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毎月膨大な数の本が出版されているがこのごろとんと見なくなったタイプの本がある。
それは「日本人論」というジャンルの本である。肯定的なもの、否定的なもの、外国人によるもの、日本人によるもの、にせ外国人によるものといくつかタイプがあるものの、たいていどの時代にもその時代を代表する「日本人論」というのがベストセラーになっていたような気がする。でもそうした本の多くは、内容的には同工異曲で、日本人の集団主義や大勢迎合性を記述し、いかに日本人が「特殊」かを強調したものが多かったように思う。そしてその特殊性の由来についても、農耕民族的特性だとか天皇制の存在だとかに話をもってくるのがほとんどだったのではないか。 ※ しかしよく考えると農耕など地球上の多くの民族がやっている。日本人イコール農耕民族だから特殊というのも、ちょっと考えれば変な理屈だ。それにその「特殊性」への持っていき方も、欧米と日本を比較し、違うところをさんざん並べた後、だから日本人はユニークだとする。なんか多くの日本人論というのは、アジア、中東、アフリカという視点がすっぽりとぬけている。この日本人論というジャンルの本の中で日本人とアフリカのどっかの民族とを比較した本というのは、私はいまだに見たことがない。そしてさらにこうした日本人論が日本人のユニークさの傍証としてあげていることも、虫の音を右脳で聴くのは日本人だけとか、湯という言葉があるのは日本語だけだとかいった、どうも怪しげなものが多い。虫の音と右脳の話についてはどうやって調査したのかぜひ知りたいところだし、湯という言葉があるのは日本語だけだとしても、だからどうなんだという話ではないか。 ※ 最近こうしたタイプの日本人論がはやらなくなったのはなぜなのだろうか。 日本人論というのは均質な日本人の存在というのを前提にしている。格差社会の中で、日本人の均質、同質というものが消えていけば日本人論そのものがなりたたなくなる。また、多くの日本人論というのは、非ヨーロッパで唯一近代化に成功した日本人というのを前提にしている。唯一非ヨーロッパで近代化したからには、日本人というのはアジアでもヨーロッパでもない非常に特殊な存在に違いない。多くの人はそれを説明し、安心させてくれるものとして日本人論を求めたのではないか。しかし、今やアジアも発展しつつある。日本人だけが近代化したなんてしっているうちに他のアジアの国々に追い越されることもあるかもしれない。 こんなこともあって、本屋に行っても昔ほど日本人論というのは置いてないのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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