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テーマ:政治について(19912)
カテゴリ:格差社会
最近、格差にからんで「階級」という言葉をよく聞く。
しかしながら格差と階級は違う。 階級といえば、親の社会的地位が子に受け継がれた結果としての同質の社会的地位を有する集団をさす。 いわば機会の不平等の所産としての階級なるものがあるわけである。 しかしながら、今おきていることは、市場原理主義の下でのとてつもない結果の不平等であって、それとはちょっと別だ。 それに、どうも階級とか階級社会というと、ついつい地主の子は地主、労働者の子供は労働者といった社会が安定的で単純だった時代の匂いを感じてしまう。 「ダボハゼの子はダボハゼ、職工の子は職工」という台詞がなんかの映画にあったが、戦後の日本はそんな社会ではなかった。 職工の子で成績優秀なら県立第一高校から大学に行き、社会的地位を手に入れる機会はあったのである。 ちょうど日雇いの子が堂々たるエンジニアになったあのヨイトマケの唄のように…。 だいたい、「階級」という言葉を使うと、議論はつい機会の平等の確保だけに流れがちである。機会の平等はもちろん重要だが、でも、機会の平等さえあればよいというものでもあるまい。 低所得の人の中にも、今のところは親の扶養を受けていたり、親の家に住んでいるという人は多い。 しかし、彼らもやがては親の高齢化や死別とともに街にでてくる。 そうなったとき、本当に深刻な社会対立が起きるであろう。 ただそれは、古典的な階級闘争というのとは違うような気がする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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