「困難な成熟」のメッセージ。
まったくだ…と呟くしかない私でありますが… いやほんと、成熟、ってのは、難しく……という話ではなくて、これは本のタイトルです。相変わらずタイトルうまいですよね。内田樹先生の本。ほんとに話があっちこっち飛びまくって、読んでくださる奇特な友だちの皆さまにはまったくもって申し訳ないのでありますが、そもそもブログ再開の勢いをつけてくれたのはこの本だったのだ。(再開のたびに言い訳してるような気がするが、きっかけがないと、やはり、出て行けないのだ。そして出て行けば倒れる…のも、毎度のことだったりする)ともかく、今回も金言ざくざくです。なるほどそうか、と思う。すとんと腑に落ちる。鱗も落ちる。きちんとした書評とか賞賛とか、そういうのはAmazonその他あちこちで読めるだろうから、ここで無駄なことを書くのはやめて、あくまで私的に、さらに私的関心のひとつだけ(私的にヒットする部分はたくさんあったんだけれども、いちいち書いてるとまた倒れて息絶えるので…)。 「メッセージ」です。「目に映るすべてのことはメッセージ」。なつかしユーミンです。これがそもそも“返礼義務”につながるのだという。「誰もメッセージなんか送っていない」けど、勝手に受け取る。ユーミンが「勝手に」メッセージを受け取って、その「お返し」に歌を作って、それを聴いた人たちはユーミンに感謝の思いを抱いて、そこで“返礼義務”が生じた。内田先生はとりあえずアルバムを買い、そして「35年くらい経って……『あれはいいね』という文章を書いている」。「そういうことです。」と。そういうことか! ”贈与に対する反対給付”と言われると、「???」となるけれど、つまりは、そういうことだ。「お返しせねば」と感じることは、人生、多々、ある。「でも、何を返せば?」となることも、多々、ある。何より、無形の“贈与”に対して。”返礼”と身構えなくてもいい。なんかそれっていいな、と、思う。いいなあと思ったから、私も書く気になったのでした。まず内田先生にお礼を申し上げねばならん。内田先生の本、かつて表紙イラストとタイトルで衝動買いした『子どもは判ってくれない』。あの本にも救われた(大げさだけど、その時はそんな気分になったのだ)。それも勝手にお礼。そう、勝手にここで、他の人にもお礼を言おう、と思ったのだ。そもそも、私の周りの“偉い”(むろん肩書じゃなくて)人たちにパチパチしようと書きはじめたネタがそのままじゃないか、と、いきなり勝手に気張ったのだった。 ところが、気張って下書きを見てみたら、(あ、そう言えば、これも書きかけ…)と、目移りしてまた収拾つかなくなってしまった訳で… さらには、出かけるたび何かしか感心して帰ってくるから記憶の上書きもキリがない(昨日だって、ほんとはね…いやいや)。引き戻して本題、と思ったら事実関係を間違えた。訂正とお詫びの早さは近頃の朝日新聞並みである。まだへこんでるんです実は。いや、だからいったん本に話を戻すけれど、返礼の相手は、贈与元でなくていい。これに関して、思い出したことがある(いちいち思い出すな、というツッコミもありましょうが…)。この”贈与のサイクル”を、もう10年以上前だけど、教えてくれた人がいたのだ。少しの間、よその国にいた時に、ある人にとてもお世話になった。いよいよ帰らねばというとき、「いつかご恩返しをせねば」みたいなことを私は言ったのです。するとその人が、「私に返さなくていいのよ」と言ったのだ。「そういう機会が来たら、その誰かにしてあげればいい」と(正確な表現は違うかもしれないけど、とにかくそういう意味合いのこと)。 未だにあのときの、何だろう、はっとした気分を覚えている。凄い。と思った。 同じことがこの本に書かれていた。「パスを受け取ったら次のプレイヤーにパスを回す」。私はボールを抱えたままだけど… そのボールの数もどんどん増えてる気がするんだけど。”すべてのものに”、”勝手にメッセージを受け取って”、”挨拶を返さなくてはと思う”と、何かを教えてくれた人はみんな、何かを与えてくれたことになる。莫大な額の贈与。私は相当に裕福だ。富裕層としては、分け与えなければいけない。結構焦るのである。私、もうそんなに時間残ってませんから。裕福だが成熟していないので、時間を上手く使えないのだ。無精者、ただひたすらに感謝いたしておりますです。なんという締めだ… と思うが、ここでまた伸ばすと、ね。物質的には貧乏だから、仕事もせねばいかんしね。つーか、働きに出ないといかんのではないか私? この項は、はい、大丈夫です、続きません。