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テーマ:政治について(19909)
カテゴリ:格差社会
能力差を勘定に入れない議論というのはどうも嘘っぽい。
努力すれば何でもできるという努力信仰や親の経済力で学力は決まるという経済力信仰。 それも全く違うとはいわないけど、一番大事なのは能力ではないか。 なぜそんな自明なことを誰もいわない…。 同様に格差の議論だって、なぜか能力の差を避けたものが多い。 機会の平等さえ確保すればよい、結果の平等は自己責任なんていうのはその最たるものだ。 いくら再チャレンジをしたところで勝つ人と負ける人はだいたい決まっている。 再チャレンジの機会さえ与えれば格差が解決するなんて、人を騙すのもいいかげんにしろ。 格差の議論だって究極には能力差を認めたうえで格差をどうしましょうかという価値観の問題ではないか。 たぶん能力差にかかわらず結果がすべて平等、つまり「能力に応じて働き(機会の平等)、必要に応じて与えられる(結果の平等)」が絵空事だなんてのは皆が知っている。 じゃあ、能力差がある以上、それに基づく格差はいくらあってもよいのだろうか。 時々、人間の感情の中で、経済を動かすのは欲望という感情、そして政治を動かすのは嫉妬という感情ではないかと思うときがある。 嫉妬はしばしば自分を高めるよりも、相手を引き摺り下ろす方に向かう。 貧しく希望がもてない人が一定数に達するような社会では、そんな嫉妬の勘定が爆発することがあるのではないか。 クメールルージュの恐怖政治をよびよせた民衆だって、おそらくあれで国がよくなるなんて思ったわけではない。 ただ、今まで豊かに暮らしていたインテリが公開処刑されるところをみたかっただけではないか。 明日はわが身だとも考えずに・・・。 人間とはそれくらいおろかしい生き物だし、だからこそ、例えそれが能力によるものでも度をこした格差社会は危険だと思う。 ところで、最近何かと話題のマルクスも人間の能力差についてはあまりいっていない。 生産手段を所有する資本家と労働力以外に売るものがない労働者に人間を分けたが、現在ではその労働力の価値が能力やその結果としての技術によって天地ほどの差がついているのである。 そう考えるとマルクスの理論自体、科学技術が未発達で多くの人が単純労働についていた時代のものとしか思えない。 格差に克つ理論を構築するのなら、マルクスの焼き直しだけではたぶん無理だろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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