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テーマ:世界を動かす国際金融(375)
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これは下の続きです。下からお読み下さい。 さて、先頭でも書いたが、英国のチャタムハウス(RIIA)と米国の外交問題評議会(CFR)は1902年に死んだセシル・ジョン・ローズ(1853-1902)のDNAをもつ機関である。本書はこれらの設立過程に詳しい。ローズに決定的な影響を与えた人物がジョン・ラスキンと書いてあるので、この人物は重要である。 ジョン・ラスキン(1819-1900)は裕福なワイン商人の息子としてロンドンで生まれその財産を受け継いだ。オックスフォードを卒業したラスキンは美術・文学・建築・数学・ラテン語・ギリシア語を学んだ。プラトンの『国家』を「毎日といっていいほど読みふけった」ラスキンがオックスフォード大学で美術の教授職に就くと、ラスキンの着想は英国貴族社会の後裔である生徒たちに影響を与えることになる。 キグリーの言葉をそのまま引用する。 「ラスキンはオックスフォード在学生に、彼らが特権的支配階級の一員であると語りかけた。彼らは教育、美、法の支配、自由、上品さ、自己規律という気高い伝統を継承しているが、その伝統が英国下層階級や英国人を除いた世界の大衆に広まらない限り、この伝統を維持するのは困難であり、伝統が保存に値しないと語った。もし貴重な伝統がこの2つの大多数に広まらなければ、少数の英国上流階級はこの大多数の前に屈し、伝統は失われる。それを防ぐには、伝統が大衆と帝国に広まらなければならない」 スクーセンの解説に従えば、この「衝撃的」なメッセージのあった就任記念講義をセシル・ローズという在学生が手書きで記録し、ローズは30年間それを手放さなかった。ところで本書から少し離れてしまうが、ローズの名前から頭に浮かぶものといったら「ローズ奨学金制度」が有名である。 米国では1904年以降、すでに2800名を超えるローズ奨学生が誕生しており、ローズ奨学生で有名なビル・クリントンが大統領になったとき、その政権にはウールジーCIA長官やライシュ労働長官、タルボット国務副長官といったローズ奨学生が多かったため“ローズ奨学生政権”と言われたほどだった。 ローズ奨学金制度のおそろしさは、これを日本に置きかえて考えると想像しやすい。若きクリントンにローズ奨学生として学ぶきっかけを与えたのは、上院で16年間も外交委員長を務めたフルブライト上院議員であり、フルブライト自身もオックスフォードで学んだローズ奨学生だった。このフルブライトがローズ奨学金を真似て設立したのが有名な「フルブライト奨学金制度」である。フルブライトは広島に原爆が投下された2週間後に「フルブライト計画」の法案を米国議会に提出していた。このことからフルブライト奨学金制度も敗戦国に対する植民地政策のようなものであり価値観を植えつける“洗脳教育”であると理解することが重要なのである。ローズ奨学金も旧大英帝国連邦の国がその対象であり米国も植民地だった経験をもつ。「フルブライター」と呼ばれるこの留学制度利用者は日本人だけで約6000人も存在する。 本書に戻ろう。再びキグリーの言葉を引用する。 「セシル・ローズの目的は、英語圏の人々を結集して世界中の全居住地を彼らの支配下に置くという野望に尽きる。このためローズは莫大な私財の一部を寄贈してオックスフォードにローズ奨学金を設立し、ラスキンの望みどおりに、英国支配者階級の伝統を英語圏に広めようとした」 そしてローズのようにラスキンを崇拝するグループができ、そこにはあのアルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)、アーノルド・トインビーなどがいた。同様のグループがケンブリッジにもでき、キグリーの表現に従えば「帝国主義者である英国一過激なジャーナリスト」のウィリアム・ステッドがこのグループをローズに引き合わせたことで、ローズとステッドは、ローズが16年間夢見ていた秘密ネットワークを組織した。これは公式には1891年2月5日とされている。 このネットワークの“創始者グループ”として幹部メンバーになったのは、ステッド・ブレット(イッシャー卿)、アルフレッド・ミルナー、アーサー・バルフォア(卿)、ハリー・ジョンソン(卿)、ロスチャイルド卿、アルバート・グレー(卿)などであり、指揮を執ったのはローズである。支援組織(後にミルナーが組織する円卓会議)として知られる外郭団体もでき、こうして1891年3月までにネットワークの中核ができあがった。 ローズが1902年に死んだ後は、ミルナーがローズ遺産の筆頭管財人に、ジョージ・パーキンがローズ信託財団の理事長に就いた。1905年まで南アフリカ総督兼高等弁務官を務めていたミルナーに仕え、ミルナーの影響下にあった者たちを称して「ミルナーの幼稚園児」と呼ばれたが、彼らは1909年から1913年にかけて英国の主だった属領や米国で「円卓会議グループ」を組織。そしてこのミルナーを中心とするグループが、ローズ支援者のエイブ・ベーリー(1864-1940)やアスター家から資金援助を受け、1919年に設立したのが王立国際問題研究所(チャタムハウス)となるようである。 ローズが死んだ1902年は、連邦準備制度を米国に創設するためにポール・ウォーバーグが米国にやって来た年であった。ミルナーの幼稚園児たちが「円卓会議グループ」を組織し終えた1913年、米国では12月に連邦準備法が通過した。 キグリーによると、「ローズ~ミルナーグループ」の権勢と影響力について、どれだけ大げさに言っても誇張ではないとして、一例としてロンドンタイムズの経営権を握っていたことを挙げている。その後1922年にロンドンタイムズの社主がアスター家となる。ミルナー自身は、1901年にロンドンのモルガン銀行から10万ドルという桁外れの年収を提示され共同経営者に加わってほしいと要請されたがそれを断り、ミッドランド銀行の前身であるロンドン共同出資銀行など多数の官立銀行の総裁におさまったとのこと。ミルナーに断られたモルガン銀行はE・C・グレンフェルにロンドン支社を任せ、それがモルガン・グレンフェル商会となった。 ここで確認しておこう。国際金融家を代表する形でセシル・ローズがつくりあげたネットワークは、少数の「円卓会議グループ」だった。英国の「円卓会議」グループの創始者はアルフレッド・ミルナーである。ここから英国や属領に「円卓会議グループ」が組織され、これらの「円卓会議グループ」の活動拠点として構築されたのが王立国際問題研究所である。したがって王立国際問題研究所の中核は、各地に潜む「円卓会議グループ」となる。 米国の外交問題評議会は王立国際問題研究所のニューヨーク支部としての役割を果たす。つまり外交問題評議会は「米国円卓会議グループ」の拠点であり、外交問題評議会の中核は、少数精鋭の「米国円卓会議グループ」となる。 王立国際問題研究所と外交問題評議会は、「各地にある円卓会議グループ」の活動拠点であり、前線基地なのである。そして、英国ではミルナー・グループが、英国の支部である外交問題評議会ではモルガン・グループが、それぞれ牛耳っている。したがって前線基地である活動拠点(王立国際問題研究所と外交問題評議会)は「秘密ネットワーク」どころか逆にある程度は開かれた組織なのだろう。 スクーセンによると、外交問題評議会(CFR)本部ビルはロックフェラー家から寄贈された。そしてCFRを公式に創設した功労者はエドワード・マンデル・ハウス大佐であり、そのハウスの補佐役としてウォルター・リップマン、ジョン・フォスター・ダレス、アレン・ダレス、クリスチャン・ハーターが厳選され、これらの補佐役はCFRの中核メンバーであるとするジョセフ・クラフトの弁を紹介している。 CFRを財政的に支えているのは、どうやら、ロックフェラー財団、カーネギー財団、フォード財団などに代表される「非課税財団」のようである。これらの財団資金を通じて大学などの教育に影響力を行使しているようでもある。 とまあ、いろいろとここまで抜き出してみたけど、後半以降はスクーセンの“演説”が独壇場になっていき、例えばその内容は、マッカーシーの話や共産党がどうだのソ連のスパイがどうだの・・・面白いと思うひともいるんだろうけど、わたし的には退屈な話であり、スクーセンのFBI的な思考による解説が全体の価値を下げているといった印象が強い。価値があるのは『悲劇と希望』から引用されたキグリーの「暴露」なのである。後半以降は『悲劇と希望』を引用することも検証することも忘れてしまったかのようにスクーセンが独占してしまう。とても残念でありもったいない。 キグリーの『悲劇と希望』は、とても興味深い内容でありもっともっと検証する価値のある大書のような気がしてならない。歴史学教授として近代史を「暴露」したキグリーの『悲劇と希望』は、スクーセンが解説しながら引用する本書の数倍の重みがあるはずだ。これでは不十分であり、欲求不満になる。 アルルさんがこの欲求不満を解消してくれるだろうと勝手に期待してみる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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