「長距離走者の孤独」と高齢化社会
「長距離走者の孤独」と言えば、アラン・シリトーの小説であり、彼の脚本によって映画化もされた作品のタイトルですが、何も長距離走者ばかり孤独なわけではありません。短距離走者にだって「孤独」はあるわけです。つまり、彼の小説のタイトルは人生の色んな事柄を比喩に含み想像させてくれるという点で、優れたキャッチコピーにもなっているわけです。例えば「長距離走者」と言えば、「長い」人生の喩えとして想像しやすいですね。そういえば日本もますます高齢化が進み、見渡せば老人ばかりです。右を見ても老人、左を見ても老人、見上げれば老人、去るも老人、追うも老人、すがるも老人、そしてまた老人なわけです(?)今や街角で子供や青年を見かけることなど、ジャンボ宝くじの1等に当たるくらい珍しい事であるわけです。о(><;)оいや冗談ではなくて、何かの手違いで500年くらい前の人間が現代にタイムスリップして、例えば銀座の街角に立てばこう呟くかもしれません。「この時代には老人しかいない」と。そしてもう50年もすれば、本当にそんな光景がぼくらの目の前の現実になるかもしれない。というのも、今ぼくは33歳ですが、どうも体力がガクっと落ちてきた様な不安をおぼえ、この頃トレーニングジムに通いだしているのですが、何もしないと確実に「昔の様には」いかないな、という、ある種「老化」に対する自覚の様なものが芽生え出し。ジムでマシンを相手にパチンと格闘しているというわけです。例えば野球選手で言えば、マリナーズのイチロー選手やヤンキースの松井選手などとほぼ同世代に属するわけですが、彼らは一流のアスリートとしてまだ一線で活躍していますけれど、体力的な衰えは確実に自覚してるんじゃないかというのはぼくの想像です。ヘルスメディケーションという言葉がありますけれど、病気にならない様に、日頃から健康管理に気を配る。こんなことは20代の頃には思いもしなかった世界です。高齢化社会、アンチエイジング、介護の問題。こういう現実やマスメディアの標語を目の当たりすると、別に健康オタクでなくとも、あるいはメディアの洗脳を受けやすい体質でなくとも、健康について考えないわけにはいかない。よく見かけるのが堤防などで、「ハアハア」いいながら、バシッとしたイデタチで駆け抜けるランナー達ですね。あれは確実に(アスファルトで)膝を痛めるし、(寒さやオーバーワークなどで)心筋梗塞や脳梗塞を招きかねないという点で、寿命を縮めてるとしか思えないのですが、彼ら「長距離走者」を見ていていつもぼくが思うのは、なぜワザワザ彼らは自ら「孤独」の中に飛び込むのだろうか?もしくは元々「孤独」なのだろう。だからワザワザ「長距離走者」であることを、彼らは選ぶのだ。と思うわけです。トレーニングジムやフィットネスクラブの良い点は、整備された環境の中で、自分のペースでできるという点です。ランニングっていうのは、今日はあそこまで走ろう!と目標を立て、目標の地点まで辿りついた時、すでに帰りの体力がない、というケースがありますね。これではまるで「神風」特攻隊、零戦ではありませんか。帰りは泣きながら歩くしかありませんね。大人のすることじゃありません。迷子の申し出をすれば、パトに乗っけてもらうこともできますが、できれば避けたい選択です。