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第7官界彷徨

第7官界彷徨

更級日記

 更級日記               菅原孝標女(1008~1059)

 千葉県の市原市に上総の国府がありその地で育った姫が書いた、憧れの京への旅日記。いつか、小湊線の上総馬立駅から見た夕陽の大きかったこと。
 彼女も同じような夕陽を見たのだと思いました。
 任期が終わり、家族とともに京への旅を始めるのですが、私がふと思ったのは「くろと」の浜のこと。木更津の金田海岸に「畔戸」という部落があり、そこが更級日記の「くろと」だと思いたいのです。
 しかし、道が逆行してしまいます。方違えのためとしても、少し下り過ぎます。それでは、もっと南の富津市に住んでいたとしたら、、、。それが私の仮説です。
 そこは私のふるさとであり、大きな古墳がたくさんあるのです。 
  *ふるさとは条里の名残り九条塚   ローザ

 つたないながら、平安の読書する少女に思いを馳せて、現代語に訳してみました。

「東路の道の果て」
 東路の道の果てよりもなお奥深い土地で育った私は、どんなにかひなびた存在でありましたでしょうに、そんな私がどうしたことでしょう、「世の中には物語というものがあるそうな。何とかして読んでみたい」としきりに思うようになりました。
 そして、なすこともない昼や、夜のくつろぎの時間などに、姉や継母などがその物語、あの物語、光源氏の様子などを折々に話しているのを聞きますと、私の物語を読みたい気持ちはますます募るのですが、その姉や継母も、私が納得するほどには多く覚えて語ってくれるわけでもないのでした。
 私はあまりにもどかしくて、薬師如来の等身像を作ってもらい、手を洗い清めて人の目を盗んでは仏間に入り「早く京に行かせてください。都には物語がたくさんあるとか、それをある限り見られるようにしてくださいませ」と、身を投げ出して額をつけて拝んでおりました。
 すると、13歳になった年に、上総介だった父の任期が終わり、京に上ることになり、9月3日に門出をして、いまたち(馬立)という所に移りました。
 ずっと遊び馴れてきた部屋も、外から丸見えになるほどに家具や御簾などを取払い、人々は立ち騒いでいるうちに、夕方になりなんともすごく霧が立ちこめている頃、車に乗ろうとして我が家の方を見ますと、いつもお参りして額をつけて拝んでいた薬師如来様が立っておいでになるので、それをお見捨てしていくのが悲しくて、私は人に知られないように泣いてしまいました。


 仮に移った家は、周囲の垣根などもなく、一時しのぎの茅葺きの家で蔀もなく、簾をかけて幕を引いてありました。南のほうは遠くまで野原が見え、東と西は海が近くまで来ていて趣が深いところでした。夕霧が立ちこめてとても良い風景なので、私は朝は朝寝などをしないで、あちこち眺めて、ここを立ち去ってしまうのも名残り惜しくて悲しかったのですが、その月の15日に、あたりが暗くなるほどの雨が降るとき、国境を出て下総のいかだという所に泊まりました。
 庵が浮いてしまいそうに雨が降るので、恐ろしくてまんじりともできませんでした。
 夜が明けてみると野原の丘のような所に木が3本だけ立っていました。その日は、雨に濡れた物などを干し、後から国を立ってくる人たちを待つためにそこで過ごしました。
 17日の早朝そこを立ちました。
 昔、下総の国に間野の長者という人が住んでいて、疋布を千も万もたくさん織らせて、晒させた家の跡という深い川を舟で渡りました。
 昔の門の柱がまだ残っているということで、大きな柱が川の中に4つ立っていました。人々が歌を詠むのを聞いて、私も心の中で
*朽ちもせぬこの川柱のこらずは
      昔のあとをいかで知らまし
 と歌を詠みました。
 その晩は黒戸の浜というところに泊まりました。片方は広々とした砂丘で、松原が茂り、月がとても明るいので吹く風の音もとても心細いのでした。人々がおもしろがって歌を詠むので、私も
*まどろまじ今宵ならではいつか見む
      くろとの浜のあきの夜の月
 と、詠んでみました。
 その翌朝、そこを立って下総の国と武蔵の国の境にある太井川という川の上流の瀬、松里のあたりの津に泊まって、人々は夜の間舟で荷物をぼつぼつ渡していました。
 私の乳母は夫に先立たれ、国境で子どもを産んだので、私とは離れて別に上京することになりました。私は乳母がとても恋しいので、会いに行きたいと思っていましたら、兄が私を抱いて馬に乗って乳母のところに連れて行ってくれました。
 私たちの一行は、かりそめの小屋と言っても、風が吹き込まないように幕を引き巡らしたりしてあるのですが、乳母のところは男手もないので、粗末に苫というものを一重にふいただけのものなので、月の光がくまなく差し込んでいるような有様でした。そこに乳母は紅の衣をはおってつらそうに伏していました。月の光を浴びたその姿は乳母らしくもなくとても色白で清楚で、私がお見舞いしたのをいとおしがって、私の髪を撫でては泣くのでした。
 私は乳母が不憫で、このまま見捨てて帰りたくないと思いました。兄にせかされて連れ戻されるのはとてもつらいものでした。
 帰っても、乳母の面影がちらついて悲しいので、月を愛でることもしないで、ふさぎ込んで寝てしまいました。
 その翌朝、舟に車を据えて川を渡し、向こうの岸に車を引き立て、見送りの人たちはみなここから帰ることになりました。
 京へ上る私たちは立ち去り難く、いざ別れるとなると、行く人も残る人もみな泣いているのでした。子ども心にもとても悲しく思える別れの情景だったのでした。


竹芝寺
 武蔵の国に入りました。格別風情のないところで、浜も白い砂ではなく、泥のような感じでした。
 (古今集に
*紫のひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る
 とあるのを読み、楽しみにしていましたのに)
 紫草が生えると聞いていた野も蘆や萩だけが高く茂っていて、馬に乗った侍が弓を持っている先が見えないほどに高く生い茂っています。その中を分け入って行くと、竹芝という寺がありました。見ればはるかに「ははさう」(宝蔵?)などという所の楼の礎石などがありました。
 ここはどういう所ですか、と訪ねてみますと「ここは昔は竹芝という坂でした。この国に住んでいた男を、火を焚く衛士として朝廷に差し上げたところ、その男が御前の庭を掃きながら「どうしてこんな苦しい目にあわなければならないのだろう、私の故郷ではあちこちに造り据えた酒壷にさしかけた柄がまっすぐなひさごが、南風が吹けば北になびき、北風が吹けば南になびき、西風が吹けば東になびき、東風が吹けば西になびくのを見ていたのに、それも見られずにこんなことをしているのだ」と独り言を言っておりました。
 その時、帝の姫で、たいそう大切に育てられていた姫がたった一人で御簾のそばにお出ましになり、柱にもたれてその様子をご覧になっていました。
 姫はこの男がこのような独り言を言うのをたいそう面白く思い、どのようなひさごがどのようになびくのであろうとひどく興味を持たれたので、御簾を押し上げて「そこの下僕、ここに参れ」とお召しになりました。
 そこで男がかしこまって高欄のそばに参りますと、「お前が言っていたことを、もう一度私に言って聞かせよ」とおっしゃるので、酒壷のことをもう一度申し上げますと、「私をそこに連れて行って見せておくれ。そういう理由があるのです」とおっしゃるので、男はもったいない、おそろしい、とは思いましたが、そういう因縁があったのでしょうか、そのまま姫宮を背負い申し上げて、武蔵の国に下ってまいりました。
 むろん、追っ手が来ると思い、その夜は瀬田の橋のもとに姫をお置き申し上げて、瀬田の橋を一間ほど壊し、それを飛び超えて姫宮をお背負い申し上げ、7日7晩かかって、武蔵の国にたどり着いたのでした。
 
 都では、帝や皇后さまが姫宮がいなくなってしまわれたとご心配に思い、お捜しになったところ、「武蔵の国の衛士の男が、たいそう香りのよいものを首に引きかけて、飛ぶようにして逃げて行きました」という申し出がありました。
 そこでこの男を捜してみましたが、どこにもいません。必ず生まれ故郷に帰るに違いないと朝廷から使いが出て下りましたが、瀬田の橋が壊れてなかなか行く事ができません。使いは3月かかって武蔵の国に行き着き、この男を訪ねたところ、姫君が使いのものを召して「私にはこういう因縁があったのでしょう。この男の家が見たくて連れて行ってと私が言ったので連れて来てくれたのです。ここはたいそう住み良い気持ちがします。
 この男が罰を受け、ひどい目に合わせられたら、私はどうしたらよいのでしょう。これも、前世からのこの国に住み着くべきという約束事があったのでしょう。早く都に帰ってこのことを申し上げてください。」と仰せになりました。
 使いのものもどうしようもなく、都に上り、帝に「このようなことでございました」と申し上げると、「仕方がない、その男を処罰してもいまさら姫を取り返して都へお連れするわけにもいかないだろう。竹芝の男に生きているかぎり武蔵の国を預け、公務もさせよう。無条件で姫君たちに武蔵の国をお預け申し上げよう」と帝が言われたので、男は内裏のような家を建て、姫君をお住ませ申し上げました。
 姫君たちが亡くなってしまってからは寺にして供養なさったのを、竹芝寺と呼んだそうです。
 姫のお産みになったお子様がたは、その後、武蔵という性を頂戴したということです。
 そののち、宮中の火焚き小屋には女が入ることになったということです。」
 と、話してくれました。


「いざ言とはむ」
 野や山や蘆や荻の中を分けて進むばかりで、ほかに変わった景色もなく進み、武蔵と相模の間を流れる「あすだ川」という川につきました。ここは、伊勢物語の在五中将が「いざ言問はむ」とお詠みになったあたりです。中将の歌集には「すみだ川」とあります。舟で渡ると相模の国になっていました。
 「にしとみ」という所の山は、絵を上手に描いた屏風を立て並べたようにすばらしく、片方は海で、浜の様子も寄せては返す浪の景色もとても趣があるものでした。
 もろこしが原という、浜辺の砂の白く美しいところを、2、3日かけて通っていきました。
「夏はやまと撫子が濃く薄く錦を引いたように咲きますが、今は秋の末なので見えないのです」というけれど、それでもなお所々にこぼれ残ったように寂しく咲いていました。
 「もろこしが原にやまと撫子が咲いているとは」などと、人々はおもしろがっておりました。
 
 足柄というあたりは、4、5日かかって、おそろしげに暗く道が続いていました。ようやく入った麓のほうでさえ、空もよく見えないくらいで、なんとも言えず草木が茂ってひどくおそろしい様子でした。
 麓に宿をとったところ、月もなく暗い夜で迷うような深い闇でしたが、3人の遊女がどこからともなく出て来ました。50歳ほどのが1人、20歳ほどのと14、5歳の3人です。
 庵の前に唐傘をささせて、遊女たちを座らせました。男たちが火を灯して見ますと、一人は昔「こはた」といった者の孫だとのこと。
 髪がとても長く額に美しくかかって、色は白くきれいで、「さて、このまま宮仕えの下女にもできそうだ」と人々が感心しておりますと、その声はたとえようもないほど空に澄み登るように上手に歌を歌うのでした。
 人々はたいそう感嘆して、そば近くに呼んで打ち興じておりますと、どなたかが
「西国の遊女はこのようにうまくは歌えまい」などというのを聞いて
「難波あたりの遊女に比べれば、、」と上手に返して歌うのでした。見たところ少しも汚くはなくて、声もたとえようもなく上手に歌って、このような恐ろしげな山の中に帰って行くのを、人々が名残り惜しく思って皆が泣くのを見て、幼心には、ましてこの宿を発って行くことさえ心残りに思われたのでした。
(ほんとに人なつこいかわいい作者ですね。ローザ)
 
 翌朝はまだ暗いうちに足柄山を越えて行きました。(麓でさえあんなに鬱蒼としていたので)まして山の中の恐ろしさは言いようもありません。雲は足の下に踏むような感じで、山の中腹あたりに木の下のわずかな場所に、葵がたった3本生えているのを見て「よくまあ、人里離れたこんな山の中に生えていることだ」と人々はあわれがるのでした。
 その山の3カ所に谷川が流れていました。やっと足柄山を越えて、関山に泊まりました。ここさらは駿河の国です。横走りの関の傍に岩壷という所があります。何とも言えず大きな石の四角いのがあり、その穴の開いている中から出ている水の清く冷たい味はこの上もありませんでした。
 
 富士山は、この国のものなのでした。私が育った上総の国からは西の方に見えた山です。その山の様子は、世にも類のない素晴らしいものでした。他の山とは違う美しい姿が、紺青を塗ったようなのところに、雪が消えることもなく積もっていて、色の濃い衣に白いあこめを着た姿のように見え、山頂の少し平らになっているところから煙が立ち上っているのでした。夕暮れになるとそこに火が燃えているのも見えるのでした。
 清見が関は、片方は海なのに、関所の番屋などがたくさんあり、海まで柱を立てて柵をしてあるのでした。
 潮煙と富士の煙が寄せ合っているのか、清見が関の波も高くなりそうな気配です。趣が深いのはこの上ないのでした。
 田子ノ浦は波が高いので舟で濃いで回って行きました。大井川という渡し場がありました。この川の水は他と変わっていて、米の粉を濃く融いて流したように、白い水が早く流れているのでした。
 富士川というのは、富士山から流れてきた水なのでした。その国の人が出て来て話すには、「一年前頃、よそに出かけた折り、大変暑かったのでこの川のほとりで休みながらながめておりますと、川上の方から黄色いものが流れて来て、ものに引っかかって止まったのを見ますと、それは反故なのでした。取り上げてみますと黄色い紙に朱色の字で濃く美しく文字が書かれています。不思議に思って読んでみますと、来年のこの国が


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