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第7官界彷徨

第7官界彷徨

古今和歌集 賀の歌 離別歌 羇旅歌

2010年6月
巻の第7
賀のうた
343番          読み人知らず
*わが君は千世にやちよにさざれ石の巌となりて苔のむすまで

349番          在原業平
*桜花ちりかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに

 この歌は、ほとんどの写本では在原行平の作となっていて、本当は行平くんの作ったもののようです。
 しかし、伊勢物語では、業平が作ったとされていて
 藤原氏の栄華の基礎を作った基経の40の賀に、散る桜の景色をまず出したという、アンチ藤原の業平くんの嫌み!という説がまかり通っているらしいです。


2010年9月21日
360番
 右大将藤原定国の四十の賀しける時に、四季の絵かけるうしろの屏風にかきたりけるうた
*住江のまつを秋風吹くからに こえうちそふる沖つしらなみ

 何でもないような歌だが、この歌は名歌だそうです。
 暑い夏から秋風への時間の経過、浜より遠い沖の白波がそれに応えて、静止的な屏風絵の画像に動きを与え、秋=白、浜風=松籟、という人々の持つイメージが隠し味になっているんだそうです。
 古今集の中の極め付きの名歌のひとつと言えるそうです。

 平安時代の歌論書「袋草子」に
 源経信が亡くなるときに息子の俊頼を呼び、後拾遺集の摂られている自分の歌
*沖つ風吹きにけらしな住の江の松のしづ枝を洗ふ白波
 と、古今集にあり、後拾遺集に再び摂られている
*住江のまつを秋風
 の歌とどちらがすぐれているか?と聞いた。俊頼が父の歌の方がいいと言ったら、安心して死んだそうです。
 平安時代の貴族たちは、それほど歌に命をかけ、家の名誉をかけていたんですって。

 平安時代の古い頃、唐絵というものが日本に来ていたそうです。それは、データとしてはあるが、実物はほとんど残っていないが、多くは山水画であり、深山幽谷に人の分け入ったあとが感じられるような絵だそうです。
 これは道教(TAOイズム)のシンボリックな絵で、山水は宗教的境地なのだそうです。

 現代の日本では、道教は暮らしの中に残ってはいるけれど、表面的には影をひそめたような存在。今はっきりと残しているのは禅宗のお寺くらいである。
 とのことです。
 既成の人工物ではなく、山水や自然に見つけ出す宗教的境地。行き詰まった日本人がちょっとふりかえってみるのもいいかも。
 古典に学ぶのもいいかも。
 
2010年10月
 昨日は古今和歌集の日でした。
 巻八、離別歌
 365番
 *立ち別れいなばの山の峰におふるまつとし聞かば今かへりこむ
 在原業平さまの異母兄、行平さまの歌です。この2人は同母兄弟と言う説もありますが、業平は伊豆内親王の子で、彼女は生涯ひとりしか子どもを産まなかったので、異母兄弟らしい。

 行平も文学史、政治史に大切なことをいくつも行った文化人でした。
○学問所「奨学院」を創設。これは在原家の子弟の学問所です。
○彼の行った「在民部卿家歌合わせ」は、日本の歌合わせの歴史上最古。
○斎衡2年 因幡守
○古今集962番の彼の歌
*わくらばに問ふ人あらば須磨の海に もしほたれつつわぶとこたへよ
 は、源氏物語の「須磨明石」のヒントになり、
 謡曲「松風」に見事に再現されているそうです。

 彼の「立ち別れ」の歌は、あんまりほめない藤原俊成が、「古来風体抄」の中で
「あまりぞくされすきたれど姿をかしきなり」と褒めた名歌中の名歌であり、小倉百人一首にも採られました。
 萩原朔太郎も「音律が良い」と褒めているそうです。

 詞書がないので、この歌について、「京から因幡に赴任するときに京の人に言った」説と、「任を解かれて京に帰るときに因幡の人に言った」説とあるそうです。
 これから行くにしては「いなばの山の峰に生ふる松」と、やたらリアルだし、中世では「因幡から京へ」が圧倒的に支持されていたそうですが、近世以降「京から因幡へ赴任する」論が増えたそうです。

 しかし、因幡の人たちに「まつとし聞かば今かへりこむ」と歌ったとすれば、彼の「良吏」(民のために優れた地方長官)たる面目躍如。私腹を肥やすようになった地方長官が増えた時代にあって、
 「中国の科挙に受かった人々のように清廉潔白、勤勉な勤務を旨とし、自他ともに認めた菅原道真」を理想とする考えがあったかも、、、、ということです。
 ちなみに、この「良吏」の感覚を真似したけど、あまりうまくいかなかった人の例に土佐日記を書いた紀貫之がいたそうです。
 いつの世も、理想と現実の中に人はたゆたうのですね。

 そうそう、俗聞ですが、この「立ち別れ♪」の歌は、猫が家出したときに玄関先にこれを書いて貼っておくと帰って来るおまじないになるそうです。おためしください。

2011年5月
 先月と同じ町子(私)のご先祖たかむら様の歌。
*わたのはら八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまの釣り舟
 これには
「隠岐の国にながされける時に、舟に乗りていでたつとて、
 京なる人のもとにつかはしける」と説明が

 小野たかむらは、遣唐使に行きたくなくて、隠岐の島に流されたのです。
 794うぐいす平安京から、遣唐使廃止の894年まで平安時代400年のうちのはじめ100年は遣唐使に行った人や文化の交流があった時代なんですって。歌は文学だけでなく文化史としても意味があるらしい。
 
 平安時代は死刑や暴力的な刑がない世界にも稀なる異色の刑罰史の時代だったそうです。
 たかむら様は、遣唐副使だったのですが、遣唐大使の常継と仲が悪く、たかむらの船を一艘出すようにとの朝廷の命令に従わなかったため、隠岐の島に流されました。

 当時の刑罰は所払いが主で
一番重いのから
遠流(おんる)=隠岐の島、佐渡、土佐など
中流(ちゅうる)
近流(こんる)

 だったそうです。近いのは京の近くの温泉地などがあったようです。距離的な遠さと精神的な遠さで遠近が決まっていたようです。
 遠流の罪人たちは瀬戸内海から舟で送られました。たかむらはこの瀬戸内の海に、日本神話の国生みの世界にちなみ、必ず自分は復活して帰ってくると決意を固めたらしいです。
 「人には告げよ」と神のように胸を張ったたかむら様です!

 あま(海人)の釣り舟については折口信夫が「貴種流離譚」として
 海人という部民の仕事として、海の幸を貢ぐほかに、 
 田舎に流れて来た「貴人」を、そこで守り育てて成長させる、というものがあった、と書いているそうです。

 てなわけで、この歌は小野篁の贖罪(返り咲き)のために用意された言葉たちをちりばめた、スピリチュアルな歌なんだそうです。

 貴種流離といえば、源氏物語の須磨明石です。
 源氏に京の女君たちが送る歌に、「海人」が読み込まれており、「あま」という言葉に源氏の罪を払う役割を、させているのだそうな。

 ちなみに須磨はまだ京の勢力が及ぶところであり、明石はそのバリアの外の異郷だったそうで、であるからこそ、源氏は妻を得て子も為すことができたのだそうです。
 地理にも詳しい紫式部さんです!

 とにかく、たかむら様は時の朝廷の命に背いたために流罪になったにもかかわらず、2、3年後にはめでたく復活!しかも勅撰和歌集に名前で載っているという。罪に甘い平安の日本人!

2011年6月21日
 今日は古今和歌集の日でした。前回に続き小野篁の
*わたのはら八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまの釣り舟

 今回は「釣り舟」について。
 天孫降臨の折りに、出雲の国はアンチ高天原だった。
 そこで出雲の国のトップ「オオナムチ」に、国譲りを要求すると、オオナムチは承諾するが、息子の事代主に意見を聞いてからにしてほしいと言います。
 事代主は「釣魚するをもってわざとす」なのです。

 事は日本語の持っている言葉の力、服従しないかと言われて言葉をもって答えます。
 釣りは、自分の存在をかけての占いで、国を譲ってよいものかと占う意味を持つ。流人となる篁の壮大なる思いあふれる歌らしい。

 日本に仮名ができ、漢字と仮名のせめぎあいの頃に、小野篁は漢詩を作り、また同じテーマで和歌も作りました。
 隠岐の島に流される自分の境遇を嘆く漢詩が和漢朗詠集にあります。

 渡口郵船風定出  郵便船は出発の風を待っている
 波頭諦處日晴看  自分がこれから流される島は晴れていれば見える

 漢詩は叙景。
 和歌は漢詩より心のひだにすっと入ってくる。

 もう一つ、隠岐の島でのうた
*思ひきやひなの別れに衰へてあまの縄たきいさりせんとは

 小野篁は、沢山の逸話が残っているが、「篁物語」というものもあるそうです。上巻は源氏物語より少し前に成立か。

 ストーリーは、科挙の試験を受けるために一心に勉強していた篁。腹違いの妹が内侍になるために(この職につくには女性でも漢詩の素養が必要とされた)父は兄の篁を家庭教師にした。
 しかし妹は篁に恋をするようになり、父の怒りをかい、離ればなれに。そののち妹は死に、幽霊になって篁の所に出て来るようになる、、、。

 さて、8月の22,23日の地蔵の盆。
 6地蔵というのは篁の作と言われるものが多いそうです。
 京阪電車の六地蔵は伏見大善寺。
 六波羅蜜寺、珍皇寺も。

 小野篁は,他にもえんま様に次ぐ地獄のナンバー2。星の化身でもあります。
 そして、わが小野町子、じゃなかった、小野小町の祖父でもあると言われております。そうそう、三蹟の小野道風もお孫さまなんですよ!


 



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