先日、
学生時代と同じ轍を踏むことはもうしたくない、
できるだけ、この風には乗っかりたい、
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と書いた、
これで、アルゼンチンのリバイバリスト、
オマーカブレラの言葉を思い出す、(もうかれこれ20年以上前か、)
「灰は、すべて焼き尽くされた後に残る残骸だ、
これは人目には役には立たない、又美しくもない、
が、神はこの灰を用いる、
少しの風で、灰はどこにでも飛んでいくーー、
この焼き尽くされた灰を、神は用いる、」
ざっくばらんな話、
「死んでくれ、」ということ、
死人以外に用はないと、
風に乗るとは、
言うは易く、行なうは難し、
で、聖書にもいやというほど、この死は出てくる、
例えば、
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。
しかし、もし死ねば、多くの実を結びます。」(ヨハネ12:24)
「こうして、死は私たちのうちに働き、
いのちはあなたがたのうちに働くのです。」(2コリント4:12)
聖書は死を勧めている!?
もちろん、肉体的な死ではない、
腐りきった心/自我のかたまりの魂、
これらの死だ、
が、一体全体、
ドーしたら腐りきった心/自我に死ねるのか??
厳しい修練が必要なのか?
でヒントが下記聖句、
「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、
キリストとともに、神の中に隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、
罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは、
罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」
(ローマ6: 6)
「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)
ーー>実は、既に死んでいる!!
(これを”福音”と言うんだけど、一般の人は知らんだろーな、
宣教師が、地の果てまで伝えようとしているやつだけど、)
こうなると、要は、
知っているか、否かの世界、
あるいは、(知っていても、)
覚えているか、否か、
あるいは、(覚えていても、)
適用しているか、否か、
風に乗る条件が判明、
条件は既に整っていた、
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「お前はもう死んでるーー、」と言われたら、
「なにィ!」ではない、
「オオ、そうだったな、」
これだ、
注)”怒り”そうになった時、これを試すといい、
-->「あっ、オレ、死んでたんだ!
怒る必要なーし! 感謝、感謝!」
*ここんとこ、簡単に書いているけど、超ド級の内容だからね、
ソレデモ、やっぱり忘れそう、
で忘れるであろうことを前提として、
イエスは警告している、
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思うものは、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:23/24)
日々、自分の十字架を負い、とは、
「既に死んでいることを日々確認せよ、」と言うことだろう、
-->法則発動、
「人は見たもののようになる、」
均整体操やるとき、
自分の十字架をイメージしながらやることにするわ、
あっ、こっちでもいいか、
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