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3-18 花

***18*** 

「おはようー!」

元気な声で挨拶し寝室に入ってきた芳乃は、ベッドに呆然と腰掛けている宏信の姿を見て息を呑んだ。

「……宏信?! ……ねぇ、まさか寝てないの?!」

宏信は、自由に動かせる利き手でこめかみを揉んだ。「心配いらない。大丈夫」

「本当? やだ、肩、すごく冷たい! ……手も」

芳乃がベッドの前にかがんで優しく彼の左手を包んだ。宏信は苦笑し、右手で芳乃を抱き締めた。

「大丈夫だよ」

「………そう」芳乃は心配そうな表情をやめ少し笑うと、「ごはん、置いとくね。3日ぶりに来たから、事務処理済ませてくる」と言って、部屋を出て行った。

芳乃の姿が見えなくなると、宏信はため息をつき、がくりと肩を落とした。耳の奥には、まだ有芯の悲痛な叫び声がガンガンと響いている。

朝子さんが、有芯の子供を妊娠した……そして、その子を守るため家出した……。

妊娠……朝子さんが………。

宏信は、何とか両手を持ち上げると、顔を覆った。

「……やるせない」そして彼は呟いていた。「そんなの……ひどいよ」

苦痛に顔を歪め、彼は思った。一体何がひどいんだ?! 僕はあの時、確かに有芯に言ったじゃないか。君が朝子さんを抱いても軽蔑はしないと、そう言ったじゃないか――!!

何だか最近、僕は変だ。

朝子さんのおまじない……あれを聞いてから……。



“あなたの傘を受け取った時、替わりに私、少しだけあなたに心を持っていかれたわ。

そういうことができるのって、男の人だけよ。

だからその体に甘えないで。あなたの大きな心で、芳乃ちゃんを守ってあげて。それで大丈夫よ”



君は、芳乃のために悩んでいた僕を励ましてくれたね。珍しく弱気になっていた僕を……。

なのに、何故だろう。

夢に見るんだ……あの頃の、正常な高校生の身体で、朝子さん……あなたを抱く夢を……。

「宏信? 食欲ない?」

気が付くと、芳乃が食器を下げに来ていた。宏信は内心慌てて、それでも笑顔で芳乃の方を向いた。

「いや、今食べるよ。ごめん、ぼーっとしちゃって」

芳乃はドアにもたれかかり、ぽつりと言った。「ねぇ」

宏信は箸を持ち、明るく言った。「何?」

芳乃はいつもと変わらない口調で言った。「私を愛してる?」

宏信はいつもと変わらない口調になるよう努めた。「愛してるよ」

芳乃は普通の声で言った。「昔の朝子さんを好きだった気持ちと、今私を好きな気持ち……どっちの方が強い?」

宏信は一瞬、耳を疑った。

「………え?」

彼がかろうじてそう答えると、芳乃は俯き、やがて苦笑した。

「……ごめん、愚問だったね。今の忘れて。……のど渇いたでしょ? お茶、持ってくるね」

そう言うといつものように明るく笑って、部屋を出て行く芳乃の後ろ姿を見送りながら、宏信は居たたまれない気持ちになった。窓際にはいつの間にか、芳乃が摘んだ庭の花が活けてある。

僕は、芳乃を不安にさせている……。敏感な子だからな……。

今、僕は確かに芳乃を愛しているのに………なのに……。

どうして? 何で、……何で僕は、有芯にあんなことを言ったんだろう? ……彼女を抱いたことに対する、これは…………まさか嫉妬?!



“雨宮君が好き?”

“………ええ。………何があっても、きっと一生愛しつづけるわ”




「朝子さん………」

宏信は頭を抱えた。君はどうしたいのかい? 彼の子供を産んで、彼と一緒に暮らしたい? それとも……。

彼の脳裏に、また有芯の声が響き渡った。



“今の俺があるのは、あいつのおかげなんだ”



それなら僕だってそうだ。

今の僕があるのは朝子さんのおかげだし、同時に有芯のおかげでもある。

訳もなく疼く身体を右腕で抱き締め、宏信は朝子の顔を思い出していた。全身ずぶ濡れで自分を見上げる大人びた顔の少女、有芯の背中をさすりながら、涙を堪えていた優しい女性―――。

確かに、僕は君を愛してた。でも、今は―――。

今は―――――。

宏信は自らの身体の震えと涙を、抑えようともせず空を仰いだ。窓辺の花だけが、微動だにせず彼とその感情を共有している。

宏信は名前の分からない白い花を見つめ思った。朝子さん、君の幸せのために………僕にできることは一体何だろう?

君は一体今、どこで何をしているんだい? 朝子さん………。




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