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七詩さんの日記 [全3604件]
最近は防衛大臣バッシングがマスコミの政治ネタとなっているが、どっかでコーヒーを飲んだのがけしからんだの何とかを知らないのは不勉強だのと報道の中味は低レベルそのもの…。どうも最近の国会論戦をみていると天皇にヤジをとばしただの携帯の電源をきらなかっただのとまるで児童会のやりとりのようなくだらないものばかり。防衛大臣のコーヒー云々だってその延長だろう。自民党はこんな防衛大臣のさらなる失言をひきだし、政権をゆさぶるつもりらしいがいいかげんにしてほしい。 どうしてこうなるのか。それは「二大政党」の民主党と自民党に根本的な政策の差異などはないからである。本来なら大論争になるはずの消費税やTPP、それに原発事故対応などでは民主党と自民党は根本的なところで一致している。消費税やTPPがまるで津波のように今の中から下のあたりでふみとどまっている階層を貧困層の方に追いやるのではないかと危惧しているが、そうした意見を述べる政党はほとんどみえない。 お金持ち政党とちょっと「リベラル」な匂いはするが根本的なところでは同じようなもう一つの政党。二大政党というものは民主主義の奇形形態というか病理だとしか思えない。 事情は海の向こうも似たようなものだ。共和党の指名争いがマスコミのネタになっているが、オバマに失望した貧困層が共和党に投票するとも思えない。あの格差や貧困の問題に怒って街頭にでた人々が投票するような政党は米国にはないのである。
世の中にはいまさら人には聞けない疑問というのがある。 純文学と大衆小説の違い…なんてのもその一つだ。 なんとなくわからないわけでもないのだが、よくよく考えるとどうもすっきりしない。 大衆小説はご都合主義のストーリーや善玉悪玉のはっきりした浅薄な人物造型が特徴で面白いが深みにかける。これに対し文学は人生や社会の真実を描いているので面白くはないが高尚。 まあ、こんなところだろうか。 たしかに読み本や落語の人情話のアンチテーゼとして文学が理解されたとしたらこんな説明もあるのかもしれない。でもだからと言ってその後の私小説の興隆などはなんか文学を誤解したとしか思えない。私小説はたしかに「人生をありのままに描いている」のかもしれないが、その多くはひねた大人の上手な作文といったようなもので小説としての面白みにかける。 こうした私小説の傑作ともされる「道草」や「暗夜行路」などは日常生活のこまごまとした描写、はてはどこで何を食べたといった話ばかりで、正直読んでいてちっとも面白くない。 どうも文学性と娯楽性は両立しないという前提自体が本当は間違いなのではないか。 すぐれた文学は十分に娯楽性もある。 たとえば名作とされる「戦争と平和」などは何度も映画や舞台にとりあげられ、多くの人をひきつけている。「源氏物語」だって同様である。特に源氏物語の宇治十帳は三角関係、出生の秘密、自殺未遂と記憶喪失…といった筋書きだけを追うと今の韓流ドラマのようだが、その文学性を否定する人はいないだろう。 それにそもそも純文学と大衆小説の区別自体それほど厳密になされているとも思えず、こうしたレッテルをはりたがるのは日本くらいなのかもしれない。 あのノーベル文学賞を受賞した小説に「クオヴァディス」がある。大変に面白く好きな小説なのであるが、中味は、類型的な人物像、ご都合主義だが波乱万丈なストーリーと、日本での分類によればどうみても「大衆小説」に入る。 もしかしたらそもそも純文学と大衆小説という区分すること自体に無理があるのかもしれない。
かつて動物によって時間の感覚が違うという本が話題になったことがある。 人間の時間感覚が絶対のものではないということを認識させるという意味では面白い。 生物によって時間の感覚が違うように、人間とより広義で「生きている」星との間にも時間の感覚の差というものがあるのではないか。もちろん地球も星である。 首都圏に大地震が4年以内に来る確率が70%という説が最近でたそうだが、これも、地球の時間を人間の時間で議論しているような感じがする。たとえてみれば鼻の上にわずか10分しか生きられない虫が住んでいたとすれば、次のくしゃみがでるのが5分後か1時間後かは大問題だが、そんなものは人間にとってはどうでもよい。同様に、地球の時間でいえば1万年だって人間でいえば1日のようなものであり、4年以内にどうの、10年以内にどうのといっても仕方ない。日本列島は地震の多いところであるが、それでも、外国に行って震災被害にあう人もいる。地球という星の薄皮1枚のような地殻の上に住まわせてもらい、営々と生活を築いているという点では日本も外国も変わらない。震災は怖ろしいが来たらきたで仕方ない。せいぜいが水や缶詰を常備したり、家具を固定するくらいである。 それでも30分前にでも予測できれば大きく被害を減らせることはもちろんである。 * 星の時間と人間の時間。この違いを思うと、最近話題になっているベテルギウスの爆発だって同様であろう。たしかにベテルギウスは終末期にある星であり、爆発はいつあっても不思議ではないが、それは明日かもしれないし、1万年後かもしれない。そういえば子供の頃に読んだ科学の本にもベテルギウスは脈動変光星で終末期の星だと書いてあった。 ただ今年は天体現象の当たり年。金環食や金星食などみどころも多い。 だから、もしかしたら…という期待も膨らむ。大震災はごめんこうむりたいが、ベテルギウス爆発の天体ショーはぜひみてみたい。
4月から中学校で武道とダンスが必修化されるという。 腕力の強弱を競う武道と身体の美しさを表現するダンス…なぜこんな劣等感に結びつきやすいものを多感な中学生の時期に強制されなければならないのか理解に苦しむ。 こうしたものはやりたい人だけがやればよく、必修の場では体を動かす楽しさや基礎的な体力つくりに役立つものをやれば十分ではないか。 それに武道にはもう一つ懸念がある。武道には柔道、剣道、相撲があるというが、剣道は防具を必要な数だけそろえる負担が半端ではなく、相撲は不人気であることを考えると、おそらく多くの学校は柔道を選択する。ところが、この柔道というのは非常に事故が多い。 これを十分な指導者がいるとも思えない中学体育の場でやれば全国あちこちで事故が頻発するのではないか。死亡事故や後遺症の残る事故は起きてしまってからでは遅い。 武道必修というのは政治家の思いつきが発端だったと思うが、実際に事故の悲劇が起きた時にこうした政治家も、そしてその意をていして動いた役人も決して責任をとることはない。 * 福島第1原発の2号機圧力容器底部の温度が70度前後に上昇しているという。 そうなるとこの間総理がわざわざ記者会見までしての「事故終息宣言」というのは何だったのだろう。一国の総理がでてきての虚偽の発表は国家の信用にもかかわる失態だと思うのだが、マスコミは決してこうしたことはいわない。自民党総理のときには、マスコミは「サメの脳みそ」だの「漫画脳」だのと一国の総理をさんざんに揶揄した。ところがなぜかマスコミは民主党政権にはやさしく総理に対してももちあげることはあっても批判や揶揄はあまり行わない。 日本の貿易収支は赤字となったというが、これも原発事故との関係が大きいだろう。放射性物質による汚染の懸念から日本の農産物は売れないというが、加工食品や化粧品、工業製品にも同様の傾向があるのではないか。総理の嘘会見はこうした日本製品に対する不信を増幅させただけである。 まさに最悪の事故の時に最悪の政権としかいいようがない。
青春小説の代表のような本である。 いくつかの高校では長距離を歩く行事があり、こうした行事を舞台にした物語である。 この小説の高校のように修学旅行がなく、その代わりというところもあるのだろう。 修学旅行の思い出と言うと夜が一番印象深いという人は多い。 初めて友人たちと一つの部屋に泊まり、そこではお定まりの会話がかわされる。 「本当は好きな子は誰なの。」とか「誰がよいと思うの。」とかいったものである。 これがエスカレートすると、人気投票とかになる。 こんなほんわかした修学旅行の夜に比べると、長距離歩行では状況はずっと過酷だし、会話の中身も濃くなる。 この本での主人公もそんな「告白」を考えているが、その相手が好意をもっている子というよりも、お互いに避けてきた異母兄弟というのが核心である。 主人公はいわゆる未婚の母の子ではあるが、特に経済的苦労もなく、一時代前の小説にあるような暗さはない。むしろよき友人に恵まれ、異性にも人気があり、進学校で楽しい高校生活を謳歌している。 異母兄弟の方も成績優秀な秀才タイプで、葛藤云々もそれほど深刻なものでもない。 * この小説の眼目はそうしたことよりも、「ただ夜歩くだけなのにそれがなんでこんなに特別なのだろう」という一言につきる。 読み終えた後にたぶん多くの人がこう思うのではないか。 なんで母校にはこうした行事がなかったのだろうか。
原発事故で不思議でならないのは、いまだに住民の帰還などという議論がなされていることである。本当は、住民を戻すどころか、もっと広い範囲で子供たちなどを疎開させなければならないのではないか。 子供たちを疎開させる金もないし手間もおしいものだから、「除染」ということでお茶をにごしているとしか思えない。 「まげね」、「がんばっぺ」といって、その土地に住み、放射線をあびつづけ、放射能で汚染された食べ物を食べ続ける。そんなことをしたって自分の健康を損なうだけで誰も得するわけもない。 病気になっても、政府も東電も、どうせ因果関係は認めない。 そしてこうしたことはマスコミもプライバシーだの個人情報だのを口実に報道しない。 庶民の命などはどうせ為政者にとっては使い捨て。 除染といえば除菌や殺菌と同様、有害物質が無害化されると勘違いする人もいそうだが、汚染された土を上から下に移したり、埃を一か所に集めたりするだけのことだ。放射能自体が消えるわけではない。 除染に使われる膨大な税金で潤う人もいるだろうけど、借り集められた多くの労働者は被曝する。 ならば除染に金を使うよりは住民の疎開や新天地での生活補助に使った方がはるかによいではないか。同じ金があれば、それは、人の身体を損なうよりも、人を活かすために使う方がはるかによい。 除染された土地に住みたいというのならそれもよいけど、そこで農産物を作ってばらまくのはやめてほしい。最近は野菜や果物を買う時、ついつい産地をみる癖がついている。スーパーはよいが原産地表示などがない八百屋ではそれも不安だ。このジャガイモいやに大きいけど大丈夫だろうか…余計なことだが、どうしても考えてしまう。 大真面目で農地の除染なんていうよりも、除染が必要な場所での作付けをなぜ禁止しない。 全国に農地が足りないわけではない。農業人口の高齢化を反映して毎年膨大な面積の棄農地が生まれている。農地除染をやるくらいなら、どうしても農業をやりたい人のためにそうした新規農地への移住を補助すべきではないか。 放射性物質を含んだがれきも同様。高い放射線を計測した新築マンションがあったというが、これもでるべくしてでた問題である。原発事故は悲劇だが、なぜその悲劇を全国にわざわざ拡散するのか理解に苦しむ。絆とか痛みを分かつという名目でそうしたことを推奨する向きもあるようだが、ならばそういうことをいう人は自分の社屋や住居にそうした建材を使い、自分がそうしたがれきを集積しているところの隣に住んでみればよい。 チェルノブイリ、そしてフクシマ。 人類の得た悪魔の火、放射能による事故の悲惨はいまだに進行中だ。 いいにくいことだが、原発の周囲何キロかは半永久的に居住放棄するしかないだろう。 そしてまた除染が必要な土地では少なくとも農業は規制すべきである。 瓦礫や廃棄物。これも原発周辺何キロ以内に集中的に集積するしかなく、間違っても全国にばらまいて被害を拡散してはならない。 まげね、がんばっぺでなんとかなると思うのは、竹やりでB29に立ち向かうのと同じくらい愚かである。市町村の廃止、場合によっては県の廃止まで視野に入れて議論すべきではないか。
芥川賞は毎年ニュースになる。 今年も不機嫌そうな受賞者が話題となっているけど、歴代芥川賞受賞者をみると今でも多くの読者をひきつけている作家というのはあまり多くない。むしろ忘れられた人もかなりいるといってもよいだろう。 http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/archives/literature/akutagawa.htm 実際、話題にひかれてそうした芥川賞作品を読んだことがあるけど、「アタリ」だった例はあまり多くない。たしかに文章はうまかったり個性的だったりするのだが、仮想体験という読書の楽しみには縁遠く、せいぜい上手く書けた普通の人の作文を読んだという印象しかないのだ。 正直に思う。なんで芥川賞ってあんなにつまらない小説ばっかりなのだろう? そんなわけでそうした作品の感想をいくつか…。 まず畑山博「いつか汽笛を鳴らして」〈昭和47年)。この作者は他に何か書いているのだろうか。よくわからないけど、貧しい若者のうっ屈した日常生活を描いただけの作文という枠をでていないように思う。最近もこうした「底辺」をウリにする受賞者がいるようだが、この作品の印象がよくなかったため、どうもそうしたものは読む気にならない。 昭和52年の「エーゲ海に捧ぐ」は題名だけが素敵で中味は国際電話の長話だし、「僕って何」は田舎から出てきて学生運動に首をつっこんだ学生の作文といったところ。 中でも一番つまらなかったのは平成7年の「この人の域」だ。出張に行った男がついでに学生時代に知り合いだった女性を訪ねるという話なのだが、ただそれだけ。ストーリーがないのであれば、素晴らしい自然描写や思索があればよいがそうしたものもない。あまりのつまらなさ、退屈さに最後まで読んだかどうかも覚えていない。この作品についての評で「世間の人の『文学』というものに対する不信を増幅させただけ」というのがあったが、同意だ。こうしたものは同人誌かなにかで仲間内の娯楽として発表しておけば十分なのではないか。 平成10年の「日蝕」もやたらに衒学的な難読漢字ばかりが多く、正直何をいいたいのだか趣旨が分からない。宗教がテーマのようにもみえるが、この程度ならちょっと前に流行ったオウム信者の神秘体験の手記と変わらないような気がする。 たまたまハズレばかりをひいたのかもしれないが、芥川賞作品よりも、むしろ本屋大賞なんかの方が読んで後悔しない傑作が多いように思う。 それとも…芥川賞作品を読むのは、読書の楽しみを求めてではなく、「ブンガク」を読んだという自己満足や充足感を得たいのだろうか。それならそれでわからないわけでもない。 |一覧| |