柳絮とぶ その3 朝吹龍一朗
柳絮とぶ その3 朝吹龍一朗 実はタキシードの時に着るワイシャツの着方や蝶ネクタイの結び方なんてぼくは全然知らない。まごまごしていると、着付けを終わった彼女がさっきまでとはまるで別人のような態度で世話をやき始めた。「朱鷺哉(ときや)さん、わたしが、結んで差し上げます。背をのばして、両手を少し前へ、そう、その姿勢で着付けると動き回っても型崩れしません」 ぼくの父親が東京勤務だったときに、ぼくは生まれた。だから、トキオ、トキヤ、と名付けたのだという。朱鷺が鳥の名前だったことから、小さい頃はいつも恥ずかしい思いをしていた。でもどこかのお姫様のような彼女にそう呼ばれると、満更でもない気がしてくる。もちろん、彼女がそう呼ぶときは、特別の場合に限られる。たとえばベッドの上にいる時とか。 二人揃って、もちろんぼくが彼女の手を取って、万平ホテルの正面階段を降りていくと、コンシェルジェが小走りに寄ってくる。外には既にタクシーが待っていて、和服の彼女を左から乗せ、僕が右から滑り込む。ほんの5分で着いたのは、日本語にすれば「1階」というほどの名前の、別荘みたいなイタリアンレストランだった。 貸し切りにしたその店の料理は実はあまり高価ではないそうだが、二人だけにしたぶんだけ、たぶん相当の出費になったはずだ。味は、もしかすると丸ビルのイタリアンよりおいしいかも知れない。「彼が死んだとき、わたしなりのバケットリストを作ったんです」 彼女は、『主人』と言わなかった。初めてかもしれない。でもそれは置いておこう。 それより、『バケットリスト』って、何だ?「死ぬ前にやっておきたいことのリストのこと。バケットって、棺桶のことですよ」 かんおけ、という語彙はぼくの人生の中で初登場だった。祖父祖母はぼくがものごころつく前に身罷っていたので葬儀の記憶がない。逆にぼくが半世紀近くも年上の女性と付き合っているなんて知らないに決まっているぼくの父親も母親も、幸いなことにまだ健在だ。「バケットリスト、ね。何が書いてあるの?」「ジャガーを乗り回すことでしょ、振袖をもう一回着ることでしょ、軽井沢でおいしいイタリアンを食べることでしょ、不倫することでしょ」「もう不倫じゃないよね」「そう、かも」「だって、『かれ』って」 死んじゃったじゃない、という言葉を辛うじて飲み込んだ。「そう、ね、朱鷺哉さん、でも、わたしの恋人になっていただくには、ちょっと、わたしが、おばあちゃん過ぎますしね」「不倫と思えば不倫だし、そうじゃなきゃ、そうじゃないさ、きれい、だしね」 ぼくは支離滅裂な答え方をした。「わたし、メナポーズ(menopause)が早かったんです。50くらいだったかな。だから老後がすごく長い気がして。たぶん彼は全く気がつかなかったでしょうけど」「ぼくなんか始まったばっかりだったりして」「あは、男の人にはありませんのよ」「男性ホルモンの低下はゆっくりだからね、たしかに男は気がつかないことが多いかもしれないね」 二人で2本のワインが空になった。ほとんどはぼくが飲んだのだが、彼女も珍しく杯を重ねてくれた。帰りのタクシーに乗せるのにちょっと手間取ったくらいだ。万平ホテルに戻るとドアボーイに氷を運ぶように言いつける。彼女の気配りは徹底している。注文が早いから、千鳥足で部屋に着くころには後ろにボーイが大きなボウルに透き通った氷を山盛りにして待機していた。「朱鷺哉さん、わたしを対等に扱ってくださいました」 氷を置いて出て行こうとするボーイにいつの間にか取り出した大きめのコインを握らせると、ドアを後ろ手に閉め、ゆっくりとぼくに近づきながら声をかけてきた。 ぼくは黙って窓際のソファに腰をおろした。「世界が、ひろがりました。知ってることを、惜しげもなく、教えてくださる。どうせわからないくせに、とか、見下さない」 なんだか話の向きがぼくを誉める方に行きそうなのでちょっと気になった。「だって、人生の後輩として先輩を尊敬しなきゃ」 ぼくはおどけて言ったが、まじめなトーン、彼女にしては余裕のない、いささか切羽詰まったような声に乗って答えが返ってきた。「肝臓がんでね、5年くらいはって医者から言われてぞっとしました、文字通り。だからね、虎ノ門病院の個室にせっせと運んだんです」 ぼくをまっすぐ見ている。彼女は大きな姿見のついた机に向って半座りになり、上半身をぼくの方に向けてからだをひねっている。贅肉がないね、とお世辞を言うと決まって、肉も脂肪もそげ落ちちゃっただけよ、と笑っていたのを思い出す。きっと、何を病室に運んだか、ぼくに想像しろと迫っているのだろうが、完全にぼくは思考停止している。ぼけ老人のように彼女を見つめたまま黙っている。「お酒とかね、求肥とかね。薬が効かなくなるようにとか、のどに詰まるようにとか、死期がわざと早まるようにってね、願いながら」 彼女はぼくを見つめる視線を落とした。肩ががっくりと下がったように見える。「若くないお医者だったんですが、『お気を落とさずに、残りの時間を有意義に過ごさせてあげてください』って。わたしが気落ちしている理由を間違って、まるで反対に受け取って。その誤解はそのまま放って置きましたけど」 のどにセロファンが張り付いたようで、ぼくは声が出ないどころか、息もできないくらいだった。でも、彼女から視線を外さずに、ただし焦点が合わないまま、ぼくは彼女がいる『方向』を見ていた。デスクの照明が逆光になっているのだが、彼女の頬はたしかに青ざめている。 やがて小さく咳払いをしてから、なんとなく整理をつける感じを漂わせて彼女が言った。「わたし、彼を葬ったんです、朱鷺哉さんのために、そしてわたし自身のために」『葬った』、というのが、『殺した』という意味に聞こえた。 長い沈黙が続いた。普段なら、風が通ったね、とか気の利いたことを言ってもいいのだが、とてもそんな科白を吐く雰囲気ではない。水が過冷却になって、やがて凍り始めるくらいねっとりとしてくるように、だんだん空気の粘性が上がって、二人とも身動きが取れなくなってきたような気がする。気分を変えたのは、彼女の言葉だった。立ち上がってぼくの方に来た。衣ずれの音がする。「ところで、ベニバナ栃の木の花に気がついたときが、わたしの不倫の始まり?」 これでぼくは正気に戻った。そして、すべてを受け入れる踏ん切りがついた、彼を殺したというのは絶対嘘だし、だけどぼくと彼女のためには準備されていた偶然だったに違いないと解釈することにした。だから、いつものぼくのペースに戻って、すこし韜晦してみた。「いや、あの花はぼく。ぼくが、ぼくに気がついたのが、あの時のような気がする」 彼女はこのくらいの目くらましには乗ってこない。ただ自分が聞きたいことを、しかも遠まわしに、遠慮せず、聞いてくる。いくつかのやり取りのあと、彼女が言った。「イタリアンに凝ったのは?」 別にイタリアなんてどうでもいいのだが、ぼくはとうとう逃げ回る余地を失った気がした。だから、ソファから体を起して正直に答えた。「愛情、だよ、きみの。志乃、残念かもしれないけど、もう、不倫じゃないから、きみのバケットリストの一つは達成できず、だな。その代り、ぼくとの、恋、ね」「わかりました。あきらめましょう、その項目は。もう、朱鷺哉さん以外は考えられないから、もう、朱鷺哉さん以外の人と不倫は、できませんから」 彼女は、志乃は、ぼくの目の前で馬鹿みたいに涙をためている。「で、そのほかには何がリストに載ってるのかな」 わざと皮肉っぽく、ぼくの肩よりちょっと大きいくらいしかない志乃をそっと抱き取って言った。こんなとき、涙なんて見たくない。 志乃は、何もいわずに体を離すと、帯を解き始めた。予想と違って、詰め物類はボロボロとはこぼれ落ちなかった。すべて計算済みの志乃の手にきちんと回収され、テーブルの上に行儀よく並べられていった。気がつかないほど手際よく消された薄暗い照明の下で、すべすべした白い肌が露わになる。バカな想像をした。志乃は、柳絮の化身かもしれないと思った。 ぼくは、志乃がタキシードを脱がせてくれるのを待っている。バケットリストの残りを想像しながら。 柳絮とぶ 完注:menopause『閉経』のこと人気blogランキング投票よろしく 今日はどのへん?。