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カテゴリ:キリシタン
【歴史研究 その二】 歴史研究は常に、過去を再検証し続けます。ですから、当然のこととして、文字資料を徹底的に分析しなければなりません。過去に書かれた記録は、時として、後世の人々の目を事実から逸らせてしまいます。善光寺平のあるところを訪ねた時に、ボランティアガイドの方が、「『甲陽軍艦』に書かれているのですから、信じて下さい。善光寺へお詣りに行く信仰と同じです。」と笑いながらおっしゃっていました。また、越後からいらっしゃった方々にお話しする内容と、甲斐からいらっしゃった方々にお話しする内容は異なっているともおっしゃっていました。 こうした方がいらっしゃるんだと感動して、結局そこをすべて、その方にご案内していただきました。歴史研究は史実を求め続けます。幕府の禁令がそのまま逐一、守られていたとは考えません。守られていたかどうかは事実問題です。禁令は、それが出されたことは事実ですが、その内容が守られていたとは到底考えられません。また、保科正之公は松平姓を名乗らず、会津葵の紋をお使いになっていらっしゃいません。保科家が松平姓を名乗り始めたのは、保科松平会津藩第三代藩主松平正容の時からです。 『八重の桜』に出てきた西郷頼母の先祖も、神保修理の先祖も、高遠以来の家臣です。特に、西郷家は保科家と血縁関係にあります。あの時代の保科松平家の家臣の系図をご覧になると、様々なことを考えさせられます。そして、神保修理の父・神保内蔵助利孝が家老・田中玄清と共に「自刀」したシーンを憶えていらっしゃいますか?1986年にテレビで放映された『白虎隊』というドラマのあのシーンとは明らかに異なっていました。 あれが会津のキリシタンです。ですから、保科正之公以降、会津では殉教者は一人も出ていません。「村の中で完結しているキリシタンはお咎めなし」だったのです。そして、外堀の内側に屋敷を構えていた武家が、戊辰戦争の少し前に帰農したケースがあったことも明らかになっています。小生は、そのお宅の方から、直接、お話をお伺いすることが出来ました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.08.21 08:07:08
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