父と朝鮮。
最初、「謎の朝鮮」とタイトルをつけたんだけど、勘違いして読み出す人がいたら申し訳ないのでやめました。でも、実際、子どもにすれば、謎なのである。別に機密事項じゃないだろうから、書いても支障はなかろうが、今さらながら不思議。 なんで父が戦後、北朝鮮に、韓国じゃなく、北朝鮮に行ったのか。 いや、なんで、って、まあ仕事なんですが。 戦時中から技術屋だった父は、戦後もそのまま技術屋だった。子どもの頃、図面やら模型みたいな不思議なもんやら、時々持ち帰っていたのは覚えている。訊くと、「おもちゃ」と父は言った。 そんな人だから、具体的に何やってたのか知らんまま死なれてしまったわけだが、線路に関わることだったのは確かだ。勤め先も,当時の国鉄。 ちょこちょこ聞いたとこからすると、 よく電車のアナウンスで、「信号機故障のため電車遅れまして」とか言いますが、あの信号の設計技師だったらしい。 右肩上がりの時代で、線路も新しいのをバンバン開設してたんだろう、やたら転勤が多かった。我々はどさ回りと言っていた。(だから、どこで生まれたんですか、とか、どこの出身ですか、とか訊ねられると、果たしてどう答えるのが正しいのかよくわからない) 単身赴任もたびたびあった。海外赴任というと一瞬聞こえはいいが、みんなからわっと羨ましがられるような地域は、なかった。要するに、これから線路を敷設しようという国のお手伝いだか何だかに行ってたらしいのである。つまりは第三諸国というのか、発展途上国(という表現を今も使うの?)というのか。 ということは、世界一早く電車を走らせたイギリスなんぞに飛ばされるはずはないのである。 私が小学校3年くらいの頃に初の赴任。行き先はフィリピン。1年くらい帰ってこなかった気がする。一時帰国のとき、空港に迎えにいった。ぎょっとするほど痩せていたのを覚えている。「あれはきっとコレラか赤痢になっていたのだ」と、後年ひそかに我々は言ったもんです。 肌もすっかり焼けていた。元はわりと白かったのが痩せて黒くなり、さらには、もともと目が大きい方だったから、目がぎょろっとして見えて、ほとんど現地のフィリピン人と遜色なし。 その数年後に北朝鮮。その次が中国。今の爆買い中国人など想像不可能な時代の中国である。凄いラインアップではないか。よく行ったなあ… と、今なら(今になって)思う。 父は別に熱血サラリーマンじゃなかったと思う。でも行けと言われたら行くのが当時の人だったんだろう。 当時はまだ子どもだったし… いや、北朝鮮のときは既に中学か高校だったはずだ。情報時代の今の青少年ならあり得ないかもしれないが、「北朝鮮」と聞いてぎょっとした記憶もない… が、今になって怖い。 それにしても、母は不安じゃなかったんだろうか。それとも当時は大人も危機感なかったのか?…そんなことないように思うけど…妻なら、「お願いですからやめてください」とか、懇願したり、しないものか。…しないのかな。 わたしは妻になったことないが、とりあえず相手がだんなじゃなくても、不安にはなると思う。遠い外国ってだけで不安なのに。だが、あの母なら、「仕方ない」でさっさと諦めそうな…。 フィリピンの場合もそうだったらしいが、北朝鮮の場合も、新たに線路を引きましょう、というプロジェクトがあったらしい。その結果が今どうなってるんだか、知りたいもんだが…それが国家的プロジェクトを超えて、「国際支援」プロジェクトになった…?全世界で北朝鮮を助けましょう、ということになったのか? …なんで? ただでさえ歴史に疎い人間には、そんな裏の(表かもしれないが)事情などわかるわけもないのだった。 その「線路引いてあげましょう」計画には、いろんな国(と言っても、実は偏りがあったのだろうが)から技術者が来ていたようなことを、父はたまに言っていた。 とはいえ覚えているエピソードといえば、「ヨーロッパ人はきっちり割り勘にする」(この「ヨーロッパ」にどの国が入ってるかも定かではない)ということくらい。あと覚えているのは、どこに行くにも誰かついてきて、行く場所も決められたところだけ、という話。「ほんとにそーなんだ」と、改めて今思う。 戦地からと同様、無事に父は帰ってきた。お土産の中に、写真集というか図版というか、とても立派な本があった。表紙にはあの有名な銅像。お父上の方ですね。いや、祖父? (やれやれ…)どういうわけか、「チョンリマチョソンの復興計画」というタイトルで私のアタマには記憶されている。理由は不明。この本もどこに行ってしまったのかわからない。非情な母の手によって捨てられたのかもしれん。 今年の夏に父の実家へ行った時、父の軍隊手帳と一緒に出て来たと渡されたのが、フィリピン赴任当時の父の手紙。父の父、つまり私の祖父宛である。 タイプライターで書いたらしい宛名の横に、日本語も添えてある。父はきちんとした字を書く人で、文章もなかなか上手かった(それに対して、母の字は下手で…。文章も…まあちょっと… うーむ、子どもは混ざってしまった)。二枚の便箋に、几帳面に綴られていて、さすが昔の人、「拝啓」で始まり、「敬具」と「父上様」で締められている。 現地に着いてすぐ出したらしいが、「食事は高くてまずい」とか書いてある。現地の一般人は「気候に恵まれているせいか、よくもまあと思われる程のんびりしているか、又遊んでおり」、「お話好きで タクシーに乗っても知らない客にペラペラ話しかけてくるのには感心」する、ものの、未だに対日感情はよくないようだ、とある。 「フィリッピン」(父は「ッ」を入れていた)の官庁は、昔から週5日制で、祭日が休日と重なるときは「祭日を別の日に振替える程の念の入れよう」と書かれているのがおかしかった。今の日本は、それ以上の念の入れよう。その後の日本がこうなるとは、父には想像できなかっただろう。 もうひとつ笑えたのは、宿泊先のホテルの名前がATAMI HOTELとあったことだ。熱海??これも日本占領の名残だったんだろうか。 それにしても、 もっと色々聞いておけばよかった。愚痴のひとつも、ほんとは、こぼしたかったんじゃないんだろうか。 いろんなことを、あとから気づく。 まあね、人生、そんなもんだよね。