|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
アズアバード [全5364件]
鎮台(ちんだい)は、1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで置かれた日本陸軍の編成単位である。常設されるものとしては最大の部隊単位であった。兵制としては御親兵の後を継ぐもので、鎮台の設置とその後の徴兵制実施をもって日本の近代陸軍の始まりとする。師団への改組で廃止された。 目次 [非表示] 1 概要 1.1 略史 1.2 歴史 2 各鎮台歴代幹部 2.1 仙台鎮台 2.1.1 東北鎮台司令長官 2.1.2 仙台鎮台司令長官 2.1.3 仙台鎮台司令官 2.1.4 参謀長 2.2 東京鎮台 2.2.1 司令長官 2.2.2 司令官 2.2.3 参謀長 2.3 名古屋鎮台 2.3.1 司令長官 2.3.2 司令官 2.3.3 参謀長 2.4 大阪鎮台 2.4.1 司令長官 2.4.2 司令官 2.4.3 参謀長 2.5 広島鎮台 2.5.1 司令長官 2.5.2 司令官 2.5.3 参謀長 2.6 熊本鎮台 2.6.1 鎮西鎮台司令長官 2.6.2 熊本鎮台司令長官 2.6.3 熊本鎮台司令官 2.6.4 参謀長 2.6.5 参謀副長 3 脚注 4 関連項目 5 参考文献 概要 [編集] 略史 [編集] 慶応4年(明治元年)2月20日(1868年3月13日) - 明治政府直属の軍隊として御親兵を創設。 明治4年4月23日(1871年6月10日) - 東山道鎮台(本営石巻、分営福島・盛岡)、西海道鎮台(本営小倉、分営博多・日田)設置[1]。 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県。これにより、全国が明治政府の直轄となる。 明治4年8月20日(1871年10月4日) - 東山道鎮台、西海道鎮台を廃止。東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台を置く[1]。 明治5年4月1日(1872年5月7日) - 鎮西鎮台が熊本鎮台に改称。 明治6年(1873年)1月9日 - 名古屋鎮台、広島鎮台を設置して、6鎮台制をしく[1]。東北鎮台を仙台鎮台に改称。 明治6年(1873年)1月10日 - 徴兵令施行 明治12年(1879年)9月 - 鎮台司令長官の呼称を鎮台司令官に変更。 明治21年(1888年)5月12日 - 鎮台を廃し、師団に改組。 ※旧暦は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで使用された。 歴史 [編集] 鎮台はフランス陸軍に範をとった陸軍編成である。当初日本における陸軍の役割は、外征ではなく、戊辰戦争後の国内の治安維持であった。そのため、平時の編成としては鎮台のみ置くこととして、戦時には機動性に欠ける鎮台を旅団(明治18年以降は師団)に臨時改組することにした。 まず、太政官が将来全国に鎮台を置くことを明らかにした上で、1871年6月10日(明治4年4月23日)に現在の東北地方に東山道鎮台(本営石巻、分営福島・盛岡)、現在の九州地方に西海道鎮台(本営小倉、分営博多・日田)の2鎮台を設置することを布告した[1]。しかし、実際に部隊編成を行ったのは西海道鎮台のみであった[1]。同年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により全国が明治政府の直轄となったが、同時に兵部省職員令が出され、北海道・石巻・東京・大阪・小倉の5鎮台制の構想が示された[1]。しかし、他の地方と比べ人口が極端に少ない北海道では鎮台の設置が後回しとなった。結果、同年10月4日(明治4年8月20日)に旧2鎮台を廃止し、東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台が設置された[1]。このときの鎮台は、御親兵から転じた者と、士族からの志願者で編成された。残る各藩常備兵は武装解除されることになる[1]。 1873年に2つの鎮台が増設され、北海道を除く地域を、6軍管区、14師管区に分けた。軍管区には鎮台、師団管区には営所が置かれた。新たに設けられたのは名古屋鎮台と広島鎮台で、大阪鎮台から北陸地方が名古屋鎮台に、中国・四国地方が広島鎮台にそれぞれ移管された。この年徴兵令施行とともに、徴兵された兵士が鎮台に入隊するようになった。北海道には徴兵令が施行されず、かわりに屯田兵が置かれた。 徴兵の比率はしだいに高くなったが、士族中心の軍隊から急激に変化したわけではない。鎮台時代最大の戦争だった西南戦争では、正規の鎮台兵に加えて近衛兵、屯田兵、警察巡査、追加募集の兵が士族出身兵として加わり、あわせて士族が官軍将兵の半数を占めた。 各鎮台歴代幹部 [編集] 明治12年9月24日から司令長官を司令官と改称 明治21年5月14日から各鎮台を師団に改編 仙台鎮台 [編集] 東北鎮台司令長官 [編集] (欠員):明治4年8月8日 - 明治5年3月23日 三好重臣 大佐:明治5年3月23日 - 明治6年1月9日 仙台鎮台司令長官 [編集] (明治6年1月9日仙台鎮台と改称) 三好重臣 大佐:明治6年1月9日 - 明治7年8月20日 (代理)堀尾晴義 中佐:明治7年9月18日 - 明治11年9月12日 (代理)福原実 大佐:明治11年9月12日 - 明治11年11月20日 福原実 少将:明治11年11月20日 - 明治12年10月8日 (欠員):明治12年10月8日 - 明治13年4月29日 仙台鎮台司令官 [編集] 四条隆謌 少将:明治13年4月29日 - 明治14年2月7日 佐久間左馬太 少将:明治14年2月7日 - 明治18年5月21日 曾我祐準 中将:明治18年5月21日 - 明治19年3月16日 佐久間左馬太 中将:明治19年3月16日 - 明治21年5月12日(明治21年5月14日第2師団長) 参謀長 [編集] 堀尾晴義 中佐:明治7年8月28日 - 明治7年9月18日 福原実 大佐:明治11年9月14日 - 明治11年11月22日 長屋重名 中佐:明治11年12月17日 - 明治14年1月22日 川上操六 中佐:明治14年1月22日 - 明治15年2月 大沼渉 大佐:明治15年3月9日 - 明治18年5月21日 (心得)大島義昌 中佐:明治18年5月21日 - 明治19年3月 高島信茂 大佐:明治19年3月19日 - 明治21年5月 東京鎮台 [編集] 司令長官 [編集] 三浦梧楼 少将:明治4年12月14日 - 明治6年7月7日 山田顕義 少将:明治6年7月7日 - 明治6年11月24日 種田政明 少将:明治6年11月29日 - 明治9年6月13日 野津鎮雄 少将:明治9年6月13日 - 明治10年2月27日 (代理)大山巌 少将:明治10年2月19日 - 明治10年2月24日 (代理)曾我祐準 少将:明治10年2月24日 - 明治10年3月16日(陸軍士官学校長の兼任) (代理)小松宮彰仁親王 少将:明治10年3月16日 - 明治10年5月29日 (欠員):明治10年5月29日 - 明治11年12月14日 野津道貫 少将:明治11年12月14日 - 明治12年9月24日 司令官 [編集] 野津道貫 少将:明治12年9月24日 - 明治18年5月21日 (代理)北白川宮能久親王 少将:明治17年11月19日 - 明治18年5月21日 三浦梧楼 中将:明治18年5月21日 - 明治19年7月26日 三好重臣 中将:明治19年7月26日 - 明治21年5月12日(明治21年5月14日第1師団長) 参謀長 [編集] 岡沢精 中佐:明治11年12月14日 - 明治16年2月7日 乃木希典 中佐:明治16年2月7日 - 明治18年5月21日 山口素臣 大佐:明治18年5月21日 - 明治19年5月 西寛二郎 大佐:明治19年5月27日 - 明治20年6月 大島義昌 大佐:明治20年6月15日 - 明治21年5月 名古屋鎮台 [編集] 司令長官 [編集] (御用取計)野崎貞澄 中佐:明治6年4月15日 - 明治6年11月24日 (心得)揖斐章 大佐:明治6年11月24日 - 明治7年4月12日 四条隆謌 少将:明治7年4月12日 - 明治12年9月24日 司令官 [編集] 四条隆謌 少将:明治12年9月24日 - 明治13年4月29日 揖斐章 少将:明治13年4月29日 - 明治14年10月26日死去 (欠員):明治14年10月26日 - 明治15年2月6日 滋野清彦 少将:明治15年2月6日 - 明治18年5月21日 黒川通軌 中将:明治18年5月21日 - 明治21年5月12日(明治21年5月14日第3師団長) 参謀長 [編集] 揖斐章 大佐:明治7年4月17日 - 明治7年9月4日 長屋重名 中佐:明治7年9月4日 - 明治11年12月17日 山川浩 中佐:明治11年12月14日 - 明治15年3月9日 西寛二郎 大佐:明治15年3月9日 - 明治19年5月 阪元純熈 大佐:明治19年4月23日 - 明治21年5月14日(同日、第3師団参謀長) 大阪鎮台 [編集] 司令長官 [編集] (欠員):明治4年8月8日 - 明治5年1月29日 四条隆謌 少将:明治5年1月29日 - 明治7年4月12日 鳥尾小弥太 少将:明治7年4月12日 - 明治7年8月20日 三好重臣 少将:明治7年8月20日 - 明治12年9月25日 (代理)四条隆謌 少将:明治10年5月4日 - 明治10年10月2日(名古屋鎮台司令長官からの兼任。) 司令官 [編集] 三好重臣 少将:明治12年9月25日 - 明治13年4月29日 曾我祐準 少将:明治13年4月29日 - 明治14年2月9日 高島鞆之助 少将:明治14年2月9日 - 明治15年2月6日 山地元治 少将:明治15年2月6日 - 明治18年5月21日 高嶋鞆之助 中将:明治18年5月21日 - 明治21年5月12日(明治21年5月14日第4師団長) 参謀長 [編集] 揖斐章 大佐:明治7年9月14日 - 明治10年2月25日 高島信茂 中佐:明治12年2月7日 - 明治13年5月4日 土屋可成 大佐:明治13年5月14日 - 明治14年2月19日 小川又次 中佐:明治14年2月19日 - 明治15年3月9日 長谷川好道 大佐:明治15年3月9日 - 明治16年2月17日 茨木惟昭 大佐:明治16年2月19日 - 明治18年5月21日 山根信成 大佐:明治19年5月27日 - 明治21年5月12日(明治21年5月14日第4師団参謀長) 広島鎮台 [編集] 司令長官 [編集] (御用取計)品川氏章 中佐:明治6年4月13日 - 明治6年11月 (心得)高橋勝政 大佐:明治6年11月17日 - 明治7年2月8日 井田譲 少将:明治7年2月8日 - 明治7年10月30日 (心得)高橋勝政 大佐:明治7年11月10日 - 明治9年10月26日 三浦梧楼 少将:明治9年10月26日 - 明治11年12月14日 井田譲 少将:明治11年12月14日 - 明治12年9月25日 司令官 [編集] 井田譲 少将:明治12年9月25日 - 明治13年3月8日 黒川通軌 少将:明治13年4月29日 - 明治15年2月6日 野崎貞澄 少将:明治15年2月6日 - 明治18年5月21日 野津道貫 中将:明治18年5月21日 - 明治21年5月12日(明治21年5月14日第5師団長) 参謀長 [編集] 高橋勝政 大佐:明治7年2月8日 - 明治7年11月10日 (欠員):明治9年11月24日 - 明治10年1月18日 中村重遠 中佐:明治10年1月18日 - 明治10年3月14日 土屋可成 大佐:明治11年11月18日 - 明治13年4月20日 国司順正 大佐:明治13年4月30日 - 明治14年1月26日 長谷川好道 大佐:明治14年1月26日 - 明治15年3月7日 小川又次 中佐:明治15年3月7日 - 明治17年10月 (心得)青山朗 中佐:明治18年6月1日 - 明治20年11月17日(1886.4.23大佐) 塩屋方圀 大佐:明治20年11月17日 - 明治21年5月14日(同日、第5師団参謀長) 熊本鎮台 [編集] 鎮西鎮台司令長官 [編集] 井田譲 少将:明治4年7月14日 - 明治5年2月29日 桐野利秋 少将:明治5年2月29日 - 明治5年4月14日 熊本鎮台司令長官 [編集] (明治6年1月9日熊本鎮台と改称) 桐野利秋 少将:明治5年4月14日 - 明治6年4月5日 谷干城 少将:明治6年4月5日 - 明治7年4月5日 (代理・兼務)野津鎮雄 少将:明治7年4月12日 - 明治7年11月27日(陸軍省第4局長の兼任) (代理)野津鎮雄 少将:明治7年11月27日 - 明治8年6月23日 野津鎮雄 少将:明治8年6月23日 - 明治9年6月13日 種田政明 少将:明治9年6月13日 - 明治9年10月24日 (兼務)大山巌 少将:明治9年10月29日 - 明治9年11月9日(陸軍少輔兼第1局長の兼任) 谷干城 少将:明治9年11月9日 - 明治11年12月14日 曾我祐準 少将:明治11年12月14日 - 明治12年9月25日
ロンドン(ロイター) - 精神疾患の診断に役立つことを意図した最新版マニュアルは、意見の分かれる2診断を除外して多少修正されたものの、さらなる改訂のために最低1年間は棚上げすべきである、と多くの精神科医は考えている。 Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders(DSM 5)の最新版は今月発表される予定であり、これは1994年版ハンドブックの最初の全面改訂版である。 しかし、全世界の13,000人を超える医療従事者はDSM 5の中止と再考を求める公開嘆願書(dsm5-reform.com)に既に署名している。 「根本的に、依然悪しきシステムのままである」とBritain's Liverpool Universityの臨床心理学教授であるPeter Kindermanは述べた。 「非常に軽微な改訂であり、必要とされる大規模な改訂を構成するものではない」と同教授は電子メールのコメントに記した。 「微弱精神病症候群」および「混合性不安抑うつ障害」に関する2つの診断を撤回することを決定した、とDSMを作成したAmerican Psychiatric Association(APA)は水曜日に述べた。 前者は精神病顕在発症リスクにある人の特定に役立つことを意図したものであり、後者は不安とうつの混合を提案したものであったが、ともにあまりにも曖昧であるとして批判されてきた。 これらと「反抗挑戦性障害」や「無気力症」など他の新たな診断により、DSM 5案では非常に多くの健常者を精神障害者と定義することになる可能性がある、と専門家は述べた。これは内気、あるいは反抗的な小児から、悲嘆にくれる血縁者、無害な物に執着をみせる人まで幅がある。 草案の変更、特に微弱精神病の診断に対する変更を見て非常に安心した、とInstitute of Psychiatry at Kings College Londonの精神医学研究部門の教授であるRobin Murrayは述べた。 「医師の考えを想像上の精神病リスクにそらせることにより大きな害を及ぼしたかもしれず、(また)患者には発狂するという不要な不安を与えたかもしれない」と同教授は声明中で述べた。 しかし、「これは是が非でも必要なDSM 5の改訂に向けての最初の小さな一歩でしかない。非常に多くの危険な提案が依然として存在する」とDuke University(ノースカロライナ州)の名誉教授であるAllen Francesは述べた。 DSM 5は「単純に使用には不適切であり」、「独立したレビューを可能にし、不明瞭な文書を削除し、再考するためには」、1年間遅らせるべきである、とDSM 4の監視委員会の委員長を務めたFrancesは補足した。 精神医学では診断は常に意見の分かれるところである。それは、一群の症状に基づいて患者がどのように治療されるかを診断が明らかにしているからであり、症状の多くはいくつかの異なるタイプの精神疾患で発生するためである。 人を所定のカテゴリーにあてはめるよりも、むしろ個々の状況により多くの注意を払うように取り組み方全体を変更する必要がある、と主張する者もいる。 「生活環境に対する理解可能なあらゆる反応を『疾病』として再定義することにそのまま基づくと、(The DSM)は理論的に誤りである。この疾病はその後に製薬業界から大々的に推進された中毒性の薬物療法の標的となる」とCwm Taf Health Board(ウェールズ)の顧問臨床心理学者であるLucy Johnstoneは述べた。 「DSMプロジェクトは理論的にも実践的にも正当化されることはない。精神的苦悩に対応したより人道的で有効な方法を見つけられるように、これは断念しなければならない」 しかし、さらに正確な診断および理論的により適切な治療を可能にするため、マニュアルがより徹底的にレビューされるように後押しする人もいる。 世間の激しい抗議をよそに、DSM 5草稿に生き残った変更案のひとつは自閉症におけるものである。最新版では自閉症スペクトラム障害の包括的診断を支持しており、アスペルガー症候群の相対的に軽度な診断が除外されている。 Experts unconvinced by changes to psychiatric guide Last Updated: 2012-05-10 13:30:19 -0400 (Reuters Health) . By Kate Kelland LONDON (Reuters) - Many psychiatrists believe a new edition of a manual designed to help diagnose mental illness should be shelved for at least a year for further revisions, despite some modifications which eliminated two controversial diagnoses. The new edition of the Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (DSM 5) is due out this month, the first full revision since 1994 of the handbook. But more than 13,000 health professionals from around the world have already signed an open letter petition (at dsm5-reform.com) calling for the DSM 5 to be halted and re-thought. "Fundamentally, it remains a bad system," said Peter Kinderman, a professor of clinical psychology at Britain's Liverpool University. "The very minor revisions... do not constitute the wholesale revision that is called for," he said in an emailed comment. The American Psychiatric Association (APA), which produces the DSM, said on Wednesday it had decided to drop two proposed diagnoses, for "attenuated psychosis syndrome" and "mixed anxiety depressive disorder." The former, intended to help identify people at risk of full-blown psychosis, and the latter, which suggested a blend of anxiety and depression, had been criticized as too ill-defined. With these and other new diagnoses such as "oppositional defiant disorder" and "apathy syndrome," experts said the draft DSM 5 could define as mentally ill millions of healthy people -- ranging from shy or defiant children to grieving relatives, to people with harmless fetishes. Robin Murray, a professor of psychiatric research at the Institute of Psychiatry at Kings College London, said it was a great relief to see the changes in the draft, particularly to the attenuated psychosis diagnosis. "It would have done a lot of harm by diverting doctors into thinking about imagined risk of psychosis (and) it would have led to unnecessary fears among patients that they were about to go mad," he said in a statement. But Allen Frances, emeritus professor at Duke University in North Carolina, said: "This is only a first small step toward desperately needed DSM 5 reform. Numerous dangerous suggestions remain." Frances, who chaired a committee overseeing the DSM 4, added that the DSM 5 "is simply not usable" and should be delayed for a year "to allow for independent review, to clean up its obscure writing, and for retesting." Diagnosis is always controversial in psychiatry, since it defines how patients will be treated based on a cluster of symptoms, many of which occur in several different types of mental illness. Some argue that the whole approach needs to be changed to pay more attention to individual circumstances rather than slotting people into predefined categories. "(The DSM) is wrong in principle, based as it is on redefining a whole range of understandable reactions to life circumstances as 'illnesses,' which then become a target for toxic medications heavily promoted by the pharmaceutical industry," said Lucy Johnstone, a consultant clinical psychologist for the Cwm Taf Health Board in Wales. "The DSM project cannot be justified, in principle or in practice. It must be abandoned so that we can find more humane and effective ways of responding to mental distress." Others, however, are pushing more for the manual to be reviewed more thoroughly to allow for more accurate diagnosis and, in theory, more appropriate treatment. One of the proposed changes that has survived in the draft DSM 5 -- despite fierce public outcry -- is in autism. The new edition eliminates the milder diagnosis of Asperger syndrome in favor of the umbrella diagnosis of autism spectrum disorder
水戸藩における派閥抗争 [編集] 文政12年(1829年)に徳川斉昭が水戸藩第9代藩主となると、その擁立に関わった藤田東湖(藤田幽谷の子)らが登用され、斉昭による藩政改革の担い手となった。これに藩内の保守派は反発し、幕府と結んで弘化元年(1844年)5月に斉昭を失脚させた。斉昭はその後謹慎を解かれ、第10代藩主徳川慶篤の後見として復権するが、この間に藩内の保守派と改革派の対立は激化の一途を辿った。 嘉永6年(1853年)の黒船来航を期に斉昭が幕府より海防参与を命じられると、水戸藩では軍政改革を中心とした安政改革が進められ、改革派を中心に尊王攘夷派が形成された。尊攘派は勅書返納問題(後述)への対応を巡り、強硬に攘夷を主張する激派と、よりゆるやかな幕政改革を目指す鎮派とに分裂し、ともに保守派(反対派からは姦党などと呼ばれた)と対立した。桜田門外の変を引き起こし、また天狗党の中核となるのがこの激派である。 勅書返納問題 [編集] 幕府による日米修好通商条約調印を不服とする孝明天皇は、安政5年8月8日(1858年9月14日)、水戸藩に対して直接勅書を下賜するという異例の行動に出た(戊午の密勅)。折しも将軍継嗣問題を巡って前藩主徳川斉昭らは、一橋徳川家当主で斉昭の実子でもある一橋慶喜を擁立し(一橋派)、大老井伊直弼と対立していた。井伊は、一橋派の中心人物は斉昭であり、密勅の降下にも彼が関与していたとの疑いを強めた。やがて井伊によって一橋派や尊攘派への大弾圧が開始され(安政の大獄)、水戸藩に対しては、斉昭に永蟄居を命じて再び失脚させ、京都での工作に関わったとみられる藩士に厳しい処分を行った。 先に朝廷より水戸藩に下賜された勅書については幕府への返納が命ぜられるが、これへの対応を巡り、尊攘派は密勅返納に応じようとする鎮派と、あくまで密勅を奉じようとする激派に分裂した。翌年に斉昭らは勅書返納の方針を定めるが、激派の中にはこれに反発して実力行使を企てる者が現れた。高橋多一郎ら水戸浪士は水戸街道の長岡宿(東茨城郡茨城町)に集結し、農民など数百人がこれに合流した。彼らは長岡宿において検問を実施し、江戸への勅書搬入を実力で阻止しようとしたのである。後に「長岡屯集」と呼ばれるこの行動を鎮圧するため藩庁は部隊を派遣するが、斉昭による説得もあって屯集勢力は解散し、武力衝突はかろうじて回避された。 万延元年(1860年)3月3日、高橋ら長岡宿の屯集勢力から、また水戸城下から集結した水戸浪士らは江戸城桜田門外で井伊を暗殺した(桜田門外の変)。8月15日に斉昭が病死すると激派の行動は更に活発となり、第一次東禅寺事件、坂下門外の変などを起こすに至った。 横浜鎖港路線の成立 [編集] 水戸藩尊攘派の活動が再び活発となるのは文久2年(1862年)である。この年、長州藩等の尊攘派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。水戸藩においても、武田耕雲斎ら激派が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。翌文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が朝廷の要求に応じて上洛することとなり、これに先立って将軍後見職に就任していた一橋慶喜が上洛することとなると、一橋徳川家当主で配下の家臣団が少ない慶喜のため、彼の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。水戸藩主徳川慶篤には、武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が追従し、藤田らは京都において、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。 文久3年5月、藤田は一橋慶喜に追従して江戸に戻るが、八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。しかしなお天皇の攘夷の意思は変わらず、政変直前に幕府が表明していた横浜港の鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した。9月、幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉を開始するが、幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、あくまで横浜鎖港を推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じた。このころ諸藩の尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士らが群集することとなった[1]。藤田は長州藩と連携した挙兵計画を構想し、武田の強い慰留にも関わらず、遊説や金策に奔走した[2]。 文久4年(1864年)1月、将軍家茂は老中らとともに前年3月に続く再度の上洛を果たし、参預会議を構成する諸候と幕閣との間で横浜鎖港を巡る交渉が行われた。ここでも一橋慶喜は横浜鎖港に反対する他の参預諸候と対立し、参預会議を解体に追い込んだ。朝廷より禁裏御守衛総督に任命された慶喜は、元治元年(文久4年2月改元、1864年)4月には水戸藩士の原市之進・梅沢孫太郎を家臣に登用し、武田耕雲斎に依頼して200~300名もの水戸藩士を上京させて自己の配下に組みこむなど、水戸藩勢力との提携を深めた。天狗党の挙兵はその最中に勃発したのである。 「天狗党」の名称の由来 [編集] 以下の三通りの説がある。 1.保守派(門閥派)の中には代々名門の家を受け継いできた上級武士が多く、改革派の中には下級武士が多かった。その為、「成り上がり者が調子に乗っている(天狗になっている)」といった侮蔑の意味を込めて保守派が改革派をそう呼んだところから来ているという説。 2.改革派は世直しをするものとして、自らを天狗と称したという説。 3.九代藩主斉昭が、彼らの才覚を賞賛して呼称したという説。 挙兵とその後の経過 [編集] 筑波山挙兵 [編集] 幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤った藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。藤田は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人の同志たちと共に挙兵した。藤田は23歳と若輩であったため、水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将とした。 挙兵の報を聞いた水戸藩目付役の山国兵部は、弟の田丸が主将に担がれていることを知り、藩主徳川慶篤の命を受けて説得に赴くも、逆に諭されて一派に加わることになる。その後、各地から続々と浪士、農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1,400人という大集団へと膨れ上がった。彼らは筑波山で挙兵したことから筑波勢、波山勢などと称された。 彼らは急進的な尊王攘夷思想を有していたが、日光東照宮への攘夷祈願時の激文に「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し」と表明している通り、基本的には敬幕派であり、攘夷の実行も東照宮(徳川家康)の遺訓であると考えていた。また、武田耕雲斎ら藩執行部は問題の解決に苦慮するものの、横浜鎖港という挙兵勢力の方針自体には積極的に同調し、その圧力を背景に幕政への介入を図っていくこととなった[3]。 日光参拝と田中隊の活動 [編集] 藤田小四郎ら筑波勢は、元治元年4月3日(1864年5月8日)に下野国日光(栃木県日光市)へと進んだ。彼らは徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠して攘夷の軍事行動に踏みきる予定であったが、日光奉行・小倉正義の通報を受けた近隣各藩の兵が出動したため、天狗党は慌てて東照宮への参拝が目的であると弁解する。これに対して小倉は10名のみに限って参拝を許すと通告したため、天狗党は代表者数名が参拝を行うと日光から大平山へと移動し、同地に5月末までに滞在した。 一方水戸城下においては、保守派の市川三左衛門が鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、藩内での激派排撃を開始した。これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間に挙兵勢力は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となった。このため筑波勢はまたも近隣の町村の役人や富農・商人らを恫喝して金品を徴発した。とりわけ田中愿蔵により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った栃木(6月5日~6日)・真鍋(6月21日)などの町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成した。 中でも最大の惨劇が展開されたのが栃木であった。6月5日、栃木宿に到着した田中らは、たまたま通りかかった住吉屋の娘・お栄らを殺し、家々に押し入って町民を恫喝し金品を強奪した。駆け付けた栃木陣屋の役人が田中に対してお栄殺害の下手人を差し出すよう命じると、田中は賠償金として150両を支払ったがなおも宿場内に居座り続けたため、陣屋側は急いで武器を調えるとともに近くの猟師達を召集し、町に対しては天狗党が強請に来ても相手にしないよう命じた。同日夜、田中は隊員にあらかじめ松明を用意させると、町に対し軍資金30,000両を差し出せと要求した。町側が5,000両しか出せないと答えると田中は宿場に火を放たせ、さらに火を消そうと集まって来た町民達を手当たり次第に惨殺した。この火災により翌日までに宿場内に限っても237戸が焼失した[4]。 幕府の対応 [編集] 北関東における筑波勢の横行に対し、幕府は将軍徳川家茂が上洛し不在であったこともあり、水戸藩や諸藩に鎮撫を要請するのみで、6月に至るまでこれを放置していた。水戸藩も激派が藩政を握っており、藩主慶篤は幕府が横浜鎖港を実行しない限り筑波山に立て篭る挙兵勢力の鎮撫はできないと主張していた[5]。4月20日、参内した家茂に対して朝廷は横浜鎖港を必ず実行するよう指示し、川越藩主松平直克(政事総裁職)及び慶篤がその実行者に指名された。 こうして、横浜鎖港は幕府にとっても受け入れざるを得ない情勢となったが、一方で老中板倉勝静・牧野忠恭らはこれが筑波挙兵の結果として受け止められることを回避するため、5月、家茂の江戸復帰を機に、水戸藩に対し筑波勢追討を命じた。これに呼応し、市川三左衛門ら諸生党約600人余は江戸に上り、藩主慶篤のいる江戸小石川の水戸藩邸を掌握、激派を藩執行部から更迭するクーデターに成功する。慶篤の変節は筑波勢追討を巡る幕閣内の抗争にも影響を与え[6]、6月、一橋慶喜の意を汲んで横浜鎖港を主張し、筑波勢鎮圧に反対姿勢を示していた直克が失脚し、ようやく筑波勢の鎮圧方針が定まった。7月8日、相良藩主田沼意尊(若年寄)が追討軍総括に任命される。 また、7月19日には筑波勢の決起に意を強くした長州藩尊攘派が武装上洛し、会津藩らと京都市中で交戦した(禁門の変)。これに敗北した長州藩は「朝敵」となり、政局の課題は鎖港実行より長州征伐に重点が移ることとなった。筑波勢は挙兵の名目を半ば見失い、決起は水戸藩の内部抗争の色彩を強めていった[7]。
精忠組 移動: 案内, 検索 精忠組(せいちゅうぐみ)は、幕末の薩摩藩に存在した藩内組織。誠忠組とも。 目次 [非表示] 1 概要 2 構成員 2.1 安政6年時点 2.2 文久2年(大久保の同志姓名録) 3 外部リンク 概要 [編集] 近思録崩れの秩父季保が愛読した『近思録』を輪読する会を西郷吉之介(西郷隆盛)・大久保正助(大久保利通)・長沼嘉兵衛(早世)・有村俊斎(海江田信義)・税所喜三左衛門(税所篤)・吉井仁左衛門(吉井友実)・伊地知竜右衛門(伊地知正治)らが結成し、後にそれが発展したものである。彼ら自身が「精忠組」、「誠忠組」を名乗った事実はなく後世の命名である。 安政の大獄期、僧月照とともに入水した西郷隆盛(蘇生した後、奄美大島潜伏を命じられた)を盟主的存在とし、大久保・堀仲左衛門・岩下方平らが主導した。水戸藩と共同して大老井伊直弼を暗殺し京都への出兵を行おうとする「突出」を計画したが、藩主島津茂久およびその父で後見役の島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫。結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加(桜田門外の変)し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。藩当局の対応に不満を懐く一派はあくまで突出を主張したが、大久保らがそれを抑えた。 久光はその後、精忠組の取り込みを図り、大久保・堀・吉井らを側近として抜擢し、活躍させた。文久2年(1862年)に久光は、精忠組の主張する「突出」に代わり、幕府改革を企図した出兵を実行に移す[1](詳細は文久の改革を参照)。しかし精忠組の中でも有馬新七ら過激派は、真木和泉・清河八郎ら諸国の尊王攘夷派志士らと連携し、孝明天皇奪還計画などに加わり、久光の説諭にも従わなかった。有馬らが集結する旅館寺田屋に向けた久光からの上使として奈良原繁・大山綱良らが最後の説得を行うが、交渉は決裂。精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動が発生した。ここにおいて精忠組の結束は事実上崩壊した。 構成員 [編集] 安政6年時点 [編集] 大島渡海 菊池源吾隆永 在藩 堀仲左衛門貞通 大久保正助利済 有馬新七正義 奈良原喜左衛門清 鈴木勇右衛門重高 樺山三円 山口金之進直秀 高橋新八経満 森山新五左衛門永治 奈良原喜八郎繁 野津七左衛門鎮雄 大山彦助成美 大山角右衛門綱良 山之内一郎時習 野津七次道貫 中原喜十郎 鈴木昌之助 岩下左次右衛門方平 有村俊斎 吉井仁左衛門友実 伊地知竜右衛門正治 税所喜三左衛門篤 中原猶介尚勇 本田弥右衛門親雄 森山棠園 江夏仲左衛門栄享 永山万斎 道島五郎兵衛正邦 坂本喜右衛門 野元林八為清 有村如水 高橋清右衛門 鈴木源右衛門 西郷竜庵 在江戸 有村雄助兼武 山口三斎 高崎猪太郎友愛 有村次左衛門兼清 田中直之進盛明 益山東碩 旅行 仁礼源之丞景範 鵜木孫兵衛 平山竜雪 赤塚源六真成 在伊集院 坂木六郎貞明 坂木藤十郎 京都詰 徳田嘉兵衛 文久2年(大久保の同志姓名録) [編集] 有馬新七正義 伊地知竜右衛門正治 吉井仁左衛門友実 江夏仲左衛門栄享 有村俊斎 鈴木勇右衛門重高 税所喜三左衛門篤 奈良原喜八郎繁 野津七左衛門鎮雄 仁礼平助景範 道島五郎兵衛正邦 森山棠園 田中謙助盛明 高島清(貴島清の誤りと思われる) 西郷信吾隆興 村田新八経満 山口彦五郎 平山新助 本田弥右衛門親雄 大山彦八成美 坂元彦右衛門 鈴木源右衛門 森山新五左衛門永治 野津七次道貫 鈴木昌之助 有村幸蔵国彦 谷村愛之助昌武 松方助左衛門正義 森岡善助昌純 永田佐一郎 神宮司助左衛門 柴山竜五郎景綱 大山十郎 伊地知源右衛門 柴山愛次郎道隆 橋口伝蔵兼備 高島三 中島健彦広厚 房村猪之次 田代稲麿 深見休八有幸 木藤彦次郎 大野四郎助 高崎善次郎 竹内三十郎 本田謙 三島弥兵衛通庸 川井田 坂元城 吉田清右衛門 大山弥助巌 楠田助 坂元六郎 赤塚源六真成 山之内作次郎貞奇 五代東一郎 -------------------------------------------------------------------------------- 1.^ この出兵計画実現のため大島から西郷隆盛が召還されたが、西郷は久光の計画に異議を唱えた。さらに久光からの下関滞在命令を無視して上京するなど、挙藩一致の行動が求められる場面で和を乱した行為が久光の怒りを買い、明石で捕縛され、沖永良部島へ流された。 外部リンク [編集] 精忠組脱出計画
お由羅騒動(おゆらそうどう)は、幕末に薩摩藩(鹿児島藩)で起こったお家騒動である。別名高崎崩れ、嘉永朋党事件。藩主島津斉興の後継者として側室の子島津久光を藩主にしようとする一派と嫡子島津斉彬の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こされた。 目次 [非表示] 1 背景 2 発端 2.1 調所の失脚 2.2 お由羅の方の「呪詛」疑惑 3 事件経過 4 騒動後 5 脚注 6 外部リンク 背景 [編集] そもそも事件の名前になったお由羅の方とは、江戸の町娘から島津斉興の側室となった人物である(その出自には三田の八百屋、舟宿、大工等多数の説がある)。彼女が息子・久光の藩主襲着を謀り、正室出生の斉彬廃嫡を目したことが事件の原因とされる。 しかし、これはただお由羅が望んだだけのことではなく、祖父・島津重豪の影響が強い斉彬を嫌っていた斉興や家老・調所広郷等の重臣達の方が久光を後継者にと望んでいたとされる。彼ら久光擁立派は、重豪同様の「蘭癖大名」と見られていた斉彬がこの頃ようやく黒字化した薩摩藩の財政を再び悪化させるのではと恐れていたのである。 それに対し、斉彬の早期の家督相続を希望していた勢力もある。壮年の斉彬にいつまで経っても家督相続せず倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する江戸幕府である。琉球を実効支配し、外洋にも面していた薩摩藩はこの当時多発していた外国船の漂着・襲来事件に巻き込まれる事が多々あった。この為、西洋の事情に疎い斉興より海外事情に明るい斉彬の藩主襲封が望まれたのである。 発端 [編集] 調所の失脚 [編集] 久光は文化14年(1817年)生まれで、文政元年(1818年)に父・斉興のごり押しで種子島家の養子となった[1]が、文政8年(1825年)に斉興の心変わり[2] により種子島家との養子縁組を解消し、島津一門家筆頭の重富島津家へ養子に入ることとなった。名族ではあるが家老どまりの種子島家に対し、重富家の養子ともなれば次期藩主の地位を狙える立場となる[3]。一方で斉興は嫡子である斉彬に対して家督を譲らなかった。これは斉彬が既に将軍家へのお目見えも終了し、将軍・徳川家斉の弟で御三卿の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としていた事もあり廃嫡が不可能とわかり、どうしても斉彬に跡を継がせたくない為、藩主に居続けたものと思われる。 その結果、斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となったが、この頃には嫡子が元服すれば早々に藩主位を譲って隠居するのが習慣であり、この事態は異常であった。聡明であった斉彬にこの様な状態が耐えられる訳が無かった。当時、藩政は下級藩士出身でありながら斉興に重用され、家老にまで上り詰めた調所が強引な改革を進め破滅的だった財政を改善していたが、調所は久光を支持していた。これに対し、国元の若手藩士を中心として斉興と調所に対する不満が高まっていた。 斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848年)、ついに琉球における密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば藩改易に成りかねない紙一重の手段に打って出る。琉球での密貿易は慶長14年(1609年)に藩祖・島津忠恒(家久)の琉球出兵で琉球が薩摩の勢力圏に入って以来、行われてきた公然の秘密で、薩摩藩の主要な収入源の一つであった。調所は密貿易に商人を関わらせ、利益を上げさせることで藩の借金を棒引きにさせていた。調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の嘉永元年12月19日(1849年1月13日)、薩摩藩江戸芝藩邸で急死する。これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう一人で罪をかぶり服毒自殺したものとされる。 これにより調所の排斥には成功したものの、肝心の斉興は隠居しなかった為「斉彬襲封」の実現には失敗した。一方、補佐役を失った斉興はさらに斉彬を恨み、是が非でも久光に跡を継がそうと思う様になった。 お由羅の方の「呪詛」疑惑 [編集] お由羅の方は我が子・久光擁立を計った調所に同情していたらしく、調所の遺児を密かに側用人として召抱える等して支援していた。一方その頃、斉彬は多数の子女を儲けていたもののその多くが幼少の内に死亡しており、生き残っていたのは女子3人だけで、久光の子女が無事に成長していたのとは全く対照的であった。斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が斉彬とその子女を呪ったものである」と考え、お由羅の方及び久光を擁立する家臣を、これを理由として排除しようと計った(事実呪詛していたともいう。当時の高貴な家では生まれた子女が育たないことは珍しくなく、当のお由羅の子も三人中久光以外の二人は夭折している。斉彬家と久光家に何らかの環境や育児法の違いがあったことも考えられるが、それは当時の医学知識では知る由もないことであった)。 事件経過 [編集] ここに及んで斉彬派は江戸家老・島津壱岐や二階堂主計といった改革派に加え、藩内若手の期待を得たのに対し、久光派は島津久宝・久徳・伊集院平・吉利仲といった斉興側近の家老で固め、調所が築いた安定を堅守しようと鋭く対立した。嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立は正に一触即発の状態となり、特に血気盛んな若手の多い斉彬派による久光派重臣襲撃の噂が絶えなかった。その機先を制するかの様に同年12月3日(1850年1月15日)、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門が久光、お由羅及びその取り巻きの重臣らの暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡された(即切腹となったため謀議の真偽については不明)。同罪状でその他3名が切腹を命ぜられ、引き続き斉彬派約50名に蟄居・遠島等の処分が下された。その際に、これを恥じ自裁したものも多い。又、騒動の前に病没していた二階堂は士籍を剥奪される等、斉彬派へ徹底した弾圧がおこなわれた。この禍は本国のみならず江戸屋敷まで及び、嘉永3年4月26日(1850年6月6日)、島津壱岐は更迭され隠居謹慎を命ぜられた(下命の2日後の28日(8日)に切腹)。ここに至って残るは斉彬本人のみとなり、襲封は絶望的であるかに見えた。 この時西郷吉之助(隆永、後の隆盛)は、父・吉兵衛から吉兵衛が御用人をしていた赤山靭負の切腹の様子を聞き、血衣を見せられ、斉彬の襲封を強く願う様になる。また、大久保利通にとってはさらに影響が大きく、琉球館掛を勤めていた父・利世は罷免の上、鬼界島に遠島になり、自らも記録所書役助を免職、謹慎となる等非常に困窮した。これを西郷が援けたという。 騒動後 [編集] 斉興の処分を逃れて脱藩に成功した一部の斉彬派藩士は福岡藩に逃げ込んだ。藩主・黒田長溥は斉彬の年下の大叔父であり、実家の騒動を見過ごせなかった長溥は斉興が脱藩士を引き渡すよう強要するもこれを拒絶、実弟・八戸藩主・南部信順と計って老中・阿部に事態の収拾を訴えた。以前より斉彬を買っていた正弘は将軍・家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請する。家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促したのである(「隠居して茶などたしなむがよい」という意向によるものとみなされ、茶器や十徳を賜るのは隠退勧告とされた)。将軍命令とあっては斉興も拒絶できず、嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、遂に斉興は42年勤めた藩主を心ならずも隠居し、家督を斉彬に譲った。 因みに騒動の首謀者とされるお由羅の方にはその後特に大きな処分はなく、慶応2年(1866年)に鹿児島で死去した。 なお、海音寺潮五郎によると、この問題は斉彬の襲封後も尾を引き、斉彬の急死は「『斉彬の蘭癖が藩を潰す』という懸念が現実になる」と見た斉興による毒殺であり、久光が毒殺に関与していると西郷が考えたのが久光と西郷の確執の原因であるという。 脚注 [編集] 1.^ 島津家に限ったことではないが藩主家において次期家督相続の可能性が薄い3男以下については藩重臣の養子にすることがあった。しかしこの養子縁組みに対して種子島家側からはかなりの反発があったのは事実である。詳細は種子島久道参照。 2.^ この時点で、島津家に残っていた斉彬や池田斉敏を除く、周子やお由羅出生の子息が次々死去し、藩主後継者のストックに問題が出ていたという藩政上の理由であった可能性もある。実際に文政9年には次男池田斉敏が岡山藩主家に行き、島津本家に残る斉興の息子は斉彬一人になっている。 3.^ ただし、それまで重富家から藩主継承者を輩出した実績はなかった。 外部リンク [編集] 『南国太平記』(青空文庫) - (この騒動を題材にした直木三十五の小説)
池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋(北緯35度0分32.2秒 東経135度46分11.6秒 座標: 北緯35度0分32.2秒 東経135度46分11.6秒 )に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。 幕末の京都は政局の中心地となり、尊王攘夷・勤王等の政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していた。長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派は勢力挽回を試みており、京都守護職は新選組を用いて市内の警備や捜索を行わせた。 5月下旬頃、諸士調役兼監察の山崎烝・島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め会津藩に報告。武器や長州藩との書簡等が発見された。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものであった。 さらに探索によって、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止めた。 現在の三条小橋 捜索 [編集] 新選組は会津藩・桑名藩等に応援を要請したが、会津らの動きが遅く、時刻になっても動かなかった。このため事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊と土方隊の二手に分け捜索を開始した。当時、新選組では病人が多い等の理由で人手が少なく実際に捜索に当たったのは近藤隊10人・土方隊24人の総数わずか34名だった(異説有り、出動隊士一覧を参照)。新選組は八坂神社から縄手通を土方隊、三条大橋を渡って木屋町通を近藤隊が探索した。 戦闘 [編集] 亥の刻(22時頃)過ぎ、捜索の末に近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線離脱した。また1階の藤堂は汗で鉢金がずれたところに太刀を浴びせられ、額を斬られ血液が目に入り戦線離脱した。 襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図った。裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1ヶ月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。 新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。 この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し20余名を捕縛した。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。 翌日の正午(夜のうちに帰ったのでは闇討ちの恐れがあるため夜が明けるまで待機していた)、新選組は壬生村の屯所に帰還した。沿道は見物人であふれていたという。 桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気付いた小五郎は、現場に駆けつけようとしたが大島友之允に制止されたため思い留まったと小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されている。本人の回想とは別に、京都留守居役であった乃美織江は手記に「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している。 影響 [編集] 御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟いた。逆に尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの逸材が戦死し、大打撃を受ける(彼らは後の新政府により俗に「殉難七士」と呼ばれる)。落命した志士達は三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られた。 長州藩はこの事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、7月19日(8月20日)に禁門の変を引き起こした。 池田屋事件により逸材たちが落命し明治維新が1年遅れたとも、逆に尊攘派を刺激してしまい維新を早めたともいわれる。作家の司馬遼太郎は、「この事件がなかったら薩長土肥主力の明治維新は永遠にこなかったであろう」と解釈している。 異説 [編集] 池田屋事件は冤罪だとする説もある。「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇拉致」などの尊攘派の陰謀は幕府側の記録にはあるものの尊攘派側の記録には一切なく、『木戸孝允日記』にも、このとき池田屋で計画されていたのは新選組に逮捕監禁されている仲間(古高俊太郎)を救うための会合としか記されていない。証拠と言えるものは土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させられた古高が語ったとされる発言のみで、その古高も早々に処刑されており、客観的な証拠が乏しく尊攘派の威信失墜や新選組の威信高揚を狙った捏造もしくは誇張の可能性がある。 近藤は故郷への書簡の中で、当日は病人が多く人手が少なかったとしているが、事件直前に脱走者が多く出ていたためとする説がある。 司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』などでは、山崎烝が薬屋に変装し事前に池田屋に潜入して探索し、突入前に戸の錠を開けたことになっている。しかし、山崎の確報があったならば最初から主力を池田屋に差し向けたはずであり、山崎の名は褒賞者名簿には無いことから、実際は屯所残留組であったと推定される。 近藤の書簡や永倉新八の手記『浪士文久報国記事』によると、当日は近藤隊10名、土方隊12名、井上源三郎隊12名の三手に別れて探索を行っており、応援に駆けつけたのは井上隊である。 近藤の書簡によると池田屋に乗込んだのは、近藤、沖田、永倉、藤堂、近藤周平の5名ということになっているが、永倉の手記や、事件後の褒賞者名簿から推定すると、近藤、沖田、永倉、藤堂、奥沢、安藤、新田、谷万太郎、武田観柳斎、浅野薫の10名である。 沖田は肺結核で喀血し離脱したともいわれるが、永倉の手記によると「病にてひきとる」とのみ記されており、喀血したかどうかは不明。 桂小五郎の手記によると、池田屋での会合は古高捕縛後に急遽決定されたものなので、事前に新選組が場所を察知していたとは考えにくい。永倉新八は「片っ端から」探索した旨述べており、また事件直前に祇園の井筒屋に新選組が探索を行った記録があるため、実際には会合場所がどこであるかは把握しておらず、多くの場所を探索していたと考えられる。 新選組出動隊士一覧 [編集] 池田屋事件に出動した新選組隊士は以下の通り(諸説有り) 近藤隊(10名) 近藤勇 沖田総司 永倉新八 藤堂平助 武田観柳斎 谷万太郎 浅野薫(藤太郎) 安藤早太郎 奥沢栄助 新田革左衛門 土方隊(12名か24名) 土方歳三 井上源三郎 原田左之助 斎藤一 島田魁 谷三十郎 川島勝司 葛山武八郎 蟻通勘吾 篠塚峰三 林信太郎 三品仲治 松原隊(12名) - 諸説有り。井上隊とも、土方隊とも。 松原忠司 宿院良蔵 伊木八郎 中村金吾 尾関弥四郎 佐々木蔵之助 河合耆三郎 酒井兵庫 木内峰太 松本喜次郎 竹内元太郎 近藤周平 屯所守備 山南敬助 尾関雅次郎 柳田三二郎 山崎烝 尾形俊太郎 山野八十八 なお、当時所属していた馬詰信十郎・馬詰柳太郎はこの日に脱走した為に不参加。 尊王攘夷派志士 [編集] 池田屋事件で襲撃された主な志士 宮部鼎蔵 (肥後藩。池田屋で自刃) 北添佶摩 (土佐藩。池田屋で闘死) 大高又次郎 (林田藩。池田屋で闘死) 石川潤次郎 (土佐藩。池田屋で闘死) 松田重助 (肥後藩。池田屋で闘死) 伊藤弘長 (土佐藩。池田屋で闘死) 福岡祐次郎 (松山藩。池田屋で闘死) 越智正之 (土佐藩。池田屋で闘死) 広岡浪秀 (長州藩の神職。池田屋で闘死) 吉田稔麿 (長州藩。脱出後自刃) 望月亀弥太 (土佐藩。脱出後自刃) 杉山松助 (事件を知り長州藩邸から駆けつけるが会津藩兵に斬られ、後に死亡) 野老山吾吉郎 (土佐藩。池田屋付近を通りかかり三条小橋で負傷後、長州藩邸で自刃) 藤崎八郎 (土佐藩。池田屋付近を通りかかり三条小橋で負傷後自刃、あるいは大坂土佐藩邸に送られた後死亡とも) 近江屋まさ (近江屋女将(42歳)。近江屋で殺害される。「ふさ」とも) 酒井金三郎 (長府藩。縄手後で殺される) 内山太郎右衛門 (長州藩の無給通士。捕まり、7月20日に刑死) 佐伯稜威雄 (長州藩の神職。捕まり、慶応元年6月4日に刑死) 佐藤一郎 (長州藩京都藩邸吏。捕まり、7月20日に刑死) 山田虎之助 (長州藩の無給通士。いったん脱出。後に捕まる) 大高忠兵衛 (林田藩。大高又次郎の弟。いったん脱出。後に捕まり、7月4日に獄死) 北村善吉 (又次郎の門人。槍傷を負うが、池田屋裏から川辺に逃れ、舟入の中へひそんで助かる) 瀬尾幸十郎 (捕まる) 安藤鉄馬 (捕まるが逃れる) 沢井帯刀 (捕まる) 大中主膳 (捕まる) 森主計 (京。捕まる) 西川耕造 (京。いったん脱出。10日後に捕まり、元治2年2月11日に獄死) 木村甚五郎 (京。捕まる) 今井三郎右衛門 (豊岡藩(46歳)。捕まり、刑死) 村上俊平 (上田藩。捕まり、刑死) 河田佐久馬 (因州。捕まり、刑死) 高木元右衛門 (長州藩。脱出) 宮部春蔵 (肥後藩。鼎蔵の弟。長州藩邸へ逃れる) 岩佐某 (丹波。池田屋の風呂桶の中に隠れて助かる) 有吉熊次郎 (長州藩。長州藩邸に脱出) 大沢逸平 (長州藩。長州藩邸に脱出) 渕上郁太郎 (久留米藩。脱出) 松山良造 (京。脱出) 田中長九郎 (京。捕まる) 吉田五郎 (越前出身。捕まる) 南雲平馬 (上野利根郡沼田村出身。捕まる) 国重正文 (長州藩。脱出) 池田屋事件で捕まった一般人 入江惣兵衛 (池田屋主人。獄死) 入江彦助 (惣兵衛の弟) 近江屋宇兵衛 (近江屋主人) 近江屋きん (近江屋の人) 近江屋とき (近江屋の人) 和泉屋重助 (和泉屋主人。刑死) 幸次郎 (和泉屋手代。刑死) 丹波屋次郎兵衛 (丹波屋主人。刑死) 丹波屋万助 (次郎兵衛の子。刑死) 松下喜三郎 (町人) 吉兵衛 (町人) 勇助 (町人) など 事件後の池田屋 [編集] 事件後、池田屋は尊攘派志士をかくまっていたとして主人の池田屋惣兵衛は捕らえられ獄死した。池田屋も7ヶ月間の営業停止となった。親類により近くで再開したが、のちに廃業し現存しない。 元の池田屋は人手に渡り、その後別の経営者が佐々木旅館として営業していた。1960年頃まで当時の建物も遺っていたが、その後取り壊され佐々木旅館も廃業。跡地はテナントビルやパチンコ屋など転々としたが、2009年に居酒屋チェーンのチムニーが居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」を開業している。 当地には佐々木旅館の縁者が建立した「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑がある。 参考文献 [編集] 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 中村武生『池田屋事件の研究』、講談社現代新書 関連項目 [編集] 明保野亭事件 禁門の変
高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日)- 慶應3年4月14日(1867年5月17日))は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。 諱は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は初め楠樹、後に東行と改め、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。他に些々などがある。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵と改名。 栄典は贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。 目次 [非表示] 1 生涯 1.1 誕生 1.2 留学 1.3 尊王攘夷運動 1.4 下関戦争と奇兵隊創設 1.5 功山寺挙兵 1.6 四境戦争 2 逸話 3 系譜 4 脚注 5 参考文献 6 関連作品 6.1 小説 6.2 映画 6.3 テレビドラマ 6.4 漫画 6.5 舞台 6.6 ゲーム 6.7 フィギュア 6.8 歌謡曲 7 外部リンク 生涯 [編集] 誕生 [編集] 剣術防具姿の高杉晋作 長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)・みちの長男として生まれる。かなり裕福な家であったらしく、若い頃の剣道着姿の写真が残っている(当時、写真を撮る事ができる層は限られていた)。 10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。内藤作兵衛に柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を見舞うが、松陰は10月に処刑される。万延元年(1860年)11月に帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組・500石)の次女・まさと結婚する。 留学 [編集] 文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。神道無念流練兵館道場で剣術稽古。8月には東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』によれば大きな影響を受けたとされる。 尊王攘夷運動 [編集] 長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、高杉も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共に尊攘運動に加わり、江戸・京師(京都)において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。 文久2年(1862年)、高杉は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば……」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎)[1]が相談した。しかし久坂が土佐藩の武市半平太に話したことから、これが土佐前藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。 この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を江戸から召還する。 下関戦争と奇兵隊創設 [編集] 文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する(下関戦争)。高杉は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。 京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、高杉は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害する。 8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。時に高杉晋作、24歳であった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した。これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはなく、ずっと後年の伊藤の回想に依拠しているため、真実か否かは不明である[2]。 功山寺挙兵 [編集] 高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)(左の少年は山田顕義) 功山寺挙兵の銅像 幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。 同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。 慶応元年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる(明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名し現在に至る)。高杉本家は義兄の春棋が継いだ。 四境戦争 [編集] 晋作は再度の長州征討に備えて、防衛態勢の強化を進める。慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、晋作も桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長盟約が京都薩摩藩邸で結ばれる。 5月には伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入。 6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として「丙寅丸」に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還。小倉方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させた。その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させた。その後さらに攻勢に出るも小倉城手前で肥後藩細川家の猛反撃に合い、一時小康状態となる。細川家は元の小倉城主であった。 しかし、幕府軍総督・小笠原長行の臆病な日和見ぶりに激怒した肥後藩細川家をはじめとする幕府軍諸藩が随時撤兵し、7月には将軍・徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと小倉城に放火し戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となり、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還への大きな転換点となった。 その後、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、慶応3年4月14日(1867年5月17日)、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去る(享年29)。臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼と山県狂介、田中顕助が立ち会ったとされるが、田中の残した日記によれば、彼はその日京におり、詳細は定かではない。 墓所は山口県下関市。なお、木戸孝允・大村益次郎らによって、現在の靖国神社に、東京招魂社時代の始めから吉田松陰・久坂玄瑞・坂本龍馬・中岡慎太郎たちと共に表彰・鎮魂され、祀られている。 墓所・東行庵 (下関市) 墓 (東行庵敷地内) 逸話 [編集] 所謂、辞世の句について、 「おもしろきこともなき世におもしろく」 「おもしろきこともなき世をおもしろく」 の両説あるが、高杉直筆になる句が残されていないため、正確なところは不明。なお東行庵の句碑には「に」とあり、防府天満宮の句碑では「を」となっている。古川薫、司馬遼太郎の著書では「を」が採用されている一方、一坂太郎は「に」を採用し、「『を』は後年の改作であろう」としている。 かつては死の床にあった高杉が詠み、彼を看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと言われていたが、近年の研究によればこの句は死の前年にすでに詠まれていたという記録があり、正確には辞世ではないという説が有力である(ただし死の間際に詠んだ句でなくとも、人生最後に詠んだ句は辞世と扱われる事もある)。 都々逸「三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」(添寝の部分が『朝寝』とされていることもある)は一般に晋作の作であると言われている(木戸孝允作の説も有り)。この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。 顕彰碑には「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」 とある。これは伊藤博文が高杉晋作を評した言葉である。 高杉は長身ではなく小柄であり本人もそれを気にしていたため直立して撮った写真は現存しない。また小柄ではあったが長い刀を好んで愛用していた。その姿は刀が長いため引きずって歩いているように見えたという。 師である吉田松陰は高杉の非凡さを逸早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない高杉を奮起させるためあえて、同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。高杉は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。久坂と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなどとても優秀であったという。 公金と私金の区別がつかない(つけない)人物だった。藩の金で軍艦を二度、購入しようとしたこともある。 一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれ刀を見せた事があったが、武士の魂ともいえる刀を物めずらしいと何度も見せてくれと言われその事を遺憾に感じた高杉はそれ以後決して見せる事は無かったという。 高杉が上海で購入したピストルが、坂本龍馬に贈られた。 のちに伊藤博文は彦島の前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語っている。 |一覧| |