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 昭島フリーやまひで0207さん書き込みをしてくださり、ありがとうご...
 やまひで0207Re:説教要約 651(05/18)きよめられていれば、いつも喜ぶことが...
 昭島フリー象さん123さん書き込みをしてくださり、ありがとうご...
 象さん123Re:説教要約 647(05/04)アーメンです。特に、3に共感しました。

Headline News

 

インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)に、
当教会の牧師が出演しました! →こちら

久米小百合氏が本の案内人として司会をする
「本の旅」
『 聖書の中心的な教え 』甲斐慎一郎著
が紹介されました。

昭島フリーの日記 [全739件]

2012.05.22楽天プロフィール Add to Google XML

説教要約 778 

  • 120527礼拝チラシ.jpg

「神のいつくしみときびしさ」
                                       甲斐慎一郎
                     ローマ人への手紙、11章22節

 「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(22節)。
 
 ここでいう「いつくしみ」と「きびしさ」は、第一義的には「信
仰に立つ異邦人に対する神のいつくしみ」と「不信仰なユダヤ人に
対する神のきびしさ」を意味しています。

 しかしここでは神の「いつくしみ」と「きびしさ」という観点か
ら、聖書全体が教えている健全な信仰について学んでみましょう。

 一、神との関係における健全な信仰

 神のいつくしみは、「神の愛とあわれみ」の表れであり、神のき
びしさは、「神の義と聖」の表れです。この二つの性質は別のもの
ですが、決して矛盾するものではありません。すなわち神は、いつ
くしみのゆえに、きびしさを差し控えたり、反対にきびしさのゆえ
に、いつくしみを止めたりされるようなことはないということです。

 このことを罪に対して述べるなら、次のようになります。神は、
どのような小さな罪でも決して許される(許可される)方ではあり
ません。これは神のきびしさです。しかし神は、どのような大きな
罪でも悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、赦される(赦免さ
れる)方です。これは神のいつくしみです。

 そしてこの罪を許可されない神のきびしさと罪を赦免される神の
いつくしみが一つに溶け合ったものこそ「キリストの十字架」にほ
かなりません。聖書には、「恵みとまこととは、互いに出会い、義
と平和とは、互いに口づけしています」と記されています(詩篇8
5篇10節)。また賛美歌の262番1節は、「十字架のもとぞいと
やすけき、神の義と愛のあえるところ」と歌っています。

 私たちは神のいつくしみと神のきびしさが一つに溶け合ったキリ
ストの十字架のゆえに、罪を赦されて救われることができるのです。

 二、自分との関係における健全な信仰

 私たちは、聖書を読んだり、説教を聞いたりした時、どのような
ことに恵まれたり、慰められたりするでしょうか。聖書の教えは、
決して罪を許可しないきびしいものです。

 しかし私たちは、神に罪を許可してくれるように求めないまでも、
罪に対するきびしさを少しでも和らげるようなことに喜びと慰めを
見いだすなら、私たちは根本的に大きな間違いを犯していることに
なります。

 神からの真の祝福と慰めは、人間の側から見れば、罪の悔い改め
と神への信仰と服従と献身によって与えられるものです。ですから
罪を軽く取り扱い、「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っ
ている」(エレミヤ6章14節)のは偽りの祝福であり慰めです。

 罪を許可されない「神のきびしさ」を受け入れない人は、罪を赦
免される「神のいつくしみ」を受けることはできません。またこの
ような人は「悔い改めにふさわしい実を結」ぶ(マタイ3章8節)
ことができず、何回でも同じ罪を繰り返して行うのです。

 三、他の人との関係における健全な信仰

 「親しき中にも礼儀あり」という諺がありますが、対人関係にお
いて大切なことは、やさしさときびしさを兼ね備えていることです。

 もし私たちが「きびしさ」だけで「やさしさ」がなかったなら、
初めは罪を責め合ってぎすぎすし、ついにはとげとげしくなるでし
ょう。反対に「やさしさ」だけで「きびしさ」がなかったなら、初
めは罪を許可し合う馴れ合いになり、ついには互いに侮るようにな
るでしょう。どちらにしても対人関係を損なってしまうことになる
のです。

 しかし私たちが罪を許可されない神のきびしさと罪を赦免される
神のいつくしみを心から信じて受け入れるなら、人の罪を許可しな
いきびしさと、人の罪を赦免するやさしさを兼ね備えた人になるこ
とができます。

 しかしこれは、「飴と鞭」、言い換えれば、「やさしさときびし
さ」をたくみに使い分けるという処世にたけることではありません。
やさしさの中にきびしさがあり、きびしさの中にやさしさがあると
いうように、二つのものが混然と一体となっていることなのです。

甲斐慎一郎の著書説教集

東京フリーメソジスト昭島キリスト教会




Last updated 2012.05.22 09:55:43
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2012.05.16

説教要約 777 

  • 120520礼拝チラシ.jpg

「傷の霊的な教え」
                                  甲斐慎一郎
                                 イザヤ書、53章4~12節

 「しかし彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たち
の咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」
(5節)。

 「傷」には、およそ次のような三つの意味があるのではないでし
ょうか。

1.損なったり、傷んだりしたところ
2.欠陥や欠点、また不完全や不足
3.失敗や非難すべきところ、また罪

 この「傷」ということばは、単に物質や肉体が損なわれたり、傷
んだりするということだけでなく、「心の傷」ということばで表さ
れるような精神的また霊的な意味を持っています。

 それで様々な意味を持っている「傷」という観点から聖書が教え
ている大切な真理と霊的な教えを学んでみましょう。

 一、罪人の傷について

 カインがアベルを殺害した出来事(創世記4章1~16節)から、
聖書が教えている罪人の姿を傷という観点から述べるなら、次のよ
うな「あってはならない心の傷」を持つ者ということができるでし
ょう。

 1.自らの悪いところを指摘された時、それを認めず、悔い改め
ないことによる心の傷です。
 2.心に傷を受けた結果、人を憎んで、復讐せずにはおられない
という心の傷です。
 3.自らの思い通りにならないと心が傷つくという身勝手で自己
中心の心です。
 4.どうせ自分は、だめな人間なのだと言って心が傷つく卑屈な
心や劣等感です。
 5.自尊心が傷つけられたということばに表される高慢な心や優
越感です。

 これらは、本来は、あってはならない悪い「心の傷」です。しか
し人間は、これらの傷に悩み苦しみつつ罪の中にある者なのです。

 二、神またはキリストの傷について

 神は、このような人の罪を、どのように見られ、またどのように
対処されたでしょうか。このことに関して聖書は、私たちに次のよ
うな驚くべきことを教えています。それは、神は私たちの罪のため
に傷つけられ、しかも三重の傷を受けられたということです。

 1.第一は、私たちが罪を犯すと、神のみこころが傷つけられ、
正義の怒りが燃えることです。
 2.第二は、この罪を罰せずにはおかないという神の正義の怒り
と、この罪を何とか赦したいという神の愛の炎とが、激しく戦うこ
とによって受ける神の心の深い傷です。
  3.第三は、私たちの罪を赦すために神のひとり子イエス・キリ
ストが十字架において私たちの罪のために打たれ、また傷つけられ
たということです。

 これは何と恐れ多いことでしょうか。しかしこれが聖書の教えて
いる神なのです。
 
 
三、キリスト者の傷について

 神が受けられた傷によって、人間は罪から救われて神の子どもと
され、次のような祝福を受けるのです。

  1.「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(5節)とあ
るように、私たちは、キリストの十字架の贖いを信じることによっ
て、罪のために傷だらけになっていた心が縫い合わされて、いやさ
れるのです。
 2.「神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいや
してくださる」(ヨブ5章18節)とあるように、私たちは、神の愛
のむちを受けることによって、悪いところをきよめられ、「非難さ
れるところのない純真な者となり......傷のない神の子どもとな」る
のです(ピリピ2章15節)。
 3.私たちは、私たちを愛するあまり傷を受けてくださった神を
知ることによって、ほかの人たちの弱さと苦しみと罪のために心を
傷める愛の人に変えられるのです。

甲斐慎一郎の著書説教集

甲斐慎一郎の著書説教集

東京フリーメソジスト昭島キリスト教会



 




Last updated 2012.05.16 10:33:58
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2012.05.07

説教要約 776 

  • 120422パラダイムについて.jpg
  • 120422人間の行動を決定する世界観.jpg

「人間の行動を決定する世界観」
                       甲斐慎一郎
                         黙示録の黙示録、11章15節

  「この世の国は、私たちの主およびそのキリストのものとなった。
主は永遠に支配される」(15節)。

  一、思想(物の考え方)について

  1.近代的な思想や物の考え方

  近代は明治維新以後、第二次世界大戦終結までです。これは不変
的な正義や真理、すなわち偏見や先入観を捨て、客観的で合理的な
知識や正義を追及した時代です。デカルトは、すべてのものから自
由になった「個」というものを考えました。すなわち神からさえも
自由で縛られない自律的な個人というものを追及しました。しかし
このような近代合理主義は不可能であるという批判が出て来ました。
すなわち中立性、不変性、客観性を否定しました。近代合理主義の
死滅、行き詰まりです。

  2.現代的な思想や物の考え方

  現代は第二次世界大戦以後、現在までです。これは中立的、客観
的、不変的なものを徹底的に批判し、人間は必ずある枠組みから物
を見ているのであって、神や伝統や権威から自由になることは不可
能であり、このような抽象的な人間は存在しないという考え方です。

 パラダイムとは前提となっている理論的な枠組みのことで、人間
はこのある枠組み(パラダイム)を基準にして、物を見たり、考え
たりしているのです。現代哲学は近代哲学を否定し、人間は必ずあ
る視点に立っていると教えています。すなわち万人に共通した中立
的な考え方など存在しないというのが現代哲学の教えです。冒頭の
図の「パラダイム」は、そのことをわかりやすく説明したものです。

 ですからパラダイムを変更することは、宗教を変えるという「改
宗」の問題なのです。

  二、人の行動を決定する世界観について

  冒頭の図は、一番外側の円が「行動」、その内側が「価値観」、
さらにその内側が「信念」、最も奥の円が「世界観(歴史観)」を
教えています。その人の「世界観(歴史観)」が「信念」を決定し、
その「信念」が「価値観」を決定し、その「価値観」が「行動」を
決定します。人の行動を決定するのは、世界観です。

  三、おもな世界観(歴史観)について

  1.キリスト教世界観(歴史観)
  神は天地万物を創造されたが、人間は神に背いて堕落したので、
神はイスラエル人を起こし、その民族を通して救い主キリストを遣
わし、十字架において罪の贖いを成し遂げ、その救い主を信じる者
を罪から救い、世の終わりにご自身のみこころが行われる神の国を
建設されるという世界観(歴史観)です。

  2.イスラム教や仏教などの異教(他の諸宗教)の世界観
(歴史観)
 

 3.無神論的世界観(歴史観)または進化論的世界観(歴
史観)
  宇宙は大爆発(ビッグバン)によって誕生し、人間は、最も単純
な単細胞生物から少しずつ進化して現在の姿になり、未来に向かっ
て限りなく進歩していくという神の存在を信じない人たちの世界観
(歴史観)です。  

 4.皇国史観

  5.共産主義の世界観(歴史観)

  ほかにも様々な世界観があるでしょう。いずれにしても人間は、
必ずどれかの世界観を持ち、それがその人の行動を決定し、それに
基づいた国家を形成していくのです。

甲斐慎一郎の著書説教集

東京フリーメソジスト昭島キリスト教会




 




Last updated 2012.05.07 21:31:12
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2012.05.01

説教要約 775

「神の悩みと人の悩み」 
                                         甲斐慎一郎
                       イザヤ書、63章8~10節

  「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて」(9節、口語訳、
文語訳)。

  この言葉の前半には、イスラエルの民の悩み、すなわち人の悩み
について、後半には、主も悩まれたこと、すなわち神の悩みについ
て記されています。

 一、人の悩みについて

  「悩み」とは、患難や罪による心の苦しみのことですが、私たち
は、罪とは何か、患難はどのように考えたならばよいのかというこ
ととともに、「悩み」に関しても正しい知識が必要です。なぜなら
一口に「悩み」と言っても、様々な悩みがあるからです。

  1.あってはならない悩み--神に背いて、罪から来る、または
罪に至る悩み
  わがままや自己中心、軽蔑や高慢、憎悪や嫉妬、敵意や争い、貪
欲や耽溺、汚れや好色などの、神に背いて、罪から来る悩み、また
はこれらの罪に至る悩みは、あってはならない注意すべきものです。

  2.委ねなければならない悩み--人知や人力が及ばないので、
神に委ねる悩み
 人類の堕落以後、罪の傷痕として残っているあらゆる欠陥や弱点、
また有限な人間として避けられない無知や無力などの人の知恵や力
の及ばないものに対する悩みは、全知全能の神が摂理の御手をもっ
て「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8章28節)
ことを信じて、委ねるべきものです。

  3.なくてはならない悩み--神に近づき、罪から救われるため
に必要な悩み
 ヤコブは、罪ある人たちと二心の人たちに、「あなたがたは、苦
しみなさい(文語訳は、悩みなさい)。悲しみなさい。泣きなさい。
あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」と勧めて
います(4章9節)。

  私たちは、自分のいやな性質やかたくなな性格、また最もいけな
い所や恥ずべき悪癖、そして汚れた思いや罪深い心のために真剣に
悩んだことがあるでしょうか。私たちは、パウロのように「ああわ
れ悩める人なるかな、この死の体より我を救わん者は誰ぞ」(ロー
マ7章24節、文語訳)と叫んだことがあるでしょうか。
 
 二、神の悩みについて

  どこまでも正しく聖く、また全知全能の神は、人間のような「あ
ってはならない悩み」や「委ねなければならない悩み」や「なくて
はならない悩み」などは、全くないことは言うまでもありません。
神の悩みはすべて、神ご自身に関するものではなく、私たちに関す
るものです。このことを分かりやすく述べるなら、次のようになり
ます。

 1.神は、私たちが「あってはならない悩み」を持っていること
を悩まれる方です。
  2.神は、私たちが「委ねなければならない悩み」を委ねていな
いことを悩まれる方です。 
 3.神は、私たちが「なくてはならない悩み」を持っていないこ
とを悩まれる方です。

 それゆえに「その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔から
ずっと、彼らを背負い、抱いて来られ」ました(9節)。これは、
「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」た(第一
ペテロ2章24節)キリストの十字架による救いにほかなりません。

  三、三種類の悩みの関係について

  私たちは、「なくてはならない悩み」が深くなればなるほど、ま
すます神に近づくとともに、キリストの十字架の救いの必要性が分
かり、救いの経験が明確になります。

  救いの経験が明確になればなるほど、罪から来る、または罪に至
る「あってはならない悩み」がなくなってくるとともに、「委ねな
ければならない悩み」も神に委ねることができるようになり、悩み
が軽くなっていきます。

  しかし、この「なくてはならない悩み」がないなら、その罪のた
めにますます「あってはならない悩み」が深くなるとともに、「委
ねなければならない悩み」も委ねることができず、ますます深く悩
むようになるでしょう。

  私たちは、どのようなことに悩み、またその悩みを解決している
でしょうか。

甲斐慎一郎の著書説教集

東京フリーメソジスト昭島キリスト教会




Last updated 2012.05.01 21:58:33
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2012.04.24

説教要約 774 

  • 120429礼拝チラシ.jpg

「三つの創造」
                                  甲斐慎一郎
                        コリント人への手紙、第二、5章17~21節

  聖書は、開巻第一ページにおいて神は万物の創造者であると記し
ています。この万物の創造者である神のわざについて、次のような
「三つの創造」を教えています。

 1.今の天と地の創造--「初めに、神が天と地を創造した」
(創世記一章1節)。
 2.人間の新しい創造--「だれでもキリストのうちにあるなら、
その人は新しく造られた者です」(第二コリント5章17節)。
 3.新しい天と地の創造--「私は、新しい天と新しい地とを見
た」(黙示録21章1節、第二ペテロ3章13節)。

  第一は過去、第二は現在、第三は将来における神の創造のわざで
す。もし私たちが、第一の創造のわざを信じるなら、第二と第三の
創造のわざをも信じることができます。しかしそれを信じなければ、
あとの二つも信じることができないでしょう。

  一、私たちが新しく造られるという「人間の新しい創造」こ
そ最も大切なことです

  人間が直面している最大の問題は何でしょうか。無知や無力でし
ょうか。短所や弱さでしょうか。病気や怪我でしょうか。苦しみや
悩みでしょうか。老いや死でしょうか。確かにこれらのことも問題
ですが、人間の最大の問題は罪であると、聖書は教えています。

  それではこの罪を解決するためには、どうすればよいのでしょう
か。学びや勉強をして高い教育を受けることでしょうか。運動や体
操をしてからだと心を鍛えることでしょうか。倫理や道徳を守るこ
とでしょうか。努力して苦行や修行に励むことでしょうか。しかし
このようなことでは決して罪を解決することができないことを聖書
は教えています。

  聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく
造られた者です」と記し(第二コリント5章17節)、キリストによ
る「人間の新しい創造」こそ罪を解決する唯一の秘訣であることを
教えています。

  二、そのためには「今の天と地の創造」者である神の救いを
信じることが必要です

  聖書は、生まれながらの人は「罪過と罪との中に死んで......肉の
欲の中に生き、肉と心の望むままを行」う罪深い者であると記して
います(エペソ二章1、3節)。このような罪人が新しく造られる
ということなどあり得るでしょうか。そのような人に造り変えられ
るということなど信じられるでしょうか。

  進化論者は、無から有を生じる自然発生という偶然から始まり、
無生物から生物へ、そして猿から人間へ進化したことを信じる者で
す。もし私たちが進化論者のように「この世界とその中にあるすべ
てのものをお造りになった」(使徒17章24節)全知全能の創造者
である神を信じなかったなら、罪深い人間が新しく創造されるとい
うことなど決して信じることができないでしょう。

  罪深い人間が新しく造り変えられるという「人間の新しい創造」
は、ただ「今の天と地の創造」者である神のみがおできになること
で、この方以外には絶対に不可能なのです。

  三、すると「新しい天と地の創造」者である神とともに永遠
に生きることができます

  現在の地球は、公害や環境破壊によって汚染され、それがもたら
す異常気象や天変地異によって狂いが生じ、もし核戦争が起きるな
ら破滅してしまうでしょう。罪深い人間が新しく創造されなければ、
だれも地球の破滅を食い止めることはできないでしょう。

  聖書は、「その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天
の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従
って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と記し
(第二ペテロ3章12、13節)、新しく創造された人間は、今の天と
地が破滅しても、新しい天と新しい地に永遠に住むことができると
教えています。

  私たちが神とともに永遠に住むことができる「新しい天と地の創
造」を信じることができるのは、神が「今の天と地の創造」者であ
ることを信じているからであり、そうでなければ決して信じること
はできないでしょう。

拙著「聖書の中心的な教え」3 「三つの創造」より転載

甲斐慎一郎の著書→説教集

東京フリーメソジスト昭島キリスト教会

120401聖書の中心的な教え.jpg

 




Last updated 2012.04.24 21:39:46
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2012.04.16

説教要約 773 

  • 120415神の啓示と人の探求.jpg

「神の啓示と人の探求」
                  甲斐慎一郎
                    使徒の働き、17章24~28節

 「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることで
もあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私た
ちひとりひとりから遠く離れてはおられません」(27節)。

 私たちは、神と宇宙、また人間と人生等々について自問自答し、
真理を探り求めているのではないでしょうか。

1.神は、ほんとうに存在するのか?
2.天地は、どのようにして造られたのか?
3.人間は、どのようにして生まれたのか?
4.人は、どのように生きるべきなのか?
5.人間は、死後どうなるのか?

 これらの質問を一つにまとめるなら、「真理とは何か」というこ
とになるでしょう。この真理を知る方法については、全く正反対の
二つの考え方があります。

 一、人が真理を探究することについて

 人が生きるためには、いわゆる「衣食住」が必要です。しかし、
もし人が衣食住のためだけに生きているならば、他の動物と少しも
変わりません。人の人たるゆえんは、「真理とは何か」、「人は、
どのように生きるべきなのか」ということを考え、それを探究して
生きるところにあるのではないでしょうか。このような人間の営み
が、教育や科学であり、また倫理や道徳、そして哲学や宗教(異教)
です。これらは、上の図のように現実の世界から究極の真理に向か
って限りなく近づく赤い矢印として表すことができます。

 この「人が真理を探究する」営みというのは、非常に大切なもの
ですが、「科学の教科書は絶えず書き変えられる」ということばに
代表されるように、これは、究極の真理に到達するまでの「相対的
な真理」であり、「絶対的な真理」ではないという限界のあるもの
であることを決して忘れてはならないのです。

 二、神が真理を啓示されることについて

 これに対して聖書は、人の探究ではわからない神と神に関する究
極の真理を、神のほうから私たちに明らかに教え示しています。こ
れが「神の啓示」です。これは上の図のように、究極の真理から
現実の世界に向かっている青い矢印として表すことができます。

 「人は、どのように生きるべきなのか」ということについては、
究極の真理に到達するまでの相対的な真理を教える「人の探求」で
は間に合わず、絶対的な真理を教える「神の啓示」がどうしても必
要ではないでしょうか。聖書こそ「神の啓示」の書です。それは、
神が「究極の真理」を時間と空間を超越して、一足飛びに私たちに
示されたものです。

 ですから、天地の創造を初め、永遠の生命や復活また奇蹟等、人
間の理性では考えられないような不思議なことが聖書に記されてい
るのも当然ではないでしょうか。なぜなら「人が真理を探究する」
という科学の発明でさえも、それが発明される前の人々には、全
く不思議で信じられないものだからです。

 たとえば、電話やテレビを全く知らない大昔の人々に対して私た
ちが、電話は地球の反対側に住んでいる人とも話をすることができ
るもので、テレビは彼らの姿をカラーで動く絵として見ることがで
きるものであると説明しても、彼らは全く信じられないでしょう。

 まして21世紀の科学の発明よりも、はるかに高度な「究極の真
理」が時空を超越して一足飛びに啓示されるならば、それが信じら
れないようなことであるのも当然ではないでしょうか。聖書は、創
世記の1章から、この「神の啓示」が記されているのです。

拙著「聖書の中心的な教え」2「天地の創造(2)」より転載

甲斐慎一郎の著書→説教集

東京フリーメソジスト昭島キリスト教会

120422創造博物館後編.jpg

120401聖書の中心的な教え.jpg




Last updated 2012.04.16 12:25:08
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2012.04.09

説教要約 772 

  • 120408人類の新旧の代表2.jpg

「人類の新旧の代表2」
                                               甲斐慎一郎
                     ローマ人への手紙、5章12~21節

 「死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人
を通して来たからです」(第一コリント15章21節)。

 一、アダムの堕罪と死の支配

 上の図の赤線の三角形は、人類の古い代表であるアダム(第一の
人)を頂点とし、そのアダムの堕罪によって世界に死がはいり、そ
の死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及
んだことを表しています。このように聖書は、アダムが罪を犯した
時、すべての人は彼の「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すな
わち彼の傘下にはいっていたという人類の連帯性を教えています。
 
 ヒトゲノム計画は、ヒトのDNA(デオキシリボ核酸、すなわち
遺伝情報)の全塩基配列を解読するもので、全世界の人々のDNA
を調べ、ヒトゲノムのすべての配列を完成させました。ベンター博
士と国立衛生研究所の科学者たちは、満場一致で、「人種は、ただ
一つしかない」と宣言しました。換言すれば、すべての人はアダム
の「腰の中にいた」、すなわち彼の傘下にはいっていたことが21
世紀の科学で証明されたのです。

  下の「一家に一枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)」を参照。

  二、キリストの贖罪といのちの支配

  上の図の青線の三角形は、人類の新しい代表であるキリスト(第
二の人)を頂点とし、そのキリストの贖罪によって世界にいのちが
与えられ、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人
類という底辺に及んだことを表しています。

 パウロは、人類の真の代表であるキリストとキリストのひな型で
あるアダム(14節)を比較して、「本物に対してひな型であるアダ
ムの堕罪は、世界に死をもたらし、その死があらゆる人を支配して、
代々にわたる全人類に及んでいるのです。とすれば、なおのこと、
人類の真の代表であるキリストの贖罪は、どうして世界にいのちを
与え、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に
満ちあふれないわけがあるでしょうか」とキリストとそのいのちの
優越性を述べています(15、17節)。

 DNA(デオキシリボ核酸、すなわち遺伝情報)は、いのちの設
計図(情報)であり、生きているいのちであり、新しいいのちを形
造り(複製し)ます。パウロは、「私のうちに啓示(すなわち神の
情報)」されるキリスト(ガラテヤ1章12、16節)と、「私のうち
に生きておられる」キリスト(同2章20節)と、私の「うちに......
形造られる」キリスト(同4章19節)について述べています。

 聖書は、「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもある
のです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてあ
りますが、最後のアダム(キリスト)は、生かす御霊となりました。
最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。
御霊のものはあとに来るのです。第一の人(アダム)は地から出て、
土で造られた者ですが、第二の人(キリスト)は天から出た者です。
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの
者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造ら
れた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです」
(第一コリント15章44~49節)と教えています。

 この聖書の言葉をDNA(デオキシリボ核酸、すなわち遺伝情報)
という言葉を用いて言い表すなら次のように言うことができます。 

 アダムには肉(肉体、人間性、罪の原理)のDNAがあり、全人
類は死の支配下にありますが、キリストには霊(御霊)のDNAが
あり、キリストの贖いを信じるすべての人は、いのちの支配下にあ
るのです。「アダムはきたるべき方(キリスト)のひな型」(ロー
マ5章14節)であるように、「アダムの肉(肉体、人間性、罪の原
理)のDNAは、キリストの霊(御霊)のDNAのひな型」です。

  三、死の支配からいのちの支配への移行

  すべての人はアダムの子孫として生まれるので(第一の誕生)、
彼の堕罪による死の支配からのがれることはできませんが、だれで
も罪を悔い改め、キリストを信じて新しく生まれるなら(第二の誕
生)、主の贖罪によるいのちの支配下にはいることができるのです。

説教要約 737 の「創造論か進化論か」を参照。

一家に1枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)(PDF 4.0MB)

甲斐慎一郎の著書→説教集

東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
 

120415創造博物館前編.jpg




Last updated 2012.04.13 22:46:53
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