タイガース脇役物語9-2 代打の切り札
9-1から続きタイガース脇役物語9-2 代打の切り札移籍後に代打へ次に、晩年に他球団からトレードでタイガースに入団して代打として活躍した選手を見てみる。真弓も本来は移籍組と言えるかな。弘田純男、そして田尾安志、永尾泰憲、松永浩美、高橋義彦、柏原純一などが思い出される。目立たないが切通猛などもいた。その後、平塚勝洋、広沢克己、葛城郁郎なども良く働いた選手たちだろう。田尾は1987年から引退の91年までの5年間在籍したが、引退の前年90年は119試合に出場、規定打席数にも到達して2割8分の成績を残しているし、代打専門と言うのは失礼かもしれない。しかし、88年に代打を含めてシーズン3本のサヨナラホームランを記録するなど、印象は強い。柏原は選手としてよりも、自分の経験を伝えて新庄剛志を指導し、敬遠球をサヨナラ打にしたコーチとしてのほうが印象深いかも知れない。這い上がりで代打レギュラーでもなく、代打に生きる道を見出すしかなかった選手の代表が川藤幸三だろう。100試合以上出場したのは1974年だけで、しかも打席は240に過ぎない。それ以降の12年間はほぼ代打人生である。 ただし、客観的に見ても「代打が本職」と呼ぶにふさわしいだけの特性を持っていた。というのは、ほぼ代打専門でありながら1978年から4年連続で打率が3割を超えているからだ。守備に就いたりしていたころをはるかに上回っている。引退した1986年には5本の代打ホームランを打っていて、これが18年の現役生活中、年間に打った最多本数とは驚きである。口だけじゃなかったのね。大好きだった桑野選手さて最後に、非公式サイトが「タイガースの代打といえばこの人!」と、もっとも好きだった桑野議(くわのはかる)選手を紹介する。タイガースで代打専門の元祖と言えば、オールドファンは桑野の名前を挙げるのではないか。桑野はタイガース在籍12年で100試合以上出場した年は無い。最多でも79試合である。九州工業からドラフト5位で入団したあと6年間泣かず飛ばず。ドラフトは川藤と同期でもある。この人の代打特性を見抜き、代打専門で生きる道を与えたのが1975年に初めて監督に就任した吉田義男だった。恥ずかしながら非公式サイトも子どもだったので、桑野がどんな成績だったか詳細は知らなかった。しかし、代打で本当に良く打ったという印象が強いのである。今残っている記録データを見ると、たいした数字ではないのになぜかそう思えるのだ。当時切通⇒桑野と畳み掛ける代打攻勢は、なんとなく勢いが出るのである。昭和50年ころ、非公式サイトの地方でもサンテレビ系列の中継が、年に10試合くらいは放送されていた。「代打桑野」がコールされると球場全体がオオ~ッと沸いたのが今でも懐かしい。代打が出てきて球場が期待感で沸く・・・タイガースでは桑野が最初だろう。印象ばかりで申し訳ないが、とにかく桑野ファンは多かったと思う。もうひとつ、桑野が話題になったのは1976年、27歳のシーズンに18歳の女性と結婚したことだった。奥さんが中学生のときからのお付き合いだそうで、当時「え~っ」と驚いた記憶がある。野球人生・・・人それぞれということなんだよね。 http://professor-mino.blogspot.com/