|
カテゴリ:芯聞であります。
認知の主体が、どうものを見るか。
ニュートン以前、ガリレオの世界。 そこは、窓の外。 部屋から見たスライドするガラスに描かれた風景層(群)。 流れる雲。船、飛行機。列車。
車窓からは、駅ホームも流れる。
しかして光、光子を導入したことによって、 数学者というより、頭の良い物理学者は数学を学習するとき、 注目した点からの演繹をすんなり帰納的に延長した。
この表現じゃわからないので、もちろんこれを教室教育工学とする。 y=(xーp)^2の話。
ここの飛躍。
ここの飛躍を認識させる為に、留まらせる。 その時間稼ぎをする言葉はなんなのか。
どう、見ている己があることを認識させるか。 プレパレートを手で押さえてる己があることに気づかせるか。 日常だと切り捨てさせないで、
その日常での通常動作を抽象空間でもやってることを 認識させる言葉。
細かい定義群の認識方法のをいくつもしたら、 それが数学とか物理に関係してくるとわかるのは、そうはいない。
だからこそ、このほとんどを飛ばしてやれる方法。
確かに、哲学的素養、前提条件を疑うではなく再構成する手続きが必要なんだが、 そんなのにはつきあっておられんのも当然。
だからこそ、仮剛体で話を進めたいのだが、 一流の学者にはそれが効かない。 そこ、そこをそれでは留められない。
だから、存在問題と視線からではななく、
飲茶さんの掲示板の導入部でやったことを、明確に言語化する必要がある。 言語化というより手続き。
基準系しか体験していないことと、 従来の座標使用方法では、正面しか使用していないこと。 ミスターマリックの登場が必要。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.03.30 13:47:55
[芯聞であります。] カテゴリの最新記事
|
|