愛の書評学!「ふたりが遺したラブレター」を読むの巻き
リディア・フレム(著)友重山桃(訳)「ふたりが遺したラブレター」出版社はヴィレッジブックスです。この本の著者リディア・フレムさんは、フロイト研究で知られる精神分析学者だそうですが、その内容は、母の死後、両親の「遺品」を整理しながら、親の死を受容していく過程を縦糸として紡がれていくノンフィクションです。とりわけモチィーフとしてクローズアップされているのがタイトルにもある「ラブレター」です。これは著者であるフレムさんがこの世に生を受ける以前、つまり両親がまだ結婚する前の恋愛期に交わされた往復書簡を、著者はそれをまるでパンドラの箱でも開けるような調子で、描き出していくわけです。どうなんでしょう?ぼくなんかは両親の馴れ初めから、どんな恋愛ドラマがあって、結婚するに至ったのか。もう、それこそ嫌という程に口伝えで聴かされているのですが、一般的にはどうなんでしょうか。この著者も本の中で語っているいるように、手紙というのはしばしば美化されやすいですから、もっと恋愛の奥深い部分。逡巡やトラブルや行き違い。言葉ではこう言っていたけれど、本心はこうだったとか。実は別の候補も何人かいたんだけれど-笑。とか。この人に決めた最後の決め手はここだったとか、いや違うよあれは誤解だとか。生きているうちに直接訊いておかないと、なかなか出てこない本音や事実というものもある筈です。一筋縄ではピリッといきませんからね。大概ややこしいんですよ。ふたりとも、若い頃めっちゃモテたとか言い張りだすとね。(´ー`;)y-゜なので、普段から嫌がらせのように、ご両親が存命の内にですよ。そのへんのストライクゾーンにビシバシと直球と変化球を随所に織り交ぜて投げ入れておくべきですよ。だけどぼくは思ったんですけれど、この本を読んで、この種のラブレターを子供のために残しておくのも悪くはないな。などと思ったりしたものです。フレムさんは言っています。「手紙の束はタイムマシーンだ」なるほど。手紙の束があれば、当分の間ドラえもんも必要ないわけです。(><:)また、こういう含蓄のある言葉も随所に出てきます。曰く。「人生は、まっさらな紙に書かれるわけではない」つまり子供は親の考え方や生い立ち(遺伝子レベルだけの話ではなく)や、さらには先祖の因業からも逃れて存在することはできないのだと、著者は述べるわけです。大体ぼくらの感覚からすると「オギャー!」と生まれた瞬間、何も色の着いていない、純白の染み一つ無い、洗い立てのぱんちーのような、新品の状態で生まれてくるもんだと考えがちですが、フレムさんから言わせるとそうじゃないらしいです。学者さんは考えることが違いますね。しかしどうなんでしょう?考えてみれば確かにそれも一理あるような気がしてきます。だとしたら人の親になる責任というのは、ぼくらが普段考えるレベルよりも遥かに深い、もっと神秘的な真実をパチンっと秘めているような気もしてきます。これは結婚というものが、ある種の人たちにとって、インスタントラーメンにお湯を注いで3分待つこととほぼ同義になってしまった時代に於ける、啓蒙の書としても読めるわけです。