スティーブン・オカザキの「ヒロシマ・ナガサキ」
http://zaziefilms.com/hiroshimanagasaki/# 今週はアルバイト先のボスが日本不在のため、ノンビリと半休やお休みを取ったりして、普段なかなかとれない自分のための時間を持つようにしてきた。そして、昨日は一日お休みを取り、九段下での朝練後、台風上陸間近の物々しい風と湿気と雨の中、(元)地元の神保町を徘徊してて、ふと目に留まった岩波ホールの「ヒロシマ・ナガサキ」を鑑賞することにした。 日系3世のスティーブン・オカザキが25年を費やし、ヒロシマ・ナガサキの原爆被爆者のインタビューをベースに作成した地味―なドキュメンタリー。それがなんで私のアンテナにひっかかったのかというと、「音楽がモグワイだってよー、やるなー」と聞いていたからだった。真面目に「唯一の被爆国として、ヒロシマ、ナガサキの悲劇を忘れるな」という、ジャパーニーズ優等生的動機は、これっぽっちもなかったのは確かである。 ところで、太平洋戦争に対する私のスタンスは、非常にニュートラルな位置にあるのだ。これは、愛国心ある家庭で育ったこと、イギリス人配偶者を持つことで「極東→西洋」視点の転換の機会があったこと、そして相反する双方の解釈は常に国家によるプロパガンダ教育の賜物であると理解しながら、個人レベルでの人として、一国の国民として、互いの国の歴史と文化の差による大きな溝に橋をかけ続ける、結構地道な努力をしてきた結果なんである、エヘン。 日本的な被虐的歴史観も、それと反するネオナショナリズムも理解する。連合軍大国の尊大な選民意識とパワー合戦の愚かさも理解する。その上であえて、こだわりや囚われ、狭い範囲内においてのみ有効な常識という洗脳、そういったものから自由であることを選択したのが、私の「こだわり」であったりするわけです(笑) さておき、かつては隠蔽されたヒロシマ・ナガサキの惨劇を目の当たりにして、「かわいそう」と安っぽい涙を流しカタルシスを得ることだけは、恥ずかしいからしたくないよなー、と斜に構えて鑑賞すると、意外とトーンのフラットな、静かなドキュメンタリー作品だと気づく。「どうだー、こんな悲惨だったんだよー、あーだー、こーだー」と、御印籠のように「ヒガイシャー」を振り回し、ヒステリカルに煽動するような作品だったらヤダナー、なんていうのは杞憂に終わった。 被爆し、生き残り、辛苦を舐め、生き地獄の60年を「生かされて」きた証言者たちのインタビュー。原爆の開発に関わった者、エノラゲイの航空士、リトルボーイ・ファットマンに関わった科学者たちのインタビュー。原爆投下後の廃墟、目を覆う被爆者、復興してゆく町、生活を営み始める人々、進駐軍とパンパン、といった映像。連合軍サイドのプロパガンダと人種差別がバシバシの、当時のアメリカTV番組。現在の日本の平和と繁栄を象徴する、渋谷・原宿を闊歩する若者たちの映像・・・入れ替わり立ち代り、これらの映像が淡々と流れてゆく。変なジャッジメントはなしだ。FACTS・事実・・・、「絶対的な真実」ではなく、当事者たちの事実が、ただそこにあるだけ。 たしかに、そこに、惨劇はあった。 原爆の加害者がいた、被害者がいた・・・大きな全体像を捕らえれば加害者も被害者であった、被害者は「加害者」というレッテルを貼られた国家の国民であった。生き残った被爆者の敵は敵対国ではなく、自国の同じ日本人による差別であり、命を捧げよと教わったニッポン国家による無視であった。敵国アメリカではむしろ、無償で被爆者への援助を惜しまないチャリティ精神が普及する土壌が、そういう文化があった。 誰が悪で、誰が善なのか、そんな白黒ハッキリつけられる事柄じゃない。これは、どんな物事にも言えることだけど、簡単に善悪を分け隔つ線引きなど、本当はどこにもない。面白いことに、この映画の原題は奇しくも「White light/Brack rain」だったりする。それは単純に、ピカドンのピカがwhite light(真っ白な閃光)で、その後に降ったBlack rain(黒い雨)ってことなんだけど、なんか私は「白・黒」という深読みをしてしまう。 これまでの、いわゆる原爆に関するドキュメンタリーは、「被害者の日本サイドvs勝てば官軍サイド」の両極がほとんどだったと思う。つまり、白黒ハッキリした世界観。でも、このステーブン・オカザキの「ヒロシマ・ナガサキ」は、先述したとおり、限りなく淡々とニュートラルだ。これは彼の日系3世というポジションを思えば、ごくあたりまえなんだろう。だからこそ、ものすごい説得力がある。 原爆投下の数日後に撮影された白黒の映像がゆっくりと流れる。ガレキ、廃墟、この世の終焉、塵芥、死体、虚無・・・そこにモグワイの脳髄に突き刺さるようなメロディが、変なセンチメンタリズムを払拭するかのように、私たちのアタマを覚醒する。悲しくて、美しい、すごい印象的な場面に圧倒されて、涙があふれてきた。 私たち日本人はなんやかやと、ヒロシマ・ナガサキの惨劇は学んできている。この映画の冒頭に出てくる原宿の青少年が口を揃えて「ヒロシマ・ナガサキなんて知らない」というのは嘘っぱちだ。(よ、ね?)瞬時に十何万人が死んだこと、そして後遺症として何十万の死があったこと、生き延びた被爆者が差別の対象として生きてゆかねばならなかったこと・・・「はだしのゲン」をはじめ、いろんな映画や文学、音楽、ドキュメンタリーなどで、日本人だったら誰もが「大前提として身に刻まれてる知識」なはずだ。だから、このドキュメンタリーを見て、「知らなかった!」と衝撃を受ける日本人って、あまりいないんじゃないかな。「それは知識として知っていたけど、これほどまでとは・・・絶句・・・」くらいがMAXで。それよりも、「恨み節」で終わらない、すがすがしさに反対に感動すると思う。 一方、日本以外の国の人達には、知らされていない事実を知るドキュメンタリーとしての価値があると思う。この作品は今年8月にアメリカでTV放映されたと聞いたけど、どんな反響だったのかな?多分、それどころじゃないよ、ヒロシマ・ナガサキなんて過去の話でしょ?今ここにある危機の方がもっと大事なんだからー、で終わっちゃうんだろうな。 でも、見に行ってよかった。知ってるつもりで知らなかった事実に触れられた。なによりもこの日は上映後、作品内でインタビューを受けていた被爆者のひとり吉田勝二さんのトークがあった。確かに後遺症として身体的不具合があるけれど、すごくポジティブなエネルギーを発散されていて、疲れきってる私たち現代人よりもっともっとパワー溢れてる。だからこそ、彼は被爆しながらも「生かされ」て、こうやって「伝える者」として選ばれたのだと思う。最後に握手させてもらった彼の手は、柔らかく暖かだった。 ただ、いただけないのは、トークの後の質疑応答時に、いかにも!の市民グループっぽい方の、「平和」「第九条」について、サクラ的ご意見があったこと。せっかくの、この作品のニュートラルなポジションが理解されず、一部のファナティックな団体のツールになっちゃうのは、やだなぁ。