ではありません。昨日八坂神社で奉納演武があり、見てきました。(ご多分に漏れず)居合道の「競技人口」も、今は少ないと聞きますけれど、外国の方が、この奉納演武に数名、参加されていました。それをどうのと言うつもりはないのですけれど、大相撲を見るまでもなく、日本で生まれた伝統文化が、日本人の手だけでは”守れなく”なりつつある、というのは、興味深い「現象」だと思います。くだんの奉納演武に参加されていた外国人剣士の、おひとかたを見ていると、大変緊張の面持ちで、頬などがプルプルと震え、その実直な様子が、好ましい印象を与えてくれたものです。若い女の子も居て(オバサンもいました!)、ポニーテールに結わえた髪と袴姿が凛々しく、何かいいですよ。非常に正しい感じがします。佇まいが!(><;)ところで。日本人ならば、武道や、もしくは華道や茶道などでもかまいませんが、伝統文化に通ずるたしなみがある方のほうが、ない方に比べ、例えば海外へ出たときに、日本人として語るべき教養を、より多く身に着けているということが、できるのではないでしょうか?そこでぼくが提唱したいのは、初等教育から伝統文化に親しむ機会をもっと設けるべきだということです。つまり。1時間目 柔道2時間目 華道3時間目 香道4時間目 弓道5時間目 茶道6時間目 剣道これではまるで。「寺子屋」ではあるまいか?こういう疑問を呈される方もいらっしゃるでしょう。(´ー`;)y-゛受験はどうするんだ?国際社会に遅れをとるぞ!なんて封建的な考えだ!鎖国する気か、ボケ!(`Э´*)/・・・などと言ったものです。そもそも国が作る教育カリキュラムなどといったものは、本来恣意的なものであるのに対し、現代ではそれが黙って国家によって一元管理されている。つまり。知識というのは本来、自由な発想と人格の上に形成されるもっとも人間的な営みであるはずのものであるのに。それが国の統治システムの名のもとに教育カリキュラムは管理され、「学力・偏差値」などといった便宜的な物差しに還元される。この人間教育の場に、悪しき「効率化とヒエラルキー」の構造がドッカと導入されている事実に、誰も疑問を差し挟まないということが、昔からぼくは不思議でならなかったわけです。むろん、「教育」が野放しになり「自由化」されることによる、弊害と心配もあります。しかしそれよりもぼくが危惧するのは、今の”教科書教育”が、なんの疑問も抱かれずに「放置」されているという、この「思考停止状態」の方なのです。八坂神社http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/