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カテゴリ:芯聞であります。
20101107の可読性はないがメモ書き理工展跡。
中沢新一なんかがやってる対称性の回復。 中沢新一はバカじゃないから、この世界でしようとしてるわけじゃない。 熊が親族であると看做(みな)す技法。
この世とあの世で、ぬいぐるみの皮で、中の人は同じと結ぶ。
熊から王。
だがむしろ逆なのだよ。逆というより、そこに情報遅延と同じ、 情報遅延の言い換え。離れがあり、
観察は情報という受身があり、そこ自体は関与はない。 もちろん、カミュの『転落』はあるけど、非関与の選択。以後にね。
科学のやってる観測は、この間合いもない。 操作なんだよ。手術の。光子をぶつける、ぶつけようとした段階で、 手を伸ばす段階で、一方的な「対象性」。「対称性」はない。
そのことを意識化していないのが、特殊相対性理論。 幼稚な横姿を外から入れておかん限り、イメージ層の1元論に留(とど)まる。
観察段階では、一方的な取り込まれ状態で、相対ではない。 これを観測し、内部を観測し、この内部を観測し、 相手を操作系に入れると、CとCの衝突。加速系。
互いが外から一回だけ加速を与えるなら砲弾の応酬。 ロケット、ミサイルなら、連続とか回数。 それにしても、互いに外。
一般相対性理論もたぶん視野に入った。 もちろんこれは俺の能力外だが、観測をしていると思っているが、 相手を内にし、己を外にする反転。 外といっても、イメージ層のことだが。
そもそも観察行為が己の内部でされての観測であることを忘れ、気づかず。 気づかないから、いったん王(原点O)が誕生した世界では、 身体性も他者性もない。
ダンスの間合いなんかない。これは溜めを知らない俺にも言えるが。
観察から観測へ。これを面の裏返りとして記述するのが本来だろうが、 さすがに強行型で、行為の反転とする。
くるむ面とすると、対象が、自己対象が閉じて、ダミー人形になるから、 身体性の一部として、注目の部分とする。
勝負の場所は中へ入ってから出なく、 圧倒的な受身の段階、観察中。
そうか、手を伸ばせるとした有限化。
小学校の図書館で読んだ子供向きSF。 3万光年向こうの宮殿の中まで見える。 もちろんそこで見たイメージはすでに消滅している。
手続きの順番。この長さを指定してから、説明するから、 操作対象にしちまってるわけだ。
円弧か円弦か。
その前に、方角方向での強調型。この強行。
もちろん点に注目させる。変換そのものの。 ピンホールカメラの孔。 箱の中、不定だが、それを中心に見るのと、複数。これを擬似的な、 想像界の想像的な象徴位置。 3x3x3だが、もちろんこれは取っ払って。
固化しすぎる俺の操作手法だから。足場用の架設。
だが地に足が着いているは残す。 イメージの面より、その足が着いてること。日常に。
俺の恐れを解除する。 長さの定義からやる。
飲茶さんのとこでも少しやったが、これを完全に外から。
それでも最初っからの盲人が長さを空間そのもの、操作空間と、 手の先のくっつけ合い。離し。と、 正面イメージの違い。
ぎりぎり哲学にならんところから。
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最終更新日
2010.11.07 22:59:38
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