タイガース背番号史 21-5
背番号21(その5)背番号21の第5回目です1週間ぶりね 前回までの選手覚えてる? ここまで見てきて 確かに金田正泰元監督や米田哲也さんのような大物も着けた番号なんだけど 金田さんは1年 米田さんも1年 この番号をつけた状態で長年活躍できた選手は出てないのよね今回は3人紹介しますが3人ともトレードを体験し それぞれが特徴ある野球人生を送ってて面白いよ! ちょっと長いけど最後まで読んでみてね プロ野球選手の生き方も色々っていう実感がわくとおもうよ山内新一 投手島根県出身で高校は県立邇摩(にま)高等学校。高校時代は全く無名の投手で卒業後は三菱重工三原へ入社している。1966(昭和41)年の都市対抗野球でベスト8、産業別大会では1試合11三振の好投を見せたことからプロからも認められるようになり、同年秋のドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名を受けて入団している。1年目の1968(昭和43)年は一軍での登板はなく、2年目の1969(昭和44)年8月18日が1軍初登板だった。すでにシーズンも終盤に近く、結局7試合の登板で1勝1敗、防御率6.35に終わっている。1970(昭和45)年はおもにリリーフとして41試合に登板し8勝4敗、防御率1.78と頭角を現す。続く1971(昭和51)年も33試合で5勝5敗の数字を残すが、この年に右肘を壊してしまう。 1972(昭和47)年、故障の影響が長引き11試合0勝1敗、防御率9.00と落ち込むと読売は早々に見切りをつける。長嶋茂雄が衰えてきたことから後継の三塁手を確保したい読売は、南海ホークスの富田勝に目をつけ、松原明夫と山内を交換要員としてトレードが成立、山内は南海へ移籍することになった。1973(昭和48)年、移籍先の南海の監督は現役捕手兼任の野村克也だった。肘を故障してストレートに威力がなくなった山内に、「変化球を軸にコントロールを磨いて武器にすればまだまだやれる」と助言し、山内は軟投型投手へモデルチェンジしていく。移籍1年目のこの年、野村監督は読売でリリーフ専門だった山内を30試合に先発させる。見事に技巧派へ変身した山内は期待に応え、ローテーションの軸として20勝8敗、防御率3.30の好成績を挙げてリーグ優勝の立役者となった。南海では11年間プレーし、309試合に登板、そのうち303試合に先発で起用され、二けた勝利が8度、1973年と1976(昭和51)年には20勝を記録しており、エースとして君臨している。1983(昭和58)年、山内は13試合2勝9敗に沈み防御率も8.55と落ち込んで戦力外のにおいが漂っていた。そこに目をつけたのが、小林繁が引退して先発投手陣が手薄になってきたタイガースだった。 山内は83年のオフ、無償トレードの形でタイガースに入団することになる。背番号は益山の引退で空いた「21」を継承した。 1984(昭和59)年、安藤統男監督は「5イニング限定の先発投手」と割り切って山内を起用。25試合すべて先発登板した山内は期待に応え、7勝9敗、防御率4.74の数字ながら1年間ローテーションの一角を守った。タイガースでの2年目は日本一になった1985(昭和60)年だったが、さすがに力尽きたか登板はわずかに5試合、1勝1敗、防御率7.45に終わった。それでもリーグ制覇の一員に連なり、10月24日の対読売シーズン最終戦が引退試合となった。通算成績は17年で431試合に登板し143勝142敗、2459回で774奪三振、自責点1021、防御率3.74だった。150勝近く勝っている投手としては、1試合当たりの奪三振が2.83個と極端に少ない。これは読売時代に痛めた右肘がまっすぐ伸びないためキレのあるストレートが投げられなかったからで、変化球を駆使した配球、そして絶妙のコントロールを武器に凡打にさせることで生き延びてきた証でもある。遠山昭治 投手熊本県芦北郡田浦町出身。八代第一高校では全国大会こそ出れなかったがエース兼4番打者としてチームを引っ張った。投打ともに優れた才能があり、ノーヒットノーラン通算11回や1試合18奪三振など投手としての記録のほか 打者としても対外試合通算35本塁打を打ち4割以上の高打率を残している。1985(昭和60)年11月20日、日本一の興奮冷めやらぬ中で行われたドラフト会議で、タイガースは1巡目に清原和博を指名するも6球団が競合し、抽選に敗れて指名したのが遠山だった。ちょうど山内の引退で背番号「21」が空いたため継承することになる。ルーキーの1986(昭和61)年は4月27日に1軍抜擢されて中日戦で初登板。5月1日のヤクルト戦では初先発を経験し、5月14日の広島戦で9回2失点の好投を見せてプロ初勝利を飾っている。 この年のタイガースは先発投手の絶対数が不足しており、遠山は27試合に登板、しかもそのうち24試合が先発で、ほぼローテーション投手の働きをしている。成績も8勝5敗、128イニングで自責点60。防御率は4.22だったが、高卒1年目ルーキーとしては近年にない活躍だった。しかし翌1987(昭和62)年は1年目の頑張りの反動が出たのか早くも左肩痛を発症し、9試合0勝3敗に終わる。1988(昭和63)年に就任した村山監督は、遠山をリリーフに配置換えすることで復活させ42試合に登板、2勝9敗ながら防御率は3.84を記録した。しかし1989(平成元)年になると、故障した左肩は短いイニングすら満足に投げられず10試合で2勝1敗。1990(平成2)年には7試合0勝0敗、防御率9.00と使い物にならなくなり、オフに高橋慶彦とのトレードでロッテ・オリオンズへ移籍する。ロッテでは投手として4年間過ごすが白星はなく、その後打者に転向してみたがこちらも1軍で通用せず、1997(平成9)年にはついに出番がなくなって戦力外、自由契約となった。現役を続けたい遠山はタイガースの入団テストを受けたところ、入団当時も監督だった吉田監督から「投手として投げてみろ」と要望され、投げてみると好い球が来るし痛みもない。野手として過ごす間に自然に肩痛が回復していたようで、投手として古巣に復帰することができた。1998(平成10)年、11試合の登板に終わっているが、新しく就任した野村監督が「左投手は手放せない」と球団に申し入れたことで戦力外をまぬがれ、ワンポイントのサイドスロー投手に変身、これにより運命の扉が開けた。 1999(平成11)年63試合、2000(平成12)年が54試合、2001(平成13)年が52試合と3年間ワンポイントリリーフでファンを沸かせた。左打者に対してリリーフで登場し、右打者になると葛西が登板し遠山は1塁守備、さらに左打者で遠山が再登板という「遠山・葛西スペシャル」は、巨人の松井を完璧に封じるなど野村タイガースの見せ場となった。ところが星野監督が就任した2002(平成14)年になると坐骨神経痛が悪化、23試合で12回1/3しか登板できず、戦力外通告を受けて引退。通算成績は393試合16勝22敗5セーブ、480回1/3で283奪三振、防御率4.38というのが投手成績。打撃成績は408試合90打数14安打1打点、打率.156である。数字だけを見れば平凡以下かもしれないが、タイガースファンには大きな印象を残した選手だった。タイガースには通算10年間在籍し、背番号「21」はルーキーから5年間、ロッテから復帰した後の5年間は「52」をつけている。関川浩一 捕手・外野手遠山がロッテに移籍した翌1991(平成3)年に背番号「21」を受け継いだのは関川浩一。東京都調布市の出身。神奈川の桐蔭学園に進むと1年時の1984(昭和59)年の夏の選手権に外野手で出場、2年生になると捕手に転向している。 強肩の捕手で好打者かつ足もあり、駒澤大学に進むと東都大学リーグ通算50試合161打数42安打13打点3本塁打、打率.261の成績を残している。大学ベストナイン捕手にも2度選ばれるなど評価は高かった。1990(平成2)年秋のドラフト会議では、タイガースから2位指名を受け入団している。しかし1年目となる1991(平成3)年はまだ木戸克彦の存在が大きく、そこに山田勝彦が台頭してきたところで、捕手としての関川の出番はほとんどなく出場10試合に終わる。2年目の1992(平成4)年も31試合にとどまるが、1993(平成5)年になると山田から正捕手の座を奪い、出場数は89試合に伸びた。 さらに1995(平成7)年には124試合に出場して規定打席もクリアし、打率も.295と大活躍、完全にレギュラー捕手の地位を獲得している。1996(平成8)年と1997(平成9)年は、規定打席こそ足りなかったが2年続けて打率3割を超え、好打者としてもチームに貢献している。 ところが1997年オフ、晴天の霹靂のような電撃トレードで久慈照嘉とともに中日ドラゴンズへ放出されてしまう。これはタイガースファンにとっても驚きだった。中日は1997年から本拠地がナゴヤドームに変わったが最下位に低迷。野球観が変わり、広さに対応した俊足・好守の選手を必要としていた。 一方3度目の就任となった吉田監督で戦ったタイガースは貧打に泣いて5位と低迷し、大砲を欲していたため大豊泰昭と矢野輝明の獲得となり、両チームの利害が一致するトレードとなった。 1998(平成10)年、中日に移った関川は星野監督に重用され、トップバッターとして起用されると125試合に出場して規定打席に到達、打率.285と活躍し、もともと速かった足も生きて15盗塁を決めるなど、チームの2位躍進に貢献する。 1999(平成11)年には135試合に出場、キャリアハイの172安打を放ち、打率も.330、20盗塁を記録して11年ぶりのリーグ優勝の原動力になった。 しかしこの年をピークに力が落ちていき、2004(平成16)年には12試合で無安打に終わると、無償トレードで新球団東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することになる。楽天での3年間は控えの外野手で過ごし、2007年のオフに引退。その後は楽天、阪神、ソフトバンクでコーチを歴任している。通算では1408試合3953打数1129安打324打点24本塁打91盗塁702三振、打率.286と立派な成績を残した。まとめ今回の3人は記憶に残る選手たちかな巨人で戦力外とみなされた山内さんを復活させたことで野村監督が「野村再生工場」とよばれるようになったって言われてるんだよ遠山さんもタイガースに復帰して野村監督のアイデアである「遠山・葛西スペシャル」で一世を風靡したわこうしてみると野村さんは監督としてやっぱりなかなかのものねそして関川さんは野球センスが抜群なことが災いして器用貧乏になってたんだけど 中日へ移って 関川さんの素材を見抜いていた星野監督に起用されることで一流選手として開花できたのよ監督に恵まれるってこういうことかな 背番号21の6へ続く