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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年05月30日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
巷では、なんでもアニメにしてしまうアニメブームにより、日本刀も擬人化され、アニメになっている流れから、オタク市場狙いの金儲けの商業主義のアイドル戦略と絡みあい、一時期、歴女なる言葉が流行り、日本人なのだから、日本史ぐらい知っておくべきと、インチキ大河ドラマの視聴率とのタイアップで、歴史オタクが通ぶりを発揮しているが、肝心な日本史はインチキ塗れであるのに、気づいていないから、仏造って魂入れず、と言わざるを得ない。

例えば、徳川家康の有名な遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」は、家康の遺訓ではなく、後の創作である。

edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.html

八切史観では、この遺訓は、恐らく勝海舟の創作ではないか、と推測している。また家康の美談と共に、江戸時代が、太平天国のように語られているが、これも家康を神格化するための創作である。自分も八切史観に出逢う前までは、すっかり司馬史観に洗脳され、歴史上の人物で人気の、坂本龍馬などを実在の人物と信じ切っていた。

勿論、龍馬のモデルとなる人物は実在していたようだが、司馬氏の著書にもあるように、直柔という名で、変名とされる、才谷梅太郎が、どうやら本名であるようだ。残っている史料の信憑性も疑わしいのは、八切史観で詳しく紹介されていて、一つの種本から写本され、嘘が罷り通るからである。

例えば、西郷の写真が残っていないのは、明治政府からの下野に際して、写真から身元が割れ、生命を狙われないために、手当たり次第に燃やし消滅させたようである。要人となる前の写真が残っていたら、身元がバレるからである。

というのも、当時の志士たちのほとんどが被差別部落民出身なので、身元を隠して隠密行動をするわけで、また表向きには、日本に差別史があっては、諸外国との外交に支障をきたすから、当時の明治政府の見栄のために、維新の元勲たちは日本史の都合で身元がバレては困るので改名し、だから、西郷南洲なども、菊池源吾が本名で、銅像も、実在の人物とは異なるわけなんである。この改名は日韓併合にも使われたようである。この改名は、ユダヤ人が米国民になるときにも使われていたから、昔からあったようだ。フリーメーソン経由で伝わったのかもしれない。もっともこの国にマッカーサーとしてきた唐人の郭無双が、藤原鎌足という改名をしている時点で、白村江の戦いから既にあったわけだが。

つい最近まで、BBCが問題にしなければ、ジャニーズ問題も露わにならなかったわけで、いまでいうコンプラと同じで、ブラック企業の奴隷商売をしていたら、外国に対して、恰好がつかないわけなんである。もっとも、当時の日本だけが奴隷国家でないのは、宣教師による人身売買の奴隷貿易でも明らかで、そのための海外への植民地政策でもあったわけだが、だから、革命による王政打倒の背景には、奴隷解放運動が底力となっているのは、古今東西どの国でも同じ道理である。

もっとも、その裏事情は英国もフリーメーソンを通じて、アーネストサトウなどにも知られていて、有名なフルベッキ写真などは、その断片を物語ってもいる。歴史家は、フルベッキ写真はニセモノと断定するが、歴史史料についてはほとんど疑いの目を持たないのも不思議である。サインの偽造は現代でも頻繁にあり、つい最近でも、投資詐欺広告が問題になったぐらいである。確かに現代的な詐欺技術を使ったものはないだろうが、その源流となる詐欺技術はあっただろう。結局は、歴史的経緯の全体像を見渡さないとダメなんである。

フルベッキ群像写真 - Wikipedia


だから、八切史観の説くように、戦国時代も、幕末の倒幕運動も、権力者により、虐げられてきた部落解放運動と考えたほうが、日本史の謎や疑問がすっかりくっきりお見通しよく解き明かされてしまうわけなんである。現代だって、裏金議員が悪いのに、選挙利権で選民された上級国民のためか、下級国民ばかりが割を食い、挙句の果てには、増税で虐げられているわけで、貧乏人は麦を食え、といった池田勇人の差別発言の如く、女性は産む機械やら、うむのが女性の差別発言の連鎖が、令和の現代まで続いているわけなんである。

そこで、令和の現状の差別発言を遡って、八切史観から解き明かすと、日本列島に、人種差別を持ち込んで、選民思想で、互いを差別しあってきた、被差別民史が浮かび上がるわけなんである。例えば、八切史観では、いまの定説となっている日本史のインチキを解き明かしているので、以下に紹介する。

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 だから日本の古代史は、縄文時代が武力で弥生時代に変えられた七世紀以前を調べてゆかねばならない。が日本書紀や古事記などは藤原王朝になってからのもので、しかも江戸時代に完成というか出来たものだが、この徳川時代史というのが明治新政府が解明をぜんぜんせずに、華族会長に徳川公爵がなり史学会を統轄したので、徳川家の会社の社史みたいなものがその侭で確定史料。家康は世良田の二郎三郎だったことも、死人に口なしの侭で押し通されている。

 日本では歴史屋は真実追求よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえでである。
 部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ、被差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広められたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」、それとこの「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり、一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すゑの「橋のない川」である。
 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。
 「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人」を作ってきたのである。「天の古代史研究」[八切史の著作]さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄剣部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して奴隷にし差別歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。
 が売れて広まってしまったこれらの本のため、大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の3800人が押し寄せ、村田銃をうちかけ火をつけて乱入し、片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。
 というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名ととった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝されていた土地。特殊部落とはいえ長吏岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンへ行っていた。だが、当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康は松平元康の改名せしものなり」という故山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布(「松平記」として日本シェル出版4800円)。
 そこで、周辺近郊の者らが、世良田の徳川にはこれまで冥加米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地元の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。
 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集まってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追い払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑 徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。
 しかし当時の学士会は華族の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれ華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理を立て、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、遡った奥付年月にした「松平記」を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。

 なにしろ、彼ら明治史学会の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長慶天皇を明白にした事と楠木正成の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その侭で解明できずだった。脇屋・湯浅・新田の地名が特殊部落にどこも多い。
 さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷朗詠集」からはじまって「傀儡記」、遊行衆説教師達の「鉢屋由来記」から「賎者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」、そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」、菊池山哉の「賎とされし先住民族‥‥日本部落史料」「長吏部落→日本の特殊部落」だけが主らしい。
 しかし、国定教科書編集委員だった喜田貞吉だけが学会では評価され、部落者の著としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及び非人・社会外の人」は、明治時代までは口伝えに残っていたユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致するものだけを己が名で発表し、アイヌ研究の権威となった金田一京助に対し、アイヌの遺産を返すよう、その伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し、三部作を出しているポン・フチである。
 はじめ東大出の教授の肩書きの喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊池山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は全く出してくれぬからと、東京史談会を作ったのである。
 さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが、昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で、戦国時代の村山七党の流れを汲む武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召し抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。<野史辞典>に、三河[出身の]の旗本は二名とはそれゆえである。
 今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国中で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、この時裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河屋いなりに犬のくそ」とまでいわれる。
 岡崎城も御三家どころか、僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の「後三河風土記」が広まったのも、三河旗本が生国尾張三河と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。
 さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。旗本になった連中は後から採用され三十人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか、「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や大製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。
 明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と、駿河七十万石へ移封したのは、家康が徳川(得川村、新田荘徳川郷とも)の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重き荷を背負いて‥‥」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作り上げ、徳川家達を公爵にし華族会長にまでした。
 それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で、両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され、[尾張徳川家の]家康の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。
 日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。

 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。
 が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。
 国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。
 江戸時代は大蔵省が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、戸籍は坊さんの私有財産を守る為の寺人別帳が主であり、町人別は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州湯浅の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫とし荒天の海へ出す蜜柑船にのせられた文左衛門らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を後払いで集めたのが大火で大儲け。銭を出し町人別や寺人別も購い、ついでに限定収容で残っている湯浅の者もみな呼び寄せたから、「東京都江東区史」には、「別所文左エ門」の名前で、はっきり今も残っているのである[紀国屋文左衛門の事か]。
 こうした複合民族の分類がまったく判らずじまいで、七世紀の良賎の大宝律令の侭で解明しようとするから全く学校歴史は、「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。
 彼ら歴史家は。崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づかず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。
 三韓征伐はまったく逆で、馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲットーの居附部落と知らぬらしい。
 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀に記録されている。
 「八つ」はマレーシア語の黒潮渡来族ゆえ農耕漁業製塩をなし、食料増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王(きみ)に率いられ、中大兄の韓国系に食料確保の政策上から子を生まされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが、終りには岡山のゲットーへ収容、奴可郡の地名を今も残す。
 「四つ」は崇神御孫景行帝が「八つ」の八坂姫に生ませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。
 彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山がつ餌取りと差別とされ、特殊部落民とされてゆく。
 恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が、11世紀は青眼の賊船が次々と来襲。山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語で「イ」と呼ぶから「刀イ(伊)の乱」。この時、頼光四天王として坂田金時らも現れるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ、従五位止りで昇殿は不許。
 ようやく文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に、足利創業時に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。
 「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。
 また、イザナギ・イザナミ二神が天の浮橋で互いにみそめられたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多と呼ぶのも語源。
 また、騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押し込め居附地を呼ぶのとこれまた同じである。
 俗にいう処の非人とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる「八つ」の民が働くのに、彼ら「四つ」の遊牧民族は違うからとの命令で藤原体制に、北方に追われキタともいう。「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、「八つ」と「四つ」を合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり、人や獣を扱うのが原住系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。
 「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみ対しではなく土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は納税のために貧窮化した。
 八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが「八つ」の民。今もイランのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。
 裏日本へベーリング寒流で入ってきたのが騎馬民族で、「四つ」とよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。
 治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制すで、「八つ」と「四つ」は交互に、互いに監視し牽制しあうように「四つ」の弾左ヱ門家の下に、「八つ」の車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので、共に仲良くしあって、世直しをと煽動された。
 その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、「八つ」の大井川の赤フン[褌]の川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン[褌]を振りつつ、向こうでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。
 伊勢神宮を北条政子と思い込んでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。
 ----己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。

 日本では古代史を無視し、みんな昔噺にしてしまう。そして勿体をつけて「神話」とまでする。「古事記」にしても、本居宣長によって「古事記伝」として今日のものができる迄は、つまり江戸時代の大岡忠相が死ぬ迄は「骨事記」とか、ただ「こじき」と、ひとつかみの豆を投げて貰って拾って喰って退散してゆく哀れな乞食みたいなハングリーな存在。大安万侶が書かされたものは、八世紀初頭の権力者の優越感を満足させるためのもので、それを日本原住民の末孫として明和年間から寛政十年までかかって、今日の立派な古事記伝にしあげたのは本居宣長の労作なりといえよう。なにしろ隠忍[鬼(当時の被差別原住民を、唐の舶来系の権力者は、オニと呼んでいたようである)]とされていた原住民は、野や山に自生するものだけが自由にしてよいとされ、木を切って細工したりする大工のような加工業は舶来系の縄張りとされていたのである。
 つまり幕末までは、筆は竹、穂は狸の毛だから、もの書きや版行の出版業は原住民限定職。北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、梶原源太を下手人と[して]殺して、次々と田、三浦と源氏の主だった連中を処分。郎党や女子供をゲットーへ入れたものの、叛乱防止のために、身分保証みたいな限定職を定めたのだが、発布されたとする治承四年[1180]の年号は石橋山で敗れた頼朝を、政子が平氏の本関地千葉へ逃した年。頼朝御判二十四種は、まさか逃げる途中に細かい布令など出す筈もない。それなのに発表年にされ伝わっている。
 さて、今日の新聞が土地など賜ってオカミ御用となりだした明治二十に年迄は、「明治密偵史」の宮武外骨の著に詳しい[日本シェル出版より復刻版が出ていた]。それだから東京新聞の「大波小波」によると、中国では台湾の陳瞬臣より、中国本土の血の濃い司馬遼太郎のほうが人気があると報道されているのも、古代史の権力者は占領軍の中国人だった隠然とした匿された歴史があるからして、血は水よりも濃しで、またむべなるからぬ話。
 なにしろ日本とよぶ国は、西暦663年に白村江の戦いでクダラ系の奈良朝を倒し九州より御所入りし、<天の古代史研究>[日本シェル出版]にも、「藤原鎌足」と郭は日本名をつけ、則天文字つまり漢字の強制使用と(北東の風が吹かなくては、日本から中国へは航行できぬから、冬至=唐至の当て字もあるが、文部省学校教育で、イアルサンスウから算数とするのは今でもその侭)、築城用巨石の全国供出令を発布した。
 ところが俄に今になって、侵略を進出と教科書にのせるのは怪しからんと、「むちゃくちゃな出鱈目歴史[では]ないか」と、訂正するよう抗議されている可哀想な日本歴史は、この時点では進駐軍司令官郭将軍によって高安城を築き金田城を構築。当時は今のアフガニスタンなみの勇敢な縄文日本人ゲリラから、御国を離れて何百里と昔は彼らが歌っていたから、万一の時は冬までは立てこもらねばならぬから、郭ムソウ将軍が降参した日本原住民を使役し築かせたのである。なにに日本では文部省が金田城を昨年たしかに国の重要文化財に指定している。
 昔は沢田美喜みたいな豪い人がいなかった。それゆえ、郭将軍部下兵四千軍属のチャン輩(バラ)一万二千が単身で来ていたから、女とみれば片っ端から種付け、一人で九人くらいに孕ませて廻ったかて、原住系の日本人女はカイト、界戸、皆戸、海渡いろんな当て字を今ではつけられる個所で、エリザベス・サンダースホームがなかったから堪え忍んで育てあげた。
 わが世とぞと想うと詠じた足利時代の義満でさえ、臣源道義と大陸へは絶対服従。日本が被占領国の中国と対等になれたのは秀吉の対明交戦で初めて解放されたと言ってもよかろう。
 その国の立場というものがそれぞれある。侵入や進攻の字句で今になって文句を言うなら、七世紀から産まされっぱなしで、テレビの「ルーツ」で黒人女が白人の旦那に産まされた子でも、奴隷として売買されるみたいな有様で、嫡民ならぬ庶民とされ、賎民の奴隷扱いされていた吾々の先祖のことも、古代史を徹底的に昔の事と言わず検討してから、よく考えてほしい。
「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った怪しからん」と解放記念日には、テレビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足が渡来する迄の日本列島は、彼らの先祖のナラ王朝。
 馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数の苛酷さであった。
 中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王朝をたて、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける根蓋(ねぶた)までやってくれている。
 しかし藤原鎌足の子孫が作った勧学院日本書紀を金科玉条として、古代史を真剣に勉強し、確り取り組んでいないものだから、日本の歴史屋は哀れ何も言い返しが出来ないのである。
 古代史さえよく研究していたら、逆手にとって反対にこちらが被害者の立場から教科書抗議に対せるのだが、まったく不勉強すぎて悲しいことにそれすらも全然できないのである。
 といって、まぁ過ぎ去った過去のことを言いだしたら、それこそ切りがないかも知れぬ。
 それを良い事に、被害者の立場をとる向こうでは、日本人乗車拒否のタクシーまで出現しているという。家永裁判では民主主義でなく、又しても皇国史観の昔へ逆戻りさせた判決を、せっかく勝ちとったばかりの文部省も、歴史屋の不勉強さで何ともならず、まこと気の毒である。
 かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくらいに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。
 新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だから日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたままなのもその例証である。
 恐れ多くも桓武帝のごときは、「桓武焚書」と今ではよばれるごとく、前からの日本書紀はことごとく集めて焼き、オンモン日本書記まで作成しなさったくらいに、好きなようになされ遊ばした。
 韓国の女性の腹から生れた徳川綱吉は、千代田城を朝廷と呼ばせ閣老を公家とし、王政をしき、よって東下りの公卿は大納言や侍従でも退官して無位無冠で江戸伝奏屋敷へ入り、京へ戻ると前大納言や前侍従がまた復官したのは<赤穂義人纂書>[日本シェル出版]に明記されていて証拠も残っている。
 それなのに日本歴史は、好意的に馬韓渡来の方に、神功皇后の御名をつけマタニティードレスの女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。なにしろ、日本の歴史教科書は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下作ゆえ責めても、不勉強の歴史屋が悪いのだから仕方がない。
 もし日本古代史が乳離れするみたいに記紀離れして、藤原王朝が作ったのから脱却していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、せめて五世紀までさかのぼって日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて蛇を出すような、しっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自認している連中たちは何も知らぬ。
 無智ということは罪悪である。いくらナラ朝時代は韓国製の日本史、七世紀からはトウのトウゲン[桃源=藤原]王朝史だと判らぬのか知らぬのか、何も反対意見を出せぬままの現状ゆえ、この侭では、「ご無理ごもっともです」と、教科書検定審議会の答申をうけ、抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」という事になるのだろう。世界中どこの国が、他国より干渉されて、その学校歴史を改訂するといった例が、はたして悲しい事だがあったであろうか。「国辱」というものがあるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。
 長州より招かれて御抱え教師となり、現代日本史の開祖となったアドルフ・リースが、先進国にならって日本でも、「博士号設定」となった際に、彼は歴史屋なのに理学博士や医学博士は認めたけれど、独・英・仏・伊には歴史学博士の称号はあるが、この国にては、その設定は無理なり。文字を弁じうる程度なれば、文学博士にて間に合わすべきである」と、後にベルン陸大の歴史教授となって、「ゲルマン民族優秀説」を発表しナチスに利用させたリース歴史学博士は、日本では開明学校が東京大学になると、「史学会雑誌」を刊行させはしたが、歴史学博士号は許さずに帰国した。

 産業革命以来でも、主だった発明や発見は、みな専門分野の者ではなくて素人だったという。 現在の天気予報でも、気象衛星まで使っているオカミよりも民間のお天気おじさんの方が確率がはるかに高いみたいに、天文学でも新星を発見するのは日本でも学者と自認する人たちより、素人で見つけている例の方が多い。歴史の分野でも、やはり保守的な日本書紀派より、畑違いの人による解明の方が、昇進とか教科書作成といった夢をもたぬだけに、きわめて大胆である。
 私にしても、父方と母方の宗旨違いで、亡兄の入籍に数年かかり、ようやく届出ができた時には、当人は小児急性肺炎で天野病院で亡くなっていたので、またもめるのは厄介だからと亡兄の戸籍をその侭で引き継がされ、名も生年月日も亡兄のもので、私には本当の名も生れた年も知らされていない、さながら透明人間みたいな存在ゆえ、たえずそれに悩み自殺未遂も何度もして、「真実とは、はたして実存するものか」と、過去の具象としての歴史を、まことに本当なのかと生まれてきた時よりの挫折感を、なんとかして打破しようとして取り組んできてしまった‥‥
 初めは当時の日本へきていたイエズス派資料という裏付けのある戦国時代から検討して入ってゆき、「信長殺しは明智光秀」とするのも、光秀のライバルだった秀吉、本当の黒幕は家康だが、仏敵と信長光秀をみたて負けた石山本願寺の一向宗の今の本願寺派が説教節できめつけてしまって、日本全国の居付き部落に説教僧を送り込み、面白おかしく説教にして定説化しただけと判りもした。
 美化というか天下一の豪傑とされる山中鹿之助も、本当は殺人鬼みたいに毛利方を、片っ端から討ちとったのではなく、相手方がへばっていて「頼まあ(タンマ)」と声をかけ、「後日に銀一貫匁を支払うものなり」と矢立で紙にかきスタンプ印鑑のなかった時代ゆえ掌に墨を塗って押し渡したのが、約束手形の始まりで、首落し前の談合ゆえ「落し前(をつける)」という。
 紙がない時には口約束ゆえ、「武士の言葉には二言はない」といった用語も残される。
 江戸期に入っても外出の侍が「懐紙」といって夏でも白紙を大切に持ち歩き、今でも財布のことを「紙入れ」とよぶのも、万一の際に落し前の約手をかくための大切な用紙だった名残り。
 プロとは、今のプロレスみたいに、やたらに致命的な負傷などはせぬもので、山中鹿之助は約手をとっても集金せずだったから、彼を生かしておいては後に毛利の家中の者が迷惑すると、「約手のパクリ屋」なみの毛利方の者によって、上月落城後、備中合の渡しで殺されたのである。だから、その伜が大阪で鴻池の店を開くにあたって、約手の決済をしてなかった連中が銀を集めて送って開店させたのである‥‥といった従来の歴史とは相反する資料が得られたが、発表すると、勇ましい講談を頭から信じこんでいる人々からは、ただ意想天外とされたにすぎぬ。
 しかし尼子方は滅亡しているから何も残っていないが毛利方の「吉田篭城記」によれば、「本日の合戦は、先手の者は石つぶてに当り一人傷つきたれば全軍とって返す」と、あまり殺生沙汰はなかった記述が多い。常識で考えても人口の僅かな時代に、とっては投げ突き刺して殺すみたいに派手にしていたのでは、みな死に絶えてしまって両軍とも戦う者がいなくなってしまう。
 美化というか勇壮化されて伝承されているものの、プロの武士道は、落し前をつけるだけのものが本当の処。となると中世紀の宗教戦である戦国時代の前は、どうなるかと問題になる。
 江戸期でさえ、「やつこさんは辛いね」とか「奴女郎」の名称があり、「町奴幡随院長兵衛」は勇ましく水野十郎左に突き殺されるが、奴とは寺の奴隷のことゆえ、寺奴で、仏教側のガードマン。
 とすれば後までそうだとなると、古代史とは、縄文日本人が権力者によって鉄製武器で征服された弥生時代が、日本の古代史つまり奴隷社会の始まりということになると、それへ突入し真実とは何かと逆のぼって解明していったのが、この入門書をかきだした私のノートともいえる。

 何故に歴史を知りたがるか

「一文にもならぬ事は誰がする」といった国民性なのに、向学心ではなくて頗る歴史好きが多い。
 若い人では中学生ぐらいから、なにか歴史に魅かれだしてしまう人も相当にあるようです。
 そのうちに高校受験とか色んな口をあけて待っている世の荒浪に呑みこまれ、就職、生活と暮しにおわれて、それっきり歴史願望から離れてしまう人もないではないが、子供が一人前になって手放れしだすと、また歴史探求に取りつかれたように、戻ってくる人も、女性では多い。
 それに近頃の現象は、50代になり、ようやく我に返りはしたが、今さら華道や手芸でもないという女性が、何かしら生きざまを求めるみたいに真実をと歴史の中へ突入してくる向きもいる。
 もっと高年齢層で、死ぬ前に本当のことを知ってから、この世から別れてゆきたいという安心立命型の方も、そう沢山ではないがいらっしゃるのは、十万余枚の年賀状を熱心な読者から頂くが、その内の二百枚余りが、老人ホームの住処だったから、そう明確に、私は言えるのである。
 まあ父から祖父母の代まで逆のぼって判る自己の歴史は、せいぜい半世紀がよいところだろう。
「あなたの御家系図をお好み通りに作製。古代錦仕上げ、虫くい桐箱入りは十万円にて」などという大阪の何とかの友社からの広告が、今でも歴史雑誌にはよく見受けられる。「死せる子は、みめよかりき」とか、大正から昭和までは身投げした娘は、実際は水ぶくれで、ふた目とはみられぬものなのに新聞記事は、故人に花をもたせて「水死美人」といった熟語を作った。
 だから「死んだら天国へゆける」と考えるみたいに、「飛び込めば、水死すれば美人になる。なにしろ新聞にでているくらいだから間違いない」と、生きていては死ぬまで美人と呼んで貰えぬ娘さんが整形美容の流行せぬ時代だったので、美人とよばれたい一心での投身自殺があまりにも数多く、処置に困って「水中美人」なる熟語の使用禁止を各新聞社では申し合わせたことがある。
「過去は‥‥過ぎ去った昔は美しい思い出である」と水中美人なみに歴史もかつては扱われた。
 中学生を対象とする歴史雑誌の読者欄などでは、まず女史中学生の沖田総司讃美、そして次は、「自分の先祖は、江戸時代には何々大名の城代家老だったそうです。何か御存じの方は御教え下さい」とか「太田姓をもつ方は集まって先祖の話をしましょう」などとあるのがすこぶる多い。
 ここまでくると日本の歴史は芝居や講談からのものだけだと、情けない想いにされてしまう。
「城代家老」などという呼称は、仮名手本忠臣蔵が、時代設定を足利時代にし、大星由良之助をも架空のこうした肩書きにして、おかみの取締り逃れにしただけのものであって実存ではないもの。
「城代」というのは武臣派で、野戦の時に城代りとなって殿を守って戦うため、師団長大隊長聯隊長中隊長といった具合に、組頭が下にあって、それぞれ戦場で生死を倶にする者らが堅に累っていて、浅野家でも岡林杢助が壱千石の城代で直属の部下二百名を擁していた。
「家老」は「お羽織衆」といって、作戦の際には、糧まつ、兵の食糧や馬糧をととのえ、勘定奉行を監督し年貢の取立てをするのが平時。赤穂では、お浜方の塩問屋木津屋などを取締まるだけの仕事。
 だから直属は若党二人に仲間一人で、士分の者など大石内蔵介にしても一人もついていない。
 まったく別個の役目のものを二つくっつけてしまっているのだから、赤穂浪士討入りの真相さえも、討入りを美化してしまって、今では判らなくなっている。岡林は旗本松本孫左衛門の弟で岡林家へ養子に入ったのだが、公儀では前京町奉行で当時は江戸南町奉行の松前伊豆守が、後で始末のつけやすい文臣派が本所松坂町周辺に町人に化けて住みつくのは黙認。(坂本勝説)
 しかし武臣派の者は岡林一人だけは入府を許したが、他は六郷川の先の川崎から江戸へは入れなかった。京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。
 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すにのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」「元禄泰平記」[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。
 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭。
 明治時代のことすら国民には知らす要はないと隠されている学校歴史しか教わっていないのに、一足とびどころか大飛躍して、古代史を探求したがる人が、きわめて多いのには愕かされる。
 日本史と対比できる唯一の史書として「魏志倭人伝」が、ひっぱりだされて、白髪三千丈的の誇大化を美化する国のものなのに、これをそれぞれがみな、自己流に解釈して一冊にしたものが、「耶馬台国はどこか」とか「ヒミコは美女だったか」、と興味本意で、ひどいのは知名度を利用して、「ヒミコが天照大神」といった類の本までが、訳けも判らぬままに、歴史まがいで次々と出版。
 書店の古代史部門のコーナーへゆけば、こうした類の本の羅列である。いくら頭の良い方でも、こうした本から読んでいったのでは、とても真実への追求など無理な出来っこない話である。
 日本書紀も古事記も今日われわれが拝しうるものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で消滅していたものを、屏風や襖の下張り用紙とし残存し関西で発見されたものを下敷きにしたものであるとは、詳しく後述するけれど、西での発見ならば、これは第三次勧学院のものであってトウ[唐]製である。
 第四次第五次の日本書紀は鎌倉できだから、東で発見の筆写本の残片でなくては、判る筈はない。が鎌倉が北条九代で終わってしまった後は、足利体制は「白旗党余類」の名で、室町文書に書き残されているよう蘇民の源氏を、みなアミかけで散所奉行によって居付き(五木)部落へ、今いう橋のない川のゲットーへ連行収容。その居宅は家ごと燃されているから写しの残存もない。
「せっかく大同団結して富士王朝、回復をめざしたものの、追われた日本原住民の蜂起(年号では宝亀)は、後の平氏、平民で『八つ』とよばれた太平洋沿岸に這い上がった西南よりの俗にいう古代海人族は、今の田子浦から江尻、大井川まで、アイウエオ(秋田、胆(夷)沢、宇賀、江刺、雄勝)を先登に逆攻」日本海をベーリング親潮寒流で沿海州から六時間、白頭山の羅津からなら四時間で能登半島や新潟につく。崇神王朝の曾孫ヤマトタケルノミコトが、伊吹山中で、竹内宿弥の廻し者に供された中国産のチン毒にて歿せられてより、騎馬民族ゆえ四つ足とか四ツとよばれた連中は箱根越えに進攻。藤原王朝が身代わりにたてたクダラの桓武帝は天険の長岡へまで待避されたが、やがて富士山の大噴火によって撃退できると、先住民を限定の囲地のセンゲンに封じ込めにした。
 今では信州のアサマと同じ浅間の当て字がつけられている。このセンゲンは、出雲節にでてくる安来千軒と同じで、幕末の黒駒の勝蔵が金を掘りに行った千軒とも同じことで、先住民の収容地で先住日本人の隔離収容地のことではあるが、橋のない川の土地ゆえ出入りは不許可だから、「居付き」ともよばれる。歌手の五木ひろしにしても、徳間音工に入社してから歌が巧くなってレコードが売れだしたのではなく、五木と39回目の芸名を変えたから、かつてイツキに収容されていた人々の子孫がレコードを買いだし、それで大人気歌手になれたし、「厳戒令の夜」をかいた作家も、やはりその苗字で人気がある。昭和初期までは、井口は山手樹一郎。藤野は山岡荘八。清水姓が山本周五郎と大衆に信頼されるヤ印の筆名にし韓国人の立原正秋も日本名でかいた。
 しかし全人口の一割や五分が奴隷では、残りの人々の食糧増産など出来ようわけはありえぬ。
 西暦663年に郭将軍が御所に入って、藤(とう)原鎌足と日本名をつけて、藤原王朝をたて則天文字つまり漢字強制当て字令をだした頃は、彼らの軍隊ははじめは二千に人夫や軍属。それに一旗組として渡海してきた者を含めて二万人だけ。レジスタンスをしていた連中や山や海へ逃げ込んでシノガラのサンカになった人々の他はみな降参させられ、日本原住民は奴婢にさせられた。
 七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし白村江の戦いに連行されていった日本原住民の「四つ」の飼戸の民。つまり戦奴が二万七千とあるから、水軍奴隷として伴われた「八つ」の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員数。明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計劃では、老幼を含めた人口百に対して壮丁一人の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるが、それを半分と押さえてみても二百万人の者が奴隷として、「クダラぬやつ」「クダラぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂非人だった事になる。
 それにクダラが敗戦して日本列島のクダラ人も奴婢にされたから四百数万となるが、新しい主人となったのが二万ゆえ、奴婢の割合は、5パーセントや10パーセントは余りにも過小評価で、二百の奴婢で一人の御主人さまに仕えたのが正しい。のち桓武さまの時より、クダラ人は、貴賎の大宝律令の中で良に格上げされ、戦国時代からは「四つ」の騎馬系の戦国武者がブシン(不信)と蔑まされていたのを「ン」をとって武士とよぶ新興階級にのし上がったから、非人とされる奴婢階級は半減し百対一ぐらいになった。が大岡忠相の貞亨年間に、現在のアメリカの各州なみに、各大名領ごとに国法が違っていたのを、五街道で一斉に取締まろうと「八つ」の海人族の流し行商や旅芸人の道(堂)の者らに朱鞘の公刀と捕縄をわたしてハイウェイパトロールなみに道中探索の御上御用を命じた。
 後には街道ごとに縄張りを決め合って、鉄火場を開帳してあがるテラ銭で費用にあて、「御用ッ」「御用ッ」と捕物をやらせ、日没になると、彼らに「お客さん遊んでいらっしゃい」と客引きに使う。つまりテレビや講談で悪くいう二足草鞋が、実は公認の本可打ちで本物なのである。
 のち幕末近くになると、抜刀禁止令の法破りしだしたので、うっかり召捕りにゆけば怪我をするからと、分久二年までに各地の親分は朱鞘の公刀を返上し縄張りをして、香具師に総転業。そこで空き巣狙いみたいに、半可打ちとよばれていた素人(ねす)あがりの連中が、その縄張りの奪い合いで、清水次郎長や天保水滸伝になっていったのは、私の<仁義と任侠>の本に詳しい。
 つまり、彼らは明治までは非人扱いだったから、殺されても殺され損だと本可打ちは転業した後でも、やくざの喧嘩の殺生沙汰は寺人別には入っていない連中ゆえ、犯罪にはならなかった。
 つまりテレビや映画では郵便制度がなくても、郵便法で戸口配達のためみたいに、クマさんハッツァンの表札まで長屋の木戸口に掲げてあるような暮しぶりを見せるが、前途亨保年間の大岡忠相の道の者の街道目付ができるまでは、八部族は居附部落に入れられて農耕、海浜では漁撈や製塩の課役奴隷だった。しかし同じ「八つ」の「道の者」が街道目付になると、目こぼしで街道へ出してもらえた。つまり、それまでの今の庶民はみな各地のゲットーに入れられていた。
 領主や代官にとっては、住民をみな居付き部落に入れて働かせ、逃げ出せば逃散の咎で斬罪にできたから都合がよく、殆どが今いう部落であった。
 私の祖母の先祖も、この貞亨年間に、尾張の徳川継友が将軍吉宗の御庭番村桓左太夫に毒殺され、弟の奥州梁川三万石の宗春が後をついだが、やはり睨まれ家康の曾孫の彼が、「家康は世良田の次郎三郎だった」と公表したので隠居処分にされた混雑にまぎれて名古屋へ住み着いたのだと口伝えに大正の末に教えてくれた。
 なんの生産もない江戸に人々が集まり、天保年間には人口百三十万の世界一の都会になった謎も、祖母の先祖らと同じで、道の者の街道目付の目こぼしで居付き部落から出てきた為らしい。
 しかし、どっと出てきても身体一つが元手ゆえ、馬方みたいな「四つ」は白褌。馬をつかわぬ駕かきや蓮台の川越人足は赤褌で「八つ」と、一見してる色分けで稼ぎをした。
 江戸体制は、「四つ」の騎馬系の弾左衛門の下に「八つ」の車善七を、その下に四谷者。またその下に谷津者と交互に組み込んだ。
 相互に牽制しあって夷をもって夷を制させるのが治安維持の方法だったが、幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」、今では簡単に野次馬とよぶが、反目しあうどうしの両者の融合を狙ったのが弥次喜多道中記で、東海道膝栗毛の題名で濡れ場もないものなのに、貸本のベストセラーとなり、御一新の大衆動員の起爆剤となったのは今では余り知られていない。
 幕末になっても限定地のまだ居付き部落に入れられ、界化の非人と差別されていた庶民が全人口の半分は越えていた。貞亨年間から部落抜けをして町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末孫だったと考えられるのである。両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子。つまり庶民とは、テレビ[ドラマ]の「ルーツ」みたいに、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として露骨に売るよりは、日本の方がましみたいに勘違いされるが、日本では徹底して全部がみな奴婢だったのである。

 受難の日本書紀

 学校歴史の古代史は、北条政子の歿った西暦1225年までを一括して、安易に教えている。という事は、七世紀の世変りを匿しこんでしまう意図から、十三世紀まで引っぱって延長した期間を、アミカケ方式で制定している。
「日本人の歴史好き」というのは、なにも向学心の現れや、真実追求のものではないらしい。
「侵略」を「進出」と変えてしまって、韓国や中国から抗議を烈しく浴びているくらいで、日本の歴史は、「臭いものには蓋をしろ」と、なんでも自分に都合よく過去は美化してしまう伝統がある。
 それまで幕末までは各地方面に、民間に口から耳へと伝承の歴史があったのを、東京を首都とし中央集権制度をとったから、日本全国を一つの検定した教科書で洗脳するみたいに統一教育を歴史にまで及ぼして、他の国ではディスカッションして覚えさせているものをば、暗記物にした。
 だからして学校で教わる歴史では、さっぱり、どうにも呑みこめぬ人々が多く、そこで何とかして己れのルーツを知りたがるのが多く、これが歴史好みというか探求型にもなるのである。
 近江八幡で「解放」を発行している西川秀夫氏は、祥伝社、大倉精神分化研究所、日本シェル出版、光文社、琵琶湖研究会、新泉社、オリジン出版、秋田書店の出版物を名ざしでピックアップして古代史入門の手引にと並列している。しかしである。それらの本の中で注意したいのは、「日本書紀」や「古事記」を信用してか、それを参考にしている本だけは、絶対に除外してほしい。
 なにしろ学校歴史で「西暦720年五月に、日本書紀三十巻成る」と教えているからして、さも、(いま活字本で廻っている日本書紀は、西暦八世紀初頭の編纂された唯一の日本史である)と誤っている方が多いが、私の「天の古代史研究」に詳しく解明してあるように、その六十年後に河内より高野新笠の御子を迎えて、人皇五十代桓武さまとなし、日本書紀をつくったトウの人々が昔の中ツ国、今の中国地方の岡山へ財宝をつんだ牛車の群れをひいて逃避行をしたあと。
「彼ら弁髪は日本原住民どもが一致団結して富士王朝復活のため清見潟(今の田子浦)まで、怒涛の進撃をなして攻めてきたのに惧れをなして逃げてしまったのゆえ、もはや構ったことはない」とおおせられて、それまでトウ一族が、自分らが中国大陸から渡来とするよりも(遥かに高い天から下ってきた、選ばれた民族)とした方が恰好がよいから、おおいに美化するために創作した処の日本書紀だけでなく、六国史と称される他の史書類もみなことごとく一切合財を集めさせて、山のごとく各地で積み上げ皆これを燃やしてしまった。世にこれを「桓武焚書」といわれる。
 富士王朝のアラビア文字を縦書きにしたような歴史書も、悉く集めて燃やしてしまい、オンモン日本書紀というような、ハングル文字の桓檀古記をタネ本にして、桓武さまの御先祖さまが高千穂峯におりてきたという、クダラ人に都合のよいように美化されて纏め上げられてしまい、ここに第二次の全面改訂の日本書紀の新版が出来上がったのである。
 一時は長岡の山の中にまで逃げたが、賎から良に格上げしてもらえたクダラ兵は勇戦敢闘し、原住民を撃退、この時代が本当のナラ時代だが、彼らは威張って、「クダラ人にあらざれば人にあらず、非人である」と、教科書の「侵略」よりもひどい傍若無人。しかし驕る何とか久しからずである。
 今でも「クダラぬやつ」とか「クダラぬことを言うな」といった言葉が残っている程ゆえ、桓武さまの血脈の続いた時代は日本原住民は討伐され奴隷に皆され、シラギやコマ系は、「蕃族」として追討された。現代のシラギが慶尚道人で朴前大統領もそうだが今の全大統領や金日成父子やその他南北の軍部も同じである。金大中はクダラ系だから釈放されても国外追放。
 日本列島における確執だけでなく朝鮮半島でも、馬韓、辰韓、弁韓の昔から殺し合ってきた民族闘争の原点が桓武さまの時代でも、光州事件の現代でも続いているだけで、民族の血の流れというのは、二千年や三千年たっても変らないものである。ナチスのユダヤ人狩りでも判る。もちろん現代では、ユダヤがイスラエル建国以来アメリカのユダヤ勢力を後楯にして極めて強力である。
 さて西南に向けて潮流が変り、瀬戸内の海から鉄製武器が、どしどし送られてくるようになった。初めは護身のための、影武者のようなつもりで王位につけたクダラ系にも援助して勝たせはしたが、やがて延暦十三年の富士の大爆発で、せっかく復活に団結して攻めこんできた日本原住民が、クダラの坂上田村麿に追われ谷底に生き埋めにされ、根つまり死の国へ皆送りこまれた。
 ほっとして牛車をつらねて戻ってきたトウの人々は、もはや治安が回復したので、の必要もなしとみた。そこで桓武さまの御孫の嵯峨さまの代になると、せっかく苦労して創作されたのを全部燃やしてしまったのである。が、トウの日本書紀は焚書後四十年も既にたっていたから、「勧学院」をもうけて、武器と共に渡来した医師や漢学者たちに、もう一度改めて「日本書紀漢学版」の作り直しをさせた。しかし一ヵ所だけでは、すっかり燃やされてしまった日本書紀を復元するのは難しく、藤氏一門は勧学院。和気氏には弘文院、王氏に奨学院といったのを、次々と設立させて、百済史の焼き直しの桓武日本書紀を集めて悉く燃やし、第三次の新々日本書紀は、高野山の中国渡来僧たちの綜芸種智院にも協力させ、バビロニア史の漢訳とも対比して今では、言われるごとく司馬遷の史記の中よりも、当てはめられる個所はそっくりいただいて作り上げた。
 かくして第三回目の「日本書紀」は西暦833年の「令義解」ができた前後に書きととのった‥‥「桓武焚書」の一件は、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」にも、はっきりと明記されている。
 が、これが今日そのまま残されている日本書紀ではない。藤原道長の全盛期をへて、前九年後三年の役、ついで、平清盛の時代にまた焚書されて、第四回目の新々日本書紀が、熊野権現で書き直され、新平氏こそ日本開祖の民族であるとしたものを作らせたが、これは壇の浦合戦で水没した事になっているが、この時の一部の書き直しが梶原景時の手に入り、北条政子に献上された。
 頼朝を落馬死という事にし、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛清してのけた北条政子は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと、承久三年五月には、京へ大進攻をさせた。「阿魔将軍」と恐れられた彼女みずからが、陣頭にたって押し寄せるわけだったが、大切な北条平氏の女大将が、みづから鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰時が代って出陣した。
 美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので、貞婦ニ夫にまみえずで、髪をおろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教をもちこんだトウの者の他は、男も女も、坊主や尼の官忍の得は受けられなかった。平氏の政子が尼になろうとしても、有髪の比丘尼だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいに、くるくる坊主になれずで、吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、剃刀をあてて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治御一新からである。政子が比丘尼になるわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は、後世の儒教時代の想像画で、それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので、本当らしく誤られる。
 富士王朝の残党ともいうべき北条政子は、夷頭(伊東)に逃げ、潮をくんで製塩。漁撈をして塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、藤と名乗る公卿の主だった者を斬首。後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき見張り侍所をおいた。平政子は生前に大江広元に命じ、かつて梶原景時が入手した平の清盛の第四回目の日本書紀をもとに改訂第五回目の日本書紀は出来上った。
 しかし北条時宗の時に、(かつて沿海州から親潮で佐渡や能登へ渡り、蘇我氏として栄えた末孫の源氏を、北条平氏は打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、使い棄てみたいに主だった者を皆殺しにして天下を北条平氏のものとした。だから、沿海州から中国本土を席巻して、元の国をたてた騎馬民族にしては、占領した朝鮮半島の高麗水軍に命じて、源氏の仇討ちに失地回復のための進攻なり)と壱岐対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。
 文永五年(1268)には、その噂通り、元の兵部治郎黒的を高麗人の案内で、正月十八日には太宰府守護の少弐資能に対して、高圧的な態度でのぞんできた。なんでも今では美化して恰好をつけたがる学校歴史では、このことすらも、「国信使をもって、元の国書や方物を献上し通交を求む」といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」みたいなことを記載している。だが翌文禄六年三月七日の条になると、はっきりと、「猛子使用黒的は、高麗人と共に対馬に立ちより、掠奪暴行の限りをつくし、降参した島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す」とある。通交の為にきた国使のすることではない。挑戦でしかありえない。
 やがて五年後の文永十一年十月、壱岐対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。守護代宗助国、平景隆は一族と共に、青竜刀や鉄ぼこに取り囲まれて玉砕、少弐、菊池の救援軍も苦戦したが、たまたま台風の目が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために海底。時間稼ぎに翌1275年夏に、訪れてきた朴世忠ら五人の元の国使を、鎌倉龍ノ口で並べて斬首。翌年は再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石をつんで防塁を建造した。
 新興元が高麗水軍を先頭に攻めこんできて台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは眼にみえていた。それゆえ時の執権北条時宗は、(元が又も懲りずに攻めてくるというのは、北条開祖の政子さまが、散々に源氏を戦わせて平定すると、もはや馬のりは無用の長物と使い棄てに殺したり、双方で戦わせたことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めてくるのだから、もしもの用心に、すべての証拠の書類は燃やすべし)間柱所文書から、大江広元に書かせた改訂第五次日本書紀も、まさか次の次の弘安四年の来攻の十万の元兵も、台風で又しても海の藻屑になってしまうとは、神ならぬ身の知るよしもなく、万全を期して片っ端から文字のでている物は、みな集めことごとく焼き払って灰にしてしまった。「時宗焚書」というのがこれである。学校歴史では、元寇の実際も明白にしていないが、今もハバロフスク民族館の正面入口の扉の上には、沿海州人の民族章として大きな円形の笹りんどうの紋章がレリーフで掲げられている。つまり元は、日本では源であって、同じ民族なのである。
  明治時代の内田弥八の「義経再興記」つづいて小谷部圭一郎の「ジンギスカン義経説」は、源氏の風俗や言語が、沿海州人の元の民族とまったく同じなのが裏日本から入ってきた源氏ゆえ、そこから連想されたもので、ここが判らなくては元寇の意味も判らぬし、ジンギスカン義経説の由来も、ただ奇をてらうものとしか想われないかも知れぬ。が、バイカル号でハバロフスクへ立ち寄った者なら、源氏の笹りんどうの紋や、パンダがその笹を囓っているマークも見ている筈である。

(八切史観には、「青春」の本来の意味が解説されているが、人身売買の実態を示すので以下に紹介する。)

[『庶民日本史辞典』(日本シェル出版)』という八切氏の著書に、『青春』について解説されてますので、御参考の為に以下に転載しておきます。
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 青春

 現代では良い言葉だが、幕末までは、お寺の隠語で「見頃食べ頃」の少年少女を、人買いが雪どけを待って訪れてきた時に渡すため寺人別帳に記入していた符牒。
 親の為に身売りをするとか、年貢を納める為に女郎屋へ売られてゆくといったようなプロセスは、ずっと後世の江戸期に入ってからのことです。それより昔は飼っている牛や豚に子をうませたのを、市場へだしてせりで売るようにしていたのです。つまり庭子とよばれたのが男女別々に寝泊りさせられていたのも、女達を主人専用にする為だったと歴史家は説明していますが、そういうことも実際は当然あったでしょうが、改良品種を市場へ出して値を良く売る為に、主人の眼鏡にかなった男と女だけが、時々交配させられたのは、種とりが目的でもあったのです。つまり雪どけの春がくると人買いが、せり市へ出す為に、器量の良い少女や働き者らしくみえる少年を求めに訪れてきます。ですから食物なら食べ頃というのでしょうが、青の子供の「しし」たちの売り頃が、青春なのでした。
 唐突のように思われるかもしれませんが、その為にこそ寺人別帳なるものが明治まであったのです。荘園はなくなっても寺院はずっとあったので、各寺の和尚さんは私有財産の台帳として、太郎兵衛とお花の間に生まれたのが、ぼつぼつ十三、四になるから値をよく売ってやろうと筆を動かし勘定をしていたのです。なにも御慈悲で親切に戸籍係のような帳面をつけていたのではありません。<野史辞典>の巻末には、天平十八年頃の25歳の娘の奴婢として値段がキビ千束とありますが、本当の処は高梁の束のことで、奴隷市では売買されていた実存の奈良東大寺の売買記録もでています。恰好よく使われても、本当の歴史で真実をたぐってゆくと庶民には哀れ悲しい苛酷な恥辱の語源。
 「本当のことを言ってしまっては、実も蓋もない」と古来よく言い伝えられてきているのも、こうした訳け合いからでしょうし、「木が沈み、石が流れるのが世のならい」とも賢しい方はおっしゃっています。
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 これは「庶民史辞典」に詳しく出ているが、つまり日本での古代史とはウエツフミはホツマツタエ。竹内文書の世界では木村鷹太郎の「海洋渡来日本史」や「旧約聖書日本史」の方が、今イタリア語フランス語で訳され出廻っているのもあるが、判りやすく難解でなく楽に読め入ってゆけるが、その後の西暦一世紀から「倭の五王」までの時代となると、学校歴史とは全然相違していても、「天の古代史研究」[八切氏の著書]から読んでゆくしかない。真実の探り出しは他書では無理だろうと想う。
 この「古代史入門」と「天の古代史研究」の二冊しか、前人未到の分野の解明に突入のものはないからである。つまりわけのわからぬ謎ときを何とかできる手引書は全然ないゆえである。
 なにしろヨーロッパなら近接諸国の歴史からでも、ある程度の分析はできる。しかし日本は明治大帝の仰せをかしこみ朝鮮までゆき、都合の悪い石碑の文字は削ったり、史書は集め伊東博文が焚書し、ハルピンで安重根に暗殺されている。中国にあるものはヒミコの出てくる魏誌倭人伝だけで、明確に現存の15世紀のイエズス派史料は参考にせぬ万邦無比の、ひとりよがりの歴史。
 だから今でも、天から高千穂の峯へ落下傘もつけずスーパーマンのごとく、来臨された天孫民族であるとする藤[唐]の勧学院製を下敷きにした江戸期の後西さまの日本書紀を金科玉条としている学校歴史は、悲しいが、本当のところは何とも探求しようもない。もちろん後述のごとく焚書につぐ焚書の運命に史書はあってきていて、いつの時代でも日本という国にあっては、「歴史」とは過去の真実を解明するような、一銭にもならぬ無駄な徒労をする事ではなかった。
 リースを伊東博文が招いたのも、明治二十二年の憲法発布に利用するだけが目的であった。ところが突然に日本へ来たばかりのリースは、天孫民族説の神話を鵜呑みにしてあっさりと、「大和民族は単一民族なり」と発表し、当時大陸進出を志していた明治軍部にすっかり歓ばれて、「対外戦争をするには国民の一致団結が必要。よって国定教科書の歴史は彼に一任すべし」となって出来たのが、彼の門下三上参次や小川銀次郎、重田定一による、今も検定教科書とされるもので、学校歴史とよばれる。つまり戦争目的に作成されたものゆえ、国民精神作興に利用できれば可といったものだけゆえ、真実追求とは全く縁遠いのも、これまた無理からぬ話である。戦前は国定教科書で丸暗記だったから、天孫降臨でよく紀元節とよぶ日に、紅白の饅頭を貰えた義理で、私も昔は頭から信じていたが、テレビで「ルーツ」など放映されだし皆も変ってきた。
 「単一民族と学校の歴史では教わったが、鹿児島県人と青森県人がはたして一緒なのだろうか?」
 「同一民族というのは、同一宗教で同一通貨というが、日本では仏教に神道に富士講、四方拝講から、若狭の神宮寺講に伊勢講中と数も知れないし、明治までは箱根から東は金本位。西は九州まで銀本位と、まっ二つに分かれていて、とても同じ民族とは思えない」という事になってきた。
 「契丹日本史」[日本シェル出版]を一読すれば、日本古代史の謎も解ける。だが、自分ら日本人のルーツ探しに、あまりに従来の通俗史は都合よく、きわめて美化され恰好良くされすぎているのを読んでいては、どうも徒労で誤ってしまい、真実の裏目ではなかろうかと疑心暗鬼になる。
 もっともらしくされすぎの歴史ではない真実をという方には、記紀に誤まされぬようにするための「天の古代史の研究」にあるごとき「天の何々」とされた遠い先祖のための挽歌としたい。

 古代史は越多非人の創世紀

一、皮田の奴隷どもは近年まこと風儀良しからず、間々不らちの儀もこれ有り候間、
  同奴隷共へ別紙箇条の通り、かたく触れさせ候事。
一、市中は勿論居付地に在りたりといえども、通行の節は片寄り候て、往来の人へ
  いささかたりとも無礼がましきことは致すまじく。
一、朝の日出よりその日没まで之外は、市中は勿論、町はずれとても徘徊は絶対に
  禁止。居付地の垣内にても夜分みだりに往来相い成らざる事。
  但し節分の日は夜五時迄、大晦日だけは夜九時迄、に限って徘徊を差し許さ
  れ候事。
一、町内にては一切の飲食致し候儀は相成らざること。
一、雨天之外は笠かぶりものは絶対に相成らざる事、
一、履物は草履の外は総て相成らざる事。

 江戸時代か幕末までの居付部落に対する取締りの古い書付きの現存するものであるが、「除地」と江戸初期は部落の弾正や長吏に年貢を免除し、代りに人頭税をとらせ保護したのは、今は松平元康の改名とごま化されている家康が、実は部落出の世良田の二郎三郎だった為である。
 「天の古代史研究」の「世良田事件」の項目に詳しいが、なにしろ荒川の中川の三河島に足利の散所奉行によって、収容されていたのを救出。旗本や御家人にした同系統の家康ゆえ、居付き部落も生存中は庇護した。だが徳川の世も五代将軍の綱吉の皮革業の大弾圧の、獣の皮を剥ぐなと、「生類憐れみの令」の発布から、柳沢吉保が吉良上野介に堺の中村内蔵助へ銅を半分近く混ぜた元禄小判製造で、インフレ化すると違ってきた。しわよせは弱い立場の居付き部落に押し寄せた。
 従来は部落の頭に人頭税を納入の他には、これという課税はなかったのに、各大名や天領の代官が、川銭とか雨ふりにきる蓑にも課税したり、掃除や埋めたてにかりだし彼等を酷使した。
 土を耕す百姓ならヒエやアワを、漁をする部落ならアー元、地曳網もなかった昔なのに網元というが、納入の魚介の他に、若干の鰯や小魚は塩にしたり乾かして、すこしは余裕もあったが、漁も農も許されぬ居付き部落には何の余裕もないゆえ、貧窮が目にみえて厳しくなった。
 (キヨメ或は河原の者と呼ばれて、社寺都邑の掃除夫・井戸掘・駕篭丁・植木屋などの雑職をつとめ、勿論その職業上、世間から幾分賎視されて居たであろうが、決して彼等のみが特別に汚れたものとし疎外されるというような事はなかつたに相違ない。ことにその賎視されたのは、必ずしも彼等ばかりではなかった。古代の雑戸時代・傀儡子時代から大多数の工業者・遊芸者等は皆賎しいものとされて居たのである。ことにもと家人・侍などと呼ばれた賎者も、時を得ては武士となつて社会を睥睨するようになる世の中となっては、昔は「大みたから」と呼ばれた農民までが、同じように賎者として、奴隷百姓とし見下されて居たのである。「三十二番職人歌合」には

 千秋万歳法師 絵解き 獅子舞い 猿 鴬引飼 鳥さし 鋸挽き 石切り 桂女
 髪 捻り 算置易者 薦置 薦僧(虚無僧) 高野聖 巡礼 鐘叩 胸叩
 へうぼう絵師 張殿 渡守 興舁農人 庭掃 材木売 竹売 結桶師 火鉢売
 糖粽(ちまき)売 地黄煎売 箕作 樒売 菜売 鳥売

らの三十二者の名を並べて「ここに我等三十余人、賎しき身にて、品同じもの」と云つている。この中にも、興舁き・庭掃きなどの或る者は、エタの源流の一をもなしたものであるが、その庭掃き、即ち掃除夫が、歌合せに於て耕作課役の奴隷の農人と合合せられて居るがごときは、もって当時の状勢を見るべきものであらう。つまり、「鎌倉殿中問答記録」に、「鍛冶・番匠のようなる言いかいなき者」と云い、「当道要集」に、「舞廻・猿楽等のしき筋目の者」というかごとき、ともかくこれらの徒が賎者と見られて居た事は疑ない。それらの中に於て、ひとりキヨメ・河原の者等のみが、特別に賎しかったとは思われぬ。むしりエタの方が慶長以前に於て既に、「音楽のやからは青屋・墨焼・筆結らの上だ」と言われて居た)
 歌舞音曲のミュージシャンは貴人の慰みものとして、召されることもあるから、その方が刀鍛冶たちより身分が上だというのであると、喜田貞吉説は続けられている。つまりである。
 今では京五山の住持は日本人かと誤られているが、鎌倉五山とは違い対明の黄金積みだしの立会いで御所を五方から囲んで監視していた。京五山の漢詩集をみれば日本人でない事が判る。
 つまり京の五山は、唐につぐ明僧のせいもあるが、反仏派である彼等を忌み嫌っていたから、「臥雲日件録」の、文安三年十二月二十一日の条に、原文は明国の漢文であるが、「宮に仕える役人が馬にのって、犬を射るのは、噛む犬だと、わざわいをもたらすからであるが、野犬は群がると逆襲してくる。よって一匹を捕らえたものに銭を十枚やってもよい。けだし人間の中でも、犬なみなのは最低であって、死んだ牛馬を食する輩こそそれで、とても人間といえぬ」とまで中国的に言い切っている。つまり騎馬系のカラ神や、祇とよぶ宮の信者、七福神信仰で絶対に中国大陸よりの仏教を忌み嫌う連中は、寺へ銭を納めぬからして坊主はみな厭がった。
 「神仏混合令」から、仏を信仰するのが国教と定められたので、それでも白山さま始め神祇への信仰をやめぬ反仏派の居付き部落の者は、今で言えば、非国民として扱われだしたのである。
 それゆえ、「生類憐れみの令」発布後の元禄十二年から転向せぬ者らへは、次々と課役を増やし、「身居り(居付き)棟付け帳」なる宗門帳が、寺の奴隷人別帳とは別に元禄十二年より十四年後に各国に反仏帳とて付けられだした。歴史屋さんの中には、「宗門調べ帳」を幕末になっても切支丹伴天連の調べと誤っているが、島原の乱を宗教一揆として公表したからであって、いつまでもキリシタンなどオカミは怖れていた訳ではない。拝仏でない者を苛酷になる為の人別帳である。「居付き」のことを「棟付き」といったのは、「明治密偵史」[宮武外骨著、日本シェル出版刊]の最後に風祭の部落の者が人力鉄道に使われ、逃亡せぬよう棟柱に八人ずつ鎖につながれ「タコ部屋」とよばれた語源にもなるのである。
 亨保二年に八代将軍に吉宗がなり、大岡忠相を登用すると、彼は江戸では新地の弾左衛門に由緒提出を命じ、京では水上のオンボ頭を始め、アマベ、六条、北小路、山科、桂ら各地の部落に、「棟付き由来書」を京の町奉行所へ提出させた。仏教が国教ゆえ彼らは反体制集団とされていた。
 テレビの大岡越前守は水戸黄門と共に、ええ恰好しで、きわめて美化されすぎているけれど、「髪はマゲなどゆわず断髪のザンバラ髪にして、冠り物は雨天にても許さず、一見してすぐ判別できるよう致すべきこと」と、今でいうなら人権無視の法令を亨保八年に大岡は出している。
 定廻り同心八人に江戸の朱引内を見張らせていたので手が廻りかね、大岡越前はスリには、「判別できるよう常人のごとく白元結にて髪を結ばず、スリ常習犯は黒元結をば用いるべし。さすれば一見して、それと判るゆえ、盗む者より、すり取られる方が粗相となって罪なしである」と定め、大岡裁きといわれ、以降明治三十八年に仕立屋銀次が児玉源太郎の金時計をすって軍部よりの強硬談判で犯罪とされる迄は、スリは泥棒ではなくて、手職人とよばれたものである。
 スリは仕事をする時だけ黒元結とつけかえれば罪にならずで良かったが、強制断髪で頬かむりしても捕えられる棟付き者は災難だった。松平定信が老中筆頭となった天明七年からの、「寛政の改革」では、徳川家の財政難を打破するために、百姓は搾りすぎれば一揆を起すが、彼らはいくら苛酷に扱っても各棟付地に分散居付きで、騒乱はできぬし皆殺しにしても御定法には反せぬからと、搾取の限りをつくした。英国船渡来の頃ゆえ、部落圧迫は十八世紀からである。
 福沢諭吉が明治になって「天は人の上に人を作らず」と叫んで大衆に随喜の涙を流させたのは、日本の人口の殆ど大半を実質上しめている彼らが、徳川の御政道では「人の下に人を作っていた」せいである。人間は他人の不遇や不幸をみれば微かでも自己満足をするというが、「わしらは、あいつらよりは増しだべさ」と、寺の奴百姓や私有民として、税金をかける対象としてしかみない領主や代官の横暴に対しても、今の庶民の御先祖さまは歯をくいしばって堪えた。
 幕末になると「四つ」も「八つ」も喘いで世直しを求めたが、彼らの大衆動員にお陰げ詣りをさせ、薩長はまんまと天下をとり、鹿児島の棟木部落の鍛冶町からでた西郷や大久保、海江田が世直しをし、のちに同じ部落より大山とか東郷といった偉い元帥がでたので、伊集院に特殊部落をすりかえたが、同部落の益満休之助や自決した田中新兵衛。土佐の部落から京へ、殺し屋として送りこまれた岡田以蔵も、捕えられると、斬髪していなかった為に、無宿人以蔵として獄門さらし首。
 大戦中に玉砕ときまっていたテニアンへ送りこまれた混合師団は、大阪の住吉もんや河内もんを主にする彼らだけだったから、今でもテニアンには住吉神社の移された跡が残っている。
 つまり昭和になっても藤原体制のオカミは、彼らは反体制的存在という考え方を変えていぬ。
 さて、喜田貞吉博士は、契丹系で頭のよい人ゆえ、そうしたオカミの意向を旨としているが、「壬申戸籍」つまり明治五年の第一回国勢調査を、もってきて、(明治五年初めに約三千三百十一万と言われて居つた内地人の数が、大正五年末には約五千五百六十四万となつて居る。近年の増加の数は、一年に約七十万乃至八十万であるから、大正九年初の数は恐らく約五千七百二十万にも達して居る事であろうと思う。その毎年増加の率は、年と共に増して来る方で、明治五年以来の割合は、大体に於て千人につき八人乃至十五人という事になって居る。大変な人口の増え方である。かくも盛な増殖率を有するをみると特殊部落民の増加率はきわめて盛である。
 明治四年八月二十八日にエタ非人の称を廃した際の数を見るに「棟上げ宗門人別帳」ではエタ二十八万と三百十一人、非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千と九十五人、合計三十八万二千八百八十六人とある。この中非人と言われた方のものは、其後大抵解放されて、もはや今は、特殊部落の待遇を受けて居ないのが多い。又右の雑種ものの中にも、普通民に混じたのが多数であるとは察せられるが、仮にエタ及び皮作等雑種と言われたものの全部が、今日の特殊部落のもとをなした、として見ても、明治四年の称号廃止当時の数は三十五万九千四百と六人である。されば明治五年正月二十九日調査の内地人口三千三百十一万と七百九十六人という統計にあらわれた数を以て、その五ヶ月前に遡って、仮に三千三百と五万から六万の人口があつたとすれば、こうした特殊部落民の増加は、まこと愕くべきである)
 ‥‥明治五年の壬申戸籍は、各町村役場でも初めてのことで不馴れゆえ、各寺の奴隷人別帳と、「棟上げ居付反仏宗門帳」をもとにしたから総人口三千三百万だったが、明治三十七年の日露戦争の時には乃木大将の機関銃への人海戦術で人手不足になり、応仁の乱の時みたいに徹底的に人間狩りをして、捕えてきた者に居住地の名称を姓にして新しく戸籍をこしらえたのである。
 故に大正五年の国勢調査には、それが加わったから倍近い五千五百万。大正九年では五千七百万と推定しているのも比例算である。
 しかし間違っているのである。各寺の私有財産目録の寺人別や、何処へも出られぬ棟付き人口に、士族となった各旧大名の侍人別の合計では三千三百万が数字の上では総人口でも、戸籍に縛られず放浪したり匿れていた者は遥かに多い。
 だからシベリア出征の頃には倍近くなっただけの話である。「貧乏人の子沢山」で、彼らの子供の数が明治の聖代になって増加との考え方も違っている。明治四年八月の称号廃止の時に計38万余だったものなら、翌年の壬申戸籍の時でも大差ない話で、比例算でゆくなら半世紀で倍近くも日本人口の住民が増えているならば、彼らが50万から60万で残りの五千五百万は一般人口となる計算である。それを全部そっくりと、彼らの増加にもってゆくのは可笑しい。なのに、(単に部落民だけの其の後の人口の統計に就いて調査してみると、案外にも増加数の余りに夥しいのに驚かされる。ところが大正期に入ると、「治世方針報告書」の東京府の一部、及び神奈川・宮城・岩手・秋田の四県を除き、其の他に於ける部落人口の総数が八十三万四千七百四十五人。部落外居住者人口総数六万九千六百六十七人、合計九十万四千四百十二人とある。この以外に他へ転籍もしくは移住し普通民の中に没したり、またはもはや部落民として認められなくなつて射るものの数も、まったく驚くべき増加ぶりである。過去四十余年間にわたつて少なからぬものであらうと思われる。現に北海道へ移住したものの如きは、一般社会からも殆ど区別することなく、従って一人も右の統計には載つて居ないのである。東京のごとく雑多な地方人の混住の場所にあつても、今や殆ど忘れられ、右の統計に載つて居ないのが多い。恐らく彼等の子孫自身も、父祖がもと、そんな筋であつた事を知らないのであらう。
 そこで近ごろ或る部落有志者の概算では、大略百二十万乃至百三十万はあるであらうという。甚だしいのに至つては、百五十万もあらうなどという統計を見積もって居るが、今仮りにまづ最も少なく見て、概算百十三万人としたならば、部落民の総数は内地人総数の約五十分の一、即ち五十人中にいる割合に相当することとなるのである。即ち内地人全体が明治四年から四十七年余の間に七割六分弱を増す間に、部落民のみの間では、その二倍と一割強の数を増して居るのであります。その増加率に於ては、実に普通民の、二倍八部にも相当して居るのである)と博士は説明する。
 がこれは喜田貞吉説の「日本にかつて存在した奴隷人口は、僅か五分なり」の自説を守るもの。
 つまり古代では人口百人に五人だったのが「良」になってしまい二人にまで減少というのだが、それでは(部落民人口の総計の調査をしてみると案外にもその増加数が多い)とでは矛盾する。
 そもそも大宝律令の「良」のえらいさま95人を「賎」の奴隷が強制使役でも僅か五人や二人で食わせ贅沢させられる訳はない。まるっきり反対の割合でなくては常識的にもおかしい。
 歴史家ケントは「古代ローマ帝国のローマ市民は、一人で30から50名の奴隷をもち、貴族は何百という耕作奴隷とは別に戦士奴隷を、それぞれ五百名以上はもっていた」と著に書いている。
 判りやすい例では西暦663年の白村江の戦いの時に、クダラ系の官人が母国救援に将軍となり将校となって、「四つ」の防人の戦奴二万七千をかりだしているから、仮に壮丁は人口50名に一人とし、昔は赤紙の召集令状をだす市町村の兵事課もなかったから、百名に一人とすれば日本列島の当時のクダラでない系統の原住民人口は約二百七十万人となる。終戦後、進駐してきた郭ムソウ後の藤原軍が初めは二千、後からは倍加。軍夫軍属や一旗組を倍とみて計二万余が。後の「良」で日本原住民は討伐され捕虜となったのが「賎」ゆえ、喜田試算はまったく逆であって、古代でも部落民は、良一人に対して二百七十人以上ということになる。奴隷は5%どころか、その50倍近い数字となる。それなのに「京都役所向大概覚書」の江戸時代の正徳五年の、

百八十軒   七百八十九人   六条村
四十六軒   百二十三人    蓮台村
二十軒    百十六人     北小路村
四十四軒   二百三十三人   川崎村
百二十八軒  五百九十人    天部村
十七軒    七十一人     小島村
七軒     二十七人     龍ヶ口村
十四軒    五十八人     舁揚村
八軒     三十五人     西代村
二軒     十五人      北河原村
二軒     七人       柳内村

合計十一部落、四百八十六軒、二千六十四人に対比し、百九十二年後の明治四十年調査の、

千百六十九戸 五千三百九十六人 旧六条村
三百六十四戸 二千と一人    旧天部村
百六十三戸  千二百七十六人  旧蓮台野村
四十三戸   二百六十五人   旧川崎村
九十六戸   六百七十一人   旧北小路村
二百五十三戸 千五百八十七人  旧小島村
八十三戸   四百五十六人   旧龍ヶ口村
五十八戸   四百五十二人   旧舁揚村、北河原村
三十三戸   二百十六人    旧西代村
二十戸    百三十二人    旧柳内村

 この合計二千二百八十万戸にて一万二千四百五十二人と、前の約七倍となっているとする。
 そして京の五条橋は昔の六条坊門で本能寺のあった処で、信長は故意に反体制の立場から後の所司代役にあたる村井道勝邸をも、此処の居付地にわざわざおいていたのである。
 つまり本能寺は当時は秘密に匿されていたチリー硝石によって、せっかく戦わずに各大名の京屋敷よりの応援を待っていたのに信長も毛髪一本残さず、主従三十余名が一度に吹っ飛んだ。
 そのサイカチの森から松原通りまでをば昔は六条河原とよんで、橋のない川の居付部落だった。
 つまり江戸期の寛文時代までは、松原通り東洞院の東の「夷也」(今は稲荷)地だったが、承徳二年から六条河原へ移ったのを、高瀬川にまた所変えしたのが、柵原六条部落になったという。
 のち大岡越前の時に三軒七条出屋敷部落に、斬髪になれ追われて刑場や牢の番人に使われた。
 七世紀から八世紀にかけ捕虜として連行され囲地収容の日本原住民は時代により場所換え。
(明治四年以来全国人口が七割六分弱を増す間に、特殊部落民は二倍と十割強の増加をなし、明治四年に全国人口の九十二分の一にしか当たらなかった部落民は、今は五十分の一にも達して居ることの統計は、既に前に述べて置いた通りである。この著しい増加率の相違は、更にそれ以前に於て如何なる状態であったか、普通民との増加率の比較如何であつたであらうか、となる。
 徳川治世三百年間は、太平無事であつたが故に、我が人口も必ず大いに増加したであらうとは、何人も手軽に想像し得る所であるが、事実は反して、増殖率の案外低いのには驚かざるを得ぬ。徳川幕府の人口調査は、亨保六年以後は、六年目に実施せられて居る。これより元治元年に至るまで二十五回の実施のうちで、十五回だけの数は今日知る事が出来るが、その第二回目の亨保十一年の調査は二千六百五十四万八千九百九十八人。第二十二回弘化三年が二千六百九十万七千六百二十五人で、百二十年間僅か三十五万八千参十七人の増加を見るに過ぎなかつたのである。勿論この統計は、決して正確とは言いがたいものであらうが、当時宗門改めのやかましかつた時代であるから信用するにたるものであらう。もちろんこの中には、公家・武家、並びにその奉公人等を除外した数であるから、実際上の臣民の数は、更にこれよりも数割を見る必要あるべく、かくて明治五年に至つて、三千三百十一万の統計を見るに至つた事であるが、徳川時代を通じて、甚しい増減のなかつたものなることだけは、承認して差支えなからうと思われるのである)と「民族と歴史」の「特殊部落の人口増殖」の153Pから154Pにかけ喜田貞吉説は、さももっともらしく展開されている。
 徳川時代に泰平なのに人口が増えなかったのは、部落が苛酷に搾取されていて、子供が生まれても育ててゆけず、大きくなれば人買いに売られてゆくのが関の山ゆえ、水子にみなした為か。
 つまり現代のように美容上から不妊手術したり、避妊に失敗して中絶して水子にしてしまうのとは違い、殺したくないのに処分を部落ではしたのだから圧迫のひどかったのも判りうる。
 それに明治四年壬申戸籍の時より居付き部落の人口が倍以上に増加したのは、日露戦争の時に消耗品として戸籍のない者まで人間狩りをし、新戸籍を作って戦死者の多い第三軍の乃木大将の指揮下へ編入。それと軍事的資源として、将来の兵隊にするために堕胎罪という法律で水子が禁止、生活は苦しくても御国のために、なんとか部落でも育てねばならなかった為もある。
 それゆえ部落は、新戸籍者と育児で人口が倍加したが、それでもサンカのごときは無戸籍の侭で、匿れ住んでいたし、部落からの脱出者は戸籍を作ると本籍で苗字が付けられると避けている。つまり部落をよく知っている者は、戸籍台帳にいれられつけられると税金や徴兵だと嫌がる。つまり古代史とは良の鉄武器人が、縄文・原住民を征服し弥生期にエタ非人とした歴史。ここの処を明確にしない事には、日本の古代史の解明などは不可能。できはしないだろう。

              ☆        ☆        ☆

長々と転載紹介したが、八切史観によれば、家康の遺訓が、インチキなのがよくわかる。家康が言ったわけではないが、その内容はなかなか面白いもので、人生を要約しているようで、どこか、キリストの言葉を連想させる。重荷を、カルマの十字架に、代えれば、以下のように要約できる。

人の一生は、前世からのカルマを負うて、遠き進化の道を行くがごとし。急ぐべからず。差別をうける人種の不自由を常と思えば不足なし。こころに物欲などの望みおこらば、困窮したる時の精神を思い出すべく、長い目をもつべし。堪忍の修行は、無事長久の霊能力の基、いかりは敵の悪魔を呼ぶと思え。自分が勝つ事ばかり知りて、他者が負くることの思いやりを知らざれば、巡り巡って、害その身にいたる。おのれの自我を責めて、無責任に人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされりの、分相応のバランスを保ちなさい。

八切史観では、歴史を学ぶのは、愛国心育成のためと説いているが、残念ながら、それでは狭い視点にならざるを得ない。というのは、それだけでは、故郷喪失者にはなれないばかりか、歪んだ愛のルシファーの権威主義にハマり、知性のバランスを欠いてしまうからである。歴史を学ぶのは、国を超えて、人類全体を愛するためである。それは人間の愚かさや醜さ、過去の愚行や醜行を知り、二度と同じ過ちを犯さないためで、常に視点を拡大し、宇宙全体を広く見渡せる視野をもつための進化のためである。

歴史を学ぶのは、なによりも差別をなくすためである。だから、歴史を学び、遡ることで、人種が生まれる前までを正確に現実の経験として、特に被害者や弱者の立場に立って、自分はなんて愚かで、醜い行為をしたのか、人類全体の責任を反省して、宇宙への愛に感謝するためである。

だから、歴史を、金儲けや、虚栄心や名誉欲や、権力奪取の道具にしてはいけないわけなんである。巷の自称歴史家たちをみていると、ルシファーやアーリマンの悪魔の罠に堕ちているのがいかに多いのか、驚かされる。

人類に人種などない、霊魂に性差がないのと同じである。ただ神の愛が1つあるだけで、それをいかに多く広くわかちあえるかでしかない。一灯照隅、万灯照隅。

人種や民族や文化に囚われ、ルッキズムに陥る人は、歴史読みの歴史知らずであろう。





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Last updated  2024年05月30日 22時40分50秒
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