前回書いた「野球害毒論」論争勃発(2)の続き。
■東京朝日新聞の記事(「野球と其害毒)がきっかけとなって巻き起こった「野球害毒論」。
時の教育者・知識人vs野球関係者が対立し論争に発展したのは前述のとおり。だが
実はもうひとつ対立の構図があった。それは「新聞社間の対立」。
■東京朝日の記事に対し東京日日新聞(現・毎日新聞)は、朝日が記事を連載した
2日後の8月31日からさっそく「学生と野球」という連載記事を掲げ、朝日に反論を
開始した。
安部磯雄をはじめ押川春浪らの意見を中心に「野球擁護論」を展開した。この毎日
の動きに国民新聞(現・東京新聞)や読売新聞が便乗、擁護派に加わり賛否が分か
れる大論争に発展した。
■表現は悪いかもしれないが、この事態は野球というスポーツが新聞社どうしの
「抗争の具」になってしまった感が否めない。
そして不思議なのは、野球を批判する論陣を張った朝日がその4年後(1915年)、
なぜか全国中等学校優勝野球大会を主催したこと。
■wikipediaには、当時の朝日の事情が記されていたので、そのまま以下に引用
します。
大阪朝日は東京朝日の「野球害毒論」キャンペーンに関して擁護記事は掲載せず、
キャンペーン終了直後には野球に好意的な特集記事を組んだ。
さらに「野球と其害毒」連載から4年後の1915年(大正4年)、大阪朝日は社会部長
長谷川如是閑主導の下全国中等学校野球大会を実施することになった。
当時の大阪朝日の社説には、
「攻防の備え整然として、一糸乱れず、腕力脚力の全運動に加うるに、作戦計画に
知能を絞り、間一髪の機知を要するとともに、最も慎重なる警戒を要し、而も加うるに
協力的努力を養わしむるは、吾人ベースボール競技をもってその最たるものと為す」
と書かれていた。
■当時の朝日新聞社は「東京朝日新聞社」と「大阪朝日新聞社」の2つに分かれて
いたが、大阪朝日の野球への礼賛ぶりには驚いてしまう。どうやら朝日の中にも
対立軸があったようで、全国中等学校野球大会を主催したのは大阪朝日のほうだった。
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